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ON THE STREET WHERE YOU LIVE    
  My Fair Lady
君住む街で  
     ミュージカル「マイ・フェア・レディ」

詩: ラーナー (Alan Jay Lerner,1918-1986) アメリカ
      

曲: ロウ (Frederick Loewe,1904-1988) アメリカ   歌詞言語: 英語


詩:著作権のため掲載できません。ご了承ください
[フレディ]
(ヴァース)
あの子が語ったとき 叔母さんがスプーンを噛み千切ったことを
あの子は完全にぼくをヤッちまった
そしてぼくの心は旅立ったのさ 月へと
あの子が話したとき あの子の父さんとジンとの関係を
そしてぼくは今まで見たことがなかった あれ以上魅力的なコメディを
あの瞬間 彼女がこう叫んだ
「動かさんかい お前のでかい...」?

(コーラス)
ぼくはよく歩いてた この通りを 以前も
舗装はいつもじっとしてたのに ぼくの足の下に 以前には
とつぜん ぼくは何階もの高みに舞い上がる
知ったからさ ぼくが居る通りは 君が住んでいるところだと

ライラックの木々はあるだろうか 町の中心に?
聞こえるだろうか ヒバリが 町のどこか他の場所で?
魅惑が注がれるだろうか すべてのドアから?
いや それは君が住む通りにあるだけだ!

そして おお! そびえ立つ思い
ただ知っているだけで 君がどこか近くにいると
この抑えきれない感覚
今すぐにでも君が突然現れるのではと!

人々は立ち止まって見つめてくるけど
彼らはぼくには気にならない
なぜなら他のどこにもないからさ この地上にぼくが居たいところは
時よ過ぎ行け ぼくは気にしない もしもぼくが
ここに居られるなら 君が住んでいる通りに


人々は立ち止まって見つめてくるけど
彼らはぼくには気にならない
なぜなら他のどこにもないからさ この地上にぼくが居たいところは
時よ過ぎ行け ぼくは気にしない もしもぼくが
ここに居られるなら 君が住んでいる通りに

(詞は大意です オリジナルキャスト盤ではヴァースの部分は収録されておりませんがせっかく訳したので載せておきます)

最近読んだ本でとても面白かったのが、京都府立大での公開講座を本にした

 講座「マイ・フェア・レディ」〜オードリーと学ぼう、英語と英国社会
   (米倉綽 編 英潮社)

でした。府立大の英文学・独文学の先生方がマイ・フェア・レディだけでなくその原作であるバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」まで題材に持ち出して英国の階級社会から言語学、はたまた映画の表象文化論まで多彩に論じていてとても刺激的。
非常によくできたショーの原作をかなり忠実にミュージカル化し、それをまた舞台そのままに映画化しているだけに、深く読み込むといろんなことが語れるのですね。
どの章も勉強になりましたしスリリングだったのですが、中でも繰り返し何回も読まされてしまうほどハマったのが、ヨーロッパのダービー文化(+日本のケイバ)を多彩に論じた

  ドバと呼ばないで-アスコット競馬に行くイライザ(青地伯水・浅井学)

と、女性学の観点などを織り交ぜながら「あなたならヒギンズとフレディのどっちを取るの?」という究極の選択を語った

  女性の自立 -イライザの運命や如何に?- (野口 祐子)

の2編でした。
残念ながら私は「馬事文化の研究」はお金をつぎ込んでまで深くしたことがないので前者についてはあまり論じられませんので、後者についてもう少し。

映画やミュージカルの「マイ・フェア・レディ」というと、貧しい花売り娘イライザが厳しいトレーニングの末、完璧な発音と身のこなしを身に付けて舞踏会にデビューするというシンデレラストーリー(というよりも「エースを狙え」みたいなスポーツ根性ものに近いか?...やってる内容はスポーツじゃないですが)と語られることが多いですが、そんな表層的なところを越えてもっと深いものをこの映画は語っているのです。
舞踏会での大成功のあと、イライザはヒギンズ教授と大喧嘩して家出します。ショーの最初の原作(1914)ではもうそれで戻ってこない結末、1916に戯曲が出版されたときの後日譚(解説)では彼女に惚れているお坊ちゃまフレディと結婚して花屋をやっているという話もあり、そして1938年の「ピグマリオン」の映画化にあたって初めてイライザはヒギンズのもとに戻ってくるラストに変わります。つまりバーナード・ショー自身がいくつかの違った結末を用意しているのですね(以上 本書の野口さんの記述より)。
そんな話もあって、公開講座で「先生ならヒギンズとフレディのどちらと結婚しますか?」という質問になったのだそうですが、確かに趣味に引きこもって他人とうまくコミュニケーションできないオタク親父のヒギンズと、恋にメロメロになっている頼りない(生活力なさそう)なマザコン青年フレディのどちらを取るか?というのは究極の選択。
しかも今の日本には、そんな男ばかりがうじゃうじゃいるのですから女性にとっては切実な問題かも...(ひとごとではない)

もっとも、イライザの側にしても、貧しいながらも花を売りながらしっかり自立していたのが、ちょっとばかり向上心を持ってしまったがためにヒギンズのところでとんでもない改造実験をされてしまい、もとの自立した花売り娘にも、さりとて上流の貴婦人にもなれない中途半端なサイボーグのような不幸が...(カルト集団にはまった若い女性のことを連想してしまいました)
そんな観点(うがち過ぎですか?)からもう一度映画を見直したり戯曲を読み直したりすると、いろいろと考えることの多い作品です。

そしてもしミュージカルがハッピーエンドで終わるとしたら、それはイライザがヒギンズのもとに戻ってきたことではなくて、これからヒギンズが彼女の影響を受けてどう成長していくか?にかかってくるのですね。オタクの夫をどう育てて人の心を大事にできる人にするか?結構面白い後日譚が書けそうですが、そんな作品ないのでしょうかね。
結構現代日本では切実な問題のような。もっともあまりドラマとかにしてもウケないような気もしますけれど。

ということで(どういうこと?)ミュージカル、マイ・フェア・レディから1曲、舞台では恋に結局破れたことになるフレディの歌うこの曲。彼女と一目会えるかも知れないと、家の周りをうろうろしながら歌う姿は今の感覚でいえばストーカーでしょうが、メロディは息を飲むほど美しいです。
その美しさに惹かれてか、多くの人が歌っています。クラシックの歌手でも、ハドリーやターフェルといったミュージカルもお得意な歌手ばかりでなくジョージ・ロンドンとかヘルマン・プライなんて人の録音がありますし、ポップス、スタンダード系に至ってはナット・キング・コール、ドリス・デイ、メル・トーメ、アンディ・ウイリアムス、ディーン・マーチンetcと数限りないほど。いろいろな編曲スタイルで聴けるのもこの曲ならではです。
ミュージカルの舞台に目を転じると、オリジナル・ブロードウエイキャストで歌ったジョン・マイケル・キングは優男フレディのイメージと違い、結構貫禄のある歌い振り。むしろ映画でのジェレミー・ブレットの方が役のイメージに近いなよっとした感じが良く出ています。
日本語のミュージカルは私はあまり聴かないので分かりませんが、面白いキャスティングだな、と思ったのが1995年の羽賀研二さん。歌は聴いていませんがキャラのイメージそのままな感じがGOODです。

( 2005.05.28 藤井宏行 )


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