復興節 |
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詩:著作権のため掲載できません。ご了承ください
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大正12年9月、首都圏を大地震が襲いました。木造の家屋が密集して建っていた東京ではあちこちで大火災が起こり、大勢の被災者が出てしまいます。
明治の自由民権運動から大正にかけては、公道などで世相や政治の批判を歌にして語る演歌師が活躍しておりましたので当然のことながらこの震災もまた、その題材となりいくつかの歌になります。「時それ大正十二年 九月一日正午時 突然起こる大地震 神の怒りか竜神の 何に恐るるおののきか」(大震災の歌 添田さつき詞 鳥取春陽曲)などの起きた事実を淡々と語るものもありましたが、より印象的なのは同じ演歌師添田さつき(本名:知道)が作った「復興節」です。
中国、清の時代の音楽「紗窓」のメロディにのせて「家は焼けても江戸つ子の 意気は消えない 見ておくれ アラマ オヤマ 忽ち並んだ バラックに」とユーモアたっぷりに歌うこの歌、歌詞には少々不謹慎と言われかねないところもありますが、実際は被災者たちを大いに励ましたのだそうです。伝説の演歌師添田唖然坊の子息でもあるこの添田知道の書いた文章が興味深いので引用してみましょう。
「私ども、叔父夫婦子供らとも九人の一行のうち、唖然坊ひとり、東北を目指して行くのに別れて、たよって行った先は、その家自体の避難者のうけ入れで、私どものとびこみは迷惑であるのがわかり、叔父の住んだ日暮里地区が焼けのこったことがわかってから、ともあれそこに戻ることにした。焼けあとの野天に、にわか商売のすいとん屋、うであずき屋が現れていたり、やがて道ばたの人だかりをのぞいてみると、震災被害の写真エハガキを売るのであったりするようになった。焼野原に焼けトタンの小屋もふえたが、新材のバラックも建ちはじめ、生皮つきの杉丸太が一本二円、トタン板一枚が三円だった。そうした材料を売る者もまだ自分のバラックなしの野天の商いだった。が、そんな灰燼の中の動きは、復興の意気というより、大地にしがみつく人間の必死の姿と映った。
そんなとき、本所で焼けて近くへ移ってきた演歌人が、震災の歌をつくってくれないかと相談にきた。それで前述のもの(「大震災の歌」)や復興節などをまとめ、焼け残った印刷所を見つけて刷物にした。ペラ八頁の唄本ができると、素早い演歌人たちがそれを抱えて各地方へとんだ。」(添田知道「演歌の明治大正史」 岩波新書 p.236-237)
「拙速の唄本が刷れて、私も糊口のこともあるので、近くへ演歌に出てみたときのことだ。日暮里の焼亡をのがれた地区とはいえ、夜は暗く死んだように沈みかえっている。そんな中で歌声をあげたりしたら、袋だたきにでもあうのではないか、そんな不安があった。とある横丁でうたいはじめると、忽ち、暗い家々からとび出してきた人々にかこまれた。しかしそれは、不安とは逆な、熱心に聞き入る人々であった。勢い歌う方にも身が入る。大歓迎で、持って出た百部の唄本がすぐに売切れて、妙な拍子ぬけをした。
そして、どんな深沈の中でも、人々は音をもとめている、ということを知った。音。それは生命の律動。(中略)人々は食の飢えもあるが、音にも飢えていたのだ。そして疎末な唄本にとびついたことは、活字に飢えていたのでもあると考えられた。「復興節」はたちまち人々にうたわれた。そこで歌詞を追作し、印刷の間に合わないときはガリ版にもした。焼土風景の動きやバラック生活をうたったのだが、食料の配給(無料)の前には奥さんも嬶もなく一視同仁、生活の格差をなくした平等感に、一種の和みさえ感じられた。」 (同書 p.238-239)
どれだけ厳しい状況になっても、こんな風に歌が人々の励ましとなるのですね。この歌、時代は下って1995年の阪神淡路の大震災のとき、電気楽器が使えないのでチンドン屋のスタイルで大阪より被災地に入ったロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(チンドン屋スタイルでの活動のときは「ソウル・フラワー・モノノケサミット」という名です)がこの歌を歌っているのが(CDにもなっています)とても印象的でした。神戸の地震でも住宅密集地でたくさんの家が焼けましたが、そんな悲惨さを吹き飛ばす「家は焼けても 神戸っ子の 意気は消えない 見ておくれ」とヴォーカル・中川敬の力強い歌声と、景気の良い鐘や太鼓のリズムの伴奏が素敵です。
苦難の底にあっても、いずれ復興の時が来る、歌詞の中でも一番ナンセンスで、しかしそれだけに一番力づけられるのがこの部分
騒ぎの最中に生まれた子供
つけた名前が震太郎 アラマ オヤマ
震次に震作、シン子に復子
其の子が大きくなりゃ地震も話の種 エーゾ エーゾ
帝都復興 エーゾ エーゾ (添田さつき詞)
むやみに委縮したりせずに、またきれいごとでない率直で真摯な歌です。
当時、演歌では歌詞は次々と増殖していきます。添田さつき自身の作詞もありますが、面白いのは父・唖然坊の作ったものもあるということ、こちらは著作権は切れているので全部載せてもOKでしょうか。震災直後には「この際」という言葉がはやったのだそうで、それを題材にした「コノサイソング」です。不謹慎かも知れませんが、4番なんかにこのたびの大震災と同じような政府のドタバタが歌に織り込まれていてとても興味深く思えました。今とてももてはやされている大風呂敷復興院の後藤新平のことも、当時はこんな風に批判的に見られたりもしていたのですね。
(添田知道 「流行り唄五十年 -唖然坊は歌う」朝日新書より)
コノサイ コノサイ コノサイだ
なんでもかんでもコノサイだ アラマ オヤマ
コノサイこうしてもらいたい
コノサイですから勘弁してください エーゾ エーゾ
コノサイ流行 エーゾ エーゾ
泣くなそんなに泣くと地震がくると
親が子供をだまかせば アラマ オヤマ
子供のいうことフルってる
地震がありゃまたコノサイで貰える貰える エーゾ エーゾ
コノサイ流行 エーゾ エーゾ
チンチンドンドン復興院
鐘だ太鼓だ鳴り物入りよ アラマ オヤマ
御膳ならべてチンドンドン
大きな風呂敷ふしぎな風呂敷 エーゾ エーゾ
のびたりちぢんだり エーゾ エーゾ
風呂敷ひろげてコノサイだ
風呂敷たたんでコノサイだ アラマ オヤマ
何でもコノサイコノサイだ
お膳立てばかりで御飯もたかずに エーゾ エーゾ
バラック内閣 エーゾ エーゾ
唄はコノサイ復興節
エーゾ エーゾとはやり出す アラマ オヤマ
何がエーゾとたずねたら
コノサイコノサイでいろいろもらえる エーゾ エーゾ
貧乏コノサイ エーゾ エーゾ
( 2011.04.23 藤井宏行 )