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Die Krähe   Op.89-15 D 911  
  Winterreise
烏  
     冬の旅

詩: ミュラー,ヴィルヘルム (Johann Ludwig Wilhelm Müller,1794-1827) ドイツ
    Die Winterreise 11 Die Krähe

曲: シューベルト (Franz Peter Schubert,1797-1828) オーストリア   歌詞言語: ドイツ語


Eine Krähe war mit mir
Aus der Stadt gezogen,
Ist bis heute für und für
Um mein Haupt geflogen.

Krähe,wunderliches Tier,
Willst mich nicht verlassen?
Meinst wohl bald als Beute hier
Meinen Leib zu fassen?

Nun es wird nicht weit mehr gehn
An dem Wanderstabe,
Krähe,laß mich endlich sehn,
Treue bis zum Grabe.

一羽の烏があの街から
僕のあとについて来た
今日まで絶えることなく
頭の上を舞っていた

烏よ、おかしな奴め
僕を見捨てる気はないのか
多分もうじきここで
僕の体を餌にするつもりだな

まあいい、いくら杖にすがっても
もうこれ以上進めはしまい
烏よ、最期に僕に見せてくれ
墓まで続く誠実というものを


Krähe(クレーエ)は、同じ烏でも「春の夢」に出てきたRabe(ラーベ)=大鴉/ワタリガラスとは違う、我が国でも普通に見られるハシボソガラスです。雪景色の中、灰色の空を舞う黒い烏。第二連では自らの遠くない死に、第三連では旅の終わりと墓に言及しています。そのため、死の象徴としての不気味な黒い鳥と、その死肉を食う習性への嫌悪感、恐怖感を主眼とした訳が多いようです。ことに梅津時比古氏の『冬の旅〜24の象徴の森』は、Kräheを醜悪な存在とした解釈を詳述しています。

しかしわたしは少し違うことを考えました。まず前曲「灰色の頭」であれだけ死が遠いことを嘆いているのに、次には一転してそれを恐れるというのはいささか一貫性に欠けると思うのです。そこでこの詩を、死への恐れではないと仮定して読んでみると、実は主人公は烏への非難や恐れ、怒りの言葉などを一切口にしていないことが見えてきます。自分の死肉をついばもうという烏の意図に触れても、むしろ淡々としており、最後に頼みごとさえしています。烏を死の象徴とするなら、この感情は死への憧れ、親しみとも言うことができるでしょう。

そして第三連、一般に烏に「忠実さ」を求める訳がほとんどですが、若者は何故そんなことを言うのでしょうか。これは「忠実」よりもむしろ「誠実」であり、娘の不誠実に対照した言葉とわたしは読みました。今の若者についてきてくれるのは、死肉を狙う烏だけという惨めですさんだ情景。その烏に対して反語的に呼びかけられるかのような「墓まで続く誠実」とは実は反語ではなく、「生涯を貫く誠実」「死まで変わらぬ愛」の意であり、娘の不実に苦しむ若者は今わの際に「誠実」を見たいと痛切に願った、というのがわたしの解釈です。

そのように考えていて思い出したのが、このシリーズで既におなじみのミュラーとシューベルトの研究者、渡辺美奈子さんから伺った、烏を誠実の象徴とする説でした。これが先日渡辺さんのHPで新たな『冬の旅』のコーナーにまとめられていますので是非ご覧下さい。

http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/index.htm (「冬の旅」のコーナー)

これによると、烏には誠実の他に当時「スパイ」の意もあり、自由主義思想を持つミュラーが、復古主義体制による検閲やスパイ行為を批判したという解釈も成り立ちます。そうなるとこの詩の烏には、死の使者、誠実の象徴、当局のスパイという3つの解釈があるということになります。思うにこれはどれかひとつが正解ということは無く、ミュラーによって重層的に仕掛けられたものではないでしょうか。大変な読書家で、古今の文学や伝説に精通していたというミュラーは、その豊富な知識で様々な象徴を駆使して、一見単純な民謡調の詩に重層的な意味付けを盛り込んでおり、それが『冬の旅』の驚くほど多種多様な解釈を生み出す要因となっているように思います。その作品の面白さ深さは、かつての「二流詩人」などというレッテルとはかけ離れたものです。

烏についてもうひとつ、「春の夢」の項で引用したC.W.ニコル氏のネット上のエッセイは、元々神聖な鳥であった烏がネガティブな象徴になったきっかけとして、中世以後の戦乱で戦場に放置された死者を烏がついばむ情景が多く目撃されるようになったからと推定しています。その凄惨な光景は死者を埋葬していれば起こりえないことで、烏の罪ではないわけです。この話に関連付けるとすれば、主人公の烏への思いには、ミュラー自身のナポレオン戦争の従軍体験が反映されているのかもしれません。

「オオガラスの物語〜カラスは不吉な鳥なのか」

「C.W.ニコルのTALK IN NATURE」より

この詩の中で主人公の頭をKopfでなくHauptにしていることを、梅津時比古氏の前掲書では重視し、興味深い分析をされておられます。しかしわたしはそれに今ひとつ必然性を見出し難い思いがあり、単に韻律上の問題でニュアンスの異なる同意語を選んだのではないかと推測し、渡辺さんに質問したところ正にその通りとのことでした。定型詩を読むにはこのような問題もあり、解釈が難しいところです。これについても上記の渡辺さんのHPに記述されていますが、この部分で強音と弱音が1音節ずつ交替する韻律を守ることの積極的意義が示されており、大変素晴らしい解題となっています。

シューベルトの音楽は言わずもがなの素晴らしさですが、皆さんはここから上記の3つの解題のうちどれを聴き取るでしょうか。わたしには、シューベルトが表現したのは醜悪なる死の象徴との対話とも、当局のスパイへの当てつけとも思えないのです。それは痛切にして哀切なる、「墓まで続く誠実」への渇望ではないでしょうか。
若者が逃げ出してきた、彼女のいるあの街から執拗に付き従い、常に頭上を舞って若者の死を伺う烏。「シューベルトの冬の旅」においてそれは、若者を極限状況に追い詰める、彼女への思い切れない愛のネガティブな象徴でもあるのだと思います。

( 2008.06.21 甲斐貴也 )


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