Bessmertie Op.145-11 Sjuita na slova Mikelandzhelo Buonarroti |
不滅 ミケランジェロの詩による組曲 |
Qui vuol mie sorte c'anzi tempo i' dorma: Nè son già morto: e ben c' albergo cangi, resto in te vivo,c' or mi vedi e piangi; se l'un nell' altro amante si trasforma. Qui son morto creduto; e per conforto del mondo vissi,e con mille alme in seno di veri amanti: adunche,a venir meno, per tormen' una sola non son morto. |
御身はわが運命が眠りの時であると望まれました だが私はもう死んだのではなく、住家は変われども 御身の中に生き、御身は私をご覧になって涙を流されるのです それは恋人が別の恋人へと変わったようなものなのでしょう 皆は私が死んだことを信じておりますが、慰めのため この世の中に、何千という心の中に私は生きています 私の真の友の中に:それゆえに少なくとも 私は死んではいないのです |
この詩とそこに付けられた音楽を聴きながら思ったのは、ショスタコーヴィチがやはり大文豪の詩を借りておそらく彼の心のうちを思うがままに書いたのであろう「プーシキンの詩による4つのモノローグ」Op.91、その中の第2曲。あそこでのプーシキンの「世界にはきっとある、私がまだその中に生きている心が」というフレーズにこの上もなく安らかなメロディーをつけていたところです。
肉体はたとえ滅びても、自分の残したものはきっと誰かの心の中で生き続けるのだという自負心。
偉大な芸術家のみにこんなことは言えるのだという気もしなくもありませんが、万人の心の中ではなくとも、誰かの心の中にほんのかすかな思い出であれ残ることができたのであればそれこそが生きた証なのでしょう。さて私のここに残していく駄文はどうなのでしょうか。
ミケランジェロの詩は1544年の作だそうですので、非常に興味深いのはこの詩を書いたときの彼の年齢が、ショスタコーヴィチがこの詩に曲を付けたときの年齢とほぼ同じであるということ。もちろんその時代の平均寿命や文化のあり方などが全く違いますから単純に並べてああだこうだ言うのは愚かなことなのですが、もうこの先いくばくもないと感じている老年期において考えることは同じなのでしょうか。
そしてこの何千という魂の中で生き続ける作品のひとつとして、重い病で衰えた体を鼓舞しつつ書いたのがこの作品だと思うと、何とも言えない感慨が浮かびます。
ここでの音楽は、それまでの激しかったり、重苦しかったり、あるいは悲嘆にくれていたりする音楽から一転して、ひょうきんささえ漂わせる軽妙なメロディ。これが突然出てくるものですからかなり面くらいます。
残された者の心の中に生き続けるのだからあまり思い詰めずに軽やかに行こうぜ、っていうような感覚でしょうか。第2連目で曲は暗く、重苦しくなりますが、最後はまた冒頭の軽やかなメロディを予感させるように穏やかに終わります。
( 2007.12.16 藤井宏行 )