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現代節    
 
 
    

詩: 添田唖然坊 (Soeda Azenbou,1872-1944) 日本
      

曲: 添田唖然坊 (Soeda Azenbou,1872-1944) 日本   歌詞言語: 日本語


新案特許品よくよく見れば
小さく出願中と書いてある
  アラ ほんとに 現代的だわネ

金持はえらいもの芸者をつれて
自動車とばせる慈善会
  アラ ほんとに 現代的だわネ

独身主義とはそりゃ負け惜しみ
実のところは来手がない
  アラ ほんとに 現代的だわネ

新しい女といふてるうちに
いつの間にやら古くなる
  アラ ほんとに 現代的だわネ

お清泡鳴はまじめなバカよ
痴話喧嘩を裁判所へかつぎ込む
  アラ ほんとに 現代的だわネ

あまい言葉もまたおどかしも
さめたノラには甲斐がない
  アラ ほんとに 現代的だわネ

子爵伯爵なにほしからう
わたしの宝は肥びしゃく
  アラ ほんとに 現代的だわネ

従者ひきつれ生徒が通ふ
通ふ先生は腰弁当
  アラ ほんとに 現代的だわネ

ぼくに君から十円くれりや
君にぼくから五円やる
  アラ ほんとに 現代的だわネ

死んだあとでの極楽よりも
この世でらくらく生活したい
  アラ ほんとに 現代的だわネ

ハイカラ女の讃美歌よりも
おらがカカアの田植歌
  アラ ほんとに 現代的だわネ

貧にやつれて目をくぼませて
うたふ君が代千代八千代
  アラ ほんとに 現代的だわネ



団塊世代のフォークミュージックのファンの方なら、もしかすると高石友也や高田渡の歌うカントリーフォークのメロディで「しーんあん とっきょひん...」と飄々と歌われていたのをご記憶かも知れません。実はこの曲の歌詞はずっと古く大正時代、反骨の演歌師・添田平吉(唖然坊)が作ったこのような詞を引っ張ってきているのです。もちろんメロディは彼らが歌ったようなアメリカンスタイルではなくもっと無骨な、まさに××節と呼ぶにふさわしいものであったのですが、詞の方はそのまま高石や高田が使っているようにまるで古さを感じさせません。でもちょうど90年前の歌なのですからそのセンスには驚くばかり。今に通じるフレーズもそこかしこにあります。というのもよくよく調べてみるとこの大正の初め頃、第一次世界大戦の特需景気に沸いてにわか金持ちが続出、また女権拡張運動も盛んであったり、政党政治が腐敗していたり、と本当に現代日本の状況に良く似ているのです。だからこそ今の世にもそのまま生きる内容なのでしょう。大正の歴史を調べると、今私たちが「現代的だわね」と思い込んでいるほとんどすべてのものが何らかの形でその当時もあったことを教えられてびっくりするのですが、あまり現代人には注目されていない時代でもあります。でもこの詩に歌われているように豊かでちょっと退廃した時代が、震災や大恐慌とともにやがて暗い時代へと転じていく姿は何か象徴的。そんな目でこの歌詞をみると感慨深いものを感じませんか?

何箇所か補足しておきますと、「新しい女」というのはちょうどこの頃、平塚らいてう(雷鳥)らの始めた女性の地位向上運動(青鞜社)を皮肉っているようです。反骨の象徴だった演歌師たちも、時代の変化の中で突出してきた女性たちにはちょっと批判的だったのでしょう。無骨な壮士たちが「自由民権」と叫んでいた流れを汲む男社会であったがゆえにそれは仕方ないことではあります。また「ノラ」とあるのはイブセンの戯曲「人形の家」の主人公。当時翻訳の舞台がかかって評判をとったのでしょうか。
また「お清泡鳴はまじめなバカよ」とあるのは、作家岩野泡鳴と同棲していた婦人解放活動家の遠藤清子のこと。最初は夫婦別姓であったり、肉体関係のないプラトニックな同棲生活であったこと、そしてやがてこの結婚生活が破綻したときの離婚訴訟は「新しい女」が絡むことだけに世間の好奇の目を浴びたのでしょう。丁度現代でもとんがった生き方をしている作家や芸能人たちがそうであるように...

唖然坊の歌は面白いのが多いので、これからもちょくちょく取り上げたいと思います。

( 2005.05.22 藤井宏行 )


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