月下の陣 |
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宵の篝(かがり)火かげうせて 木枯しふくや霜白く 夜は更け沈む広野原 駒も蹄をくつろぎつ 音なく冴ゆる冬の月 楯を褥(しとね)の武士(もののふ)は 明日をも知らで草枕 夢は何処(いずこ)をめぐるらん 昼の戦い烈しさに 当たるを得手と斬りまくり 思うがままの手柄して 今宵は此処に宿り木の 身はまだ解かぬ鎧下 上ゆく雁に夢やぶれ そぞろに見るや故郷(ふるさと)の 雲井はるかにかかる月 国を思えば雄心(おごころ)に 家は忘れて魂(たま)きわり ただ身ひとつをなき数に 入る狭の山の月影を 水にむすびて明日はまた 刀の目釘つづくまで 腕によりをばかけ襷(だすき) 華々しくぞ戦わん |
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まあ、戦後生まれの人は軍歌を真面目に聴こうなどと考えることは(よほどの物好きでもない限り)ほとんどあり得ないのではないかと思います。私も最近まではそうでしたし、今でも家族に聴かせることはちょっとためらってしまいます。
(ただでさえ我が家は様々なジャンルの音楽が無茶苦茶に見境なく流れているので、うちの子供は童謡から懐メロ、クラシック(あまり好きでないようだ)、民謡にポップスと何でも覚えて 口ずさむのですが、やっぱり「天に代わりて不義を討つ」とか「若き血潮の予科練の」とか大きな声で歌われるのはなんかイヤです。理屈ではどうということはないはずなのですが、それだけこれらの歌をタブー化しようとする力が強く働いているということなのでしょう...「根拠があまりないけどなんかイヤ」というのは差別などに繋がる心のありようなのでできるだけ持たない努力をしないといけないのですけれど)
そうは言いつつも今年は戦後60年の節目の年でもあり、少し先の戦争にまつわる歌も知らんぷりはできないな、と色々調べたり聴いたりすると、思わぬところで思わぬ発見があって結構刺激的です。中でもこの作品はCDから初めて流れだしたときにはビックリしました。
ベルリーニのオペラ「ノルマ」の第一幕、ノルマの父のドルイド教神官オルヴェーゾが民衆と共にローマ帝国の侵略に立ち向かう決意を歌う合唱“Dell'aura Tua Profetica”に乗せて、上でご紹介したような往時の武士(もののふ)たちのしばしの夜の休息の情景が歌われています。「元寇」や「雪の進軍」の作詞作曲で有名な陸軍軍楽隊の永井建子(けんし)が日清戦争前、「古典做作」ということでこのメロディに合うように歌詞を付けたものだといいますが、聴いていても全く不自然さがない見事なハマりかた。詩の美しい情景描写は見事です。
もっとも当時はこんな感じの西洋音楽を十分に歌いこなせるほど日本人は洋楽になじみきってはいなかったということで、当時の軍歌の代表作である「敵は幾万」や「歩兵の本領」「皇国の守り」などとはあまりに異質で流麗な音楽(なにせイタリアオペラでも指折りのメロディスト・ベルリーニの作品ですからその雄弁さは飛び抜けています)、あまり上手には歌いこなせなかったのではないかという気もします。残念ながら当時の録音というのは残っていない(蓄音機普及前なので残しようがない)のですが、今出ている「日本の軍歌 明治・大正編」というので戦前の録音(陸軍戸山学校軍楽隊)でも聴くことができます。歌詞も日本の戦国時代の武士たちの物語、決してダイレクトに明治以降の近代戦争のことを歌っているわけでもありませんし、戦前の軍国主義的な主張があるわけでもありません(確かに戦いの描写やそれに臨む決意は描かれていますが、この程度の描写であれば「宇宙戦艦ヤマト」あたりにでもありそうな内容。「国を思えば」のところで軍国日本を連想してキーッとなってしまう人もいるのかも知れないですが、ここでの戦国武士たちの心意気は「国家」ではなくて「故郷」を思う心意気のように私には感じられます)。
イタリアオペラの100年以上も前の日本における受容の記録として封印されてしまうにはあまりに惜しい文化遺産だと思うのですが、ディープな軍歌のファンにしか知られていない曲になってしまっているのが現状でしょうか。変なクラシックの歌を見つけてくることでは人後に落ちないと自負している私ですらつい最近まで知らなかったのですから。
( 2005.07.29 藤井宏行 )