Come away,death Op.6-1 Three Shakespeare Songs,Op. 6 |
来たれ、死よ 3つのシェイクスピア歌曲 |
Come away,come away,death, And in sad cypress let me be laid; Fly away,fly away,breath; I am slain by a fair cruel maid. My shroud of white,stuck all with yew, O prepare it; My part of death,no one so true Did share it. Not a flower,not a flower sweet, On my black coffin let there be strown; Not a friend,not a friend greet My poor corpse where my bones shall be thrown; A thousand thousand sighs to save, Lay me,O,where Sad true lover never find my grave, To weep there. |
来たれ、来たれ、死よ、 そして哀しき糸杉の中に私を横たえておくれ。 飛び逝け、飛び逝け、息よ、 私は美しくも非情な女に殺されたのだ。 白い布を、イチイで一面飾られたものを おお、用意しておくれ。 いまや死の世界の私、私ほど誠実に愛して 死を分かつ者は誰ひとりいない。 一輪の花も、一輪の甘き花も わが黒い棺に投げ入れることのないように。 友一人、友一人さえ 投げだされる我が哀れなる亡骸を送ることのないように。 千もの、千もの嘆息は胸に秘めたままで、 私を横たえておくれ、おお、 哀しき誠の恋人が決して見出すことのない我が墓に、 そこで彼女が泣くつもりだった墓に。 |
シェイクスピアの詩はイギリス内外の作曲家たちを惹きつけ、多くの音楽が生み出されている。
クィルターもその一人で、シェイクスピアの詩による独唱とピアノのための歌曲が現存するものだけで17曲作られており、そのいくつかは今も親しまれている。
この「来たれ、死よ」は、1905年に作曲、出版された「3つのシェイクスピア歌曲Op. 6」の第1曲で、シェイクスピアのロマンティック・コメディの傑作「十二夜Twelfth Night; or,What You Will」の中で道化のフェステFesteによって歌われる詩(第2幕第4場)である。この詩にはほかにスタンフォードStanford(Varcoe & BensonのCD)やシベリウスSibelius(Kim Borg & MooreのDVD)による付曲もあり、比較すると面白い。
シェイクスピアの「十二夜」は1601年から1602年はじめにかけて、多数の喜劇作品群の最後、そして「ハムレット」に始まる悲劇創作の時期の直前頃に作られたのではないかと推測されている。少なくとも1602年2月2日に上演されていることは確認されており、1601年1月にトスカーナのオースィーノー公爵を招いてシェイクスピア劇団の上演があり、その後、この公爵の名前を拝借して「十二夜」が書かれたのではないかという説が説得力が強いように思える。「十二夜」というのはクリスマスから数えて十二日目(ヴォルフのゲーテ歌曲にもある「顕現節」にあたる)の夜のことで、この日に上演するように作られたのではないかと言われている(内容に十二夜と関係する箇所がないため)。
内容は男装した女性を含めた三角関係を主軸に、意地悪な執事への復讐(悪戯)を織り込んだ喜劇で最後はすべて丸くおさまる(復讐された執事は後味の悪い終わり方だが)。ここで主役たちの脇で第三者のようでいながら、事態をかき回しているようでもある道化フェステによっていくつかの歌が歌われ、その3曲いずれにもクィルターは作曲している。
ちなみにガンジー役でオスカーを受賞したベン・キングズレー(主役を食うほどの名演技です)が道化を演じた1996年の映画「十二夜」(トレヴァー・ナン監督)が、原作にかなり忠実なシナリオなので興味のある方はぜひ!(DVDにもなっています)
「十二夜」の中で道化に「来たれ、死よ」を所望するオースィーノー公爵が、この歌について描写している件がある。
“古い素朴な歌だ。日向で無邪気な娘たちが、糸をつむいだり、編物をしたり、針を動かしたりしながらよく口ずさむ歌なのだ。飾り気のない真情を、無垢な恋心を、のどかに歌いあげているところは古代の姿をほうふつさせる”(小田島雄志訳、白水社)
仕事をしながら気楽に口ずさむ歌のわりには重い内容に思えるが、そもそも道化が歌うのだから、芝居の中では一種の流行り歌のような感じで軽く歌われるのかもしれない。シェイクスピア時代の戯曲中の音楽が楽譜で残されているものもあるようだが、「来たれ、死よ」に関しては残されていないらしい。クィルターの曲は2節の変形有節歌曲で、第2節はピアノパートに細かい彩りが加わり、歌も一緒に高揚していく。戯曲で道化が歌うという設定はほとんど無視したかのように、詩の深刻なイメージに基づいた、心にくいこんでくるような曲が付けられている。
(「十二夜」の成立事情や詩の解釈などは安西徹雄氏、小田島雄志氏、柴田稔彦氏の研究を参考にさせていただきました。)
エインズリーJohn Mark Ainsley(T)・マーティノーMalcolm Martineau(P):1996年2月:Hyperion:CDA66878:この曲の演奏として、これ以上はないと思えるくらい感動的な演奏だった。エインズリーの声は美しく、格調もありながら、充分な力強さも備えていて、心に染み入る。マーティノーの繊細なタッチがとろけるように美しい。
ボストリッジIan Bostridge(T)・ドレイクJulius Drake(P):1999年2&3月:東芝EMI:TOCE-55094:いつもながらの知性的なアプローチを聴かせるボストリッジだが、個人的にはもう少しメロディの美しさに自然にゆだねた方がいいのではと思った。ドレイクは控えめながら美しい。
ターフェルBryn Terfel(BR)・ マーティノーMalcolm Martineau(P):2003年7月&2004年7月:DG:00289 477 5336:ターフェルは抑えた歌いぶりだが彼ならもっと深い共感をこめることが出来るのではないか。マーティノーも低く移調しているせいかエインズリーの時ほど心に迫ってこなかった(このアルバムはイギリス歌曲のアンソロジーとしてとてもいい選曲で、多くの作品でターフェルの良さがよく出ていた)。
ラファエルMark Raphael(BR)・グリンクFrederick Grinke(VLN)・ギルバートMax Gilbert(VLA)・ウィザーズHerbert Withers・(VLC)・クィルターRoger Quilter(P):1934年11月:2002年に出版されたValerie Langfield著のクィルターの伝記(ISBN 0 85115 871 4)にクィルター自作自演のCDが付いていて、歌曲、管弦楽曲37トラックでピアニスト、指揮者としてのクィルターを聴くことが出来る。この曲は弦のオブリガート付きの形で演奏されていて悲哀感の強まった感動的な演奏である。ラファエルというバリトンは素直で誠実な歌が好感を持てるし、ピアニストとしてのクィルターは技術も音楽性もなかなか見事だった。
( 2005.05.16 フランツ・ペーター )