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Fontanu Bakhchisarajskogo dvortsa    
 
バフチサライ宮殿の噴水  
    

詩: プーシキン (Aleksandr Sergeyevich Pushkin,1799-1837) ロシア
      Фонтану Бахчисарайского дворца (1823)

曲: グリリョーフ (Alexander Gurilev,1803-1858) ロシア   歌詞言語: ロシア語


Fontan ljubvi,fontan zhivoj!
Prines ja v dar tebe dve rozy.
Ljublju nemolchnyj govor tvoj
I poeticheskie slezy.

Tvoja serebrjanaja pyl’
Menja kropit rosoju khladnoj:
Akh,lejsja,lejsja,kljuch otradnyj!
Zhurchi,zhurchi svoju mne byl’…

Fontan ljubvi,fontan pechal’nyj!
I ja tvoj mramor voproshal:
Khvalu strane prochel ja dal’noj;
No o Marii ty molchal…

Svetilo blednoe garema!
I zdes’ uzhel’ zabvenno ty?
Ili Marija i Zarema
Odni schastlivye mechty?

Il’ tol’ko son voobrazhen’ja
V pustynnoj mgle narisoval
Svoi minutnye viden’ja,
Dushi nejasnyj ideal?

愛の噴水よ、生命の噴水よ!
贈り物としてお前に二輪のバラを捧げよう
私はお前の絶え間ないささやきが好きだ
そしてその詩情に溢れる涙が

お前の銀色のしぶきが
冷たい露が私に降りかかる
ああ、流れよ、流れよ、喜びの泉よ
伝えよ、伝えよ 私に本当の物語を

愛の噴水よ、悲しみの噴水よ!
私はその大理石に問いかける
王国の賛美は私にも聞き取れたが
マリアのことはお前は黙して語らない

ハーレムの蒼ざめた星よ
ここでもお前は忘れ去られてしまったのか?
それともマリアもザレマも
ただの甘い夢だったのか?

空想に満ちた夢が
深い暗闇の中に描いた
私の束の間の幻影
心のほのかな憧れだったのだろうか?


クリミア半島の南部にある町バフチサライは、その昔モンゴルの流れを汲むクリミア・ハン国の首都でした。その君主(汗)の宮殿には「涙の泉」という名前の噴水があります。
この国最後の君主ギレイが、亡き妻マリアと愛した妾のザレマを悼んで作らせたという噴水、実際の歴史的な事実はどうだったのかは分かりませんが、プーシキンはこの詩を書いた1824年よりも前、1822〜1823にかけてこの悲しい愛の物語を短い物語詩にまとめています。
このお話はソビエトの作曲家ボリス・アサフィエフによって1934年にバレエにされているもの(「バフチサライの泉」という題が一般的でしょうか)が現在でも大変に有名で、日本国内でも時折上演されているようです。
ざっくりとあらすじをご紹介しますと、ポーランドの貴族の娘マリアは許婚がいたのですが、クリミアの王ギレイにその婚約者を殺され、そしてこのバフチサライへと連れてこられます。ギレイの求愛を断固として拒んだマリアは、しかしながらギレイの愛を失ったハーレムの愛妾、グルジア生まれのザレマの誤解を受けて殺されてしまいます。
そしてその咎で処刑されるザレマ。愛する者たちを一度に失ったギレイは悲しみにくれて自らの宮殿の庭に噴水を建て、それを「涙の泉」と名付けました。詩の中にある2輪のバラは、このマリアとザレマの象徴なのですね。
恐らくはもともとのこの噴水にまつわるそんな物語があって、それを下敷にしたプーシキンの物語詩が有名になったのでそれが広く知られるようになったのだと思います。

こちらのご紹介した詩はその物語詩とは別の機会に書かれたもの。庭の噴水がただ黙々と水を噴き上げているのを詩人が見つめ、語りかけています。あの悲恋の物語ももしかしたらただ一握の夢に過ぎなかったのかも知れないと...
これも見事な詩だと思います。私の日本語力の限界からその美しさがうまく表せているかというと自信がありませんが。

この詩に付けた歌曲では、ソビエト時代の作曲家A.ヴラーソフという人の書いたものが比較的良く知られていてロシアでもしばしば演奏されるようですが、ここではプーシキンと同時代の作曲家アレクサンドル・グリリョーフのものを取り上げましょう。ロシア歌曲においてはグリンカなどと並んでその草創期において重要な役割を果たした人ではあるのですが、ロシア以外ではほとんど知られていない作曲家でしょうか。その非常に朴訥とした音楽はなかなかに捨てがたいものがあるのですが。
このグリリョーフ、興味深いのは農奴階級出身の音楽家であったということです。父親が音楽家だったとのことですが、1831年に主人のオルロフ伯爵が亡くなったことで奴隷の身分を解放され、モスクワで気鋭の音楽家として活躍したとのことです。

( 2008.10.04 藤井宏行 )


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