Noch’ Op.145-9 Sjuita na slova Mikelandzhelo Buonarroti |
夜 ミケランジェロの詩による組曲 |
La Notte,che tu vedi in sì dolci atti dormir,fu da un angelo scolpita in questo sasso,e perchè dorme ha vita: Destala,se nol credi,e parleratti. Caro m' è 'l sonno,e più l'esser di sasso, mentre che 'l danno e la vergogna dura: Non veder,non sentir,m' è gran ventura; però non mi destar,deh! parla basso. |
夜は、あなたにはとても安らかに 眠っているように見えていても、天使によって刻まれたのだ この石の上に、そして眠ってはいるがそれは生きている 目覚めさせよ、信じぬならば、そして語りかけてみよ 眠りは心地よい、だが石であることはもっと心地よい 破壊や恥辱が長く続いていても それを見ず それを聞かずにいるのはなんと幸いなことか だから私を目覚めさせるな おお!低い声で話せ |
この詩は前半部と後半部で対話となっています。そのため副題にも「対話」と付けられています。実のところは前半部はミケランジェロの作ではなく、彼の作ったメディチ家の廟の中にある「夜」という眠っている女性の姿の彫刻に感動したジョバンニ・ストロッツィ(Giovanni Strozzi 1517-1570)という詩人の書いた賛辞に対し、のちにミケランジェロ自身が後半部の詩で答える、というもので、両者は全く別の詩です。ストロッツィのものは1529年、そしてミケランジェロのは1545年の作という記述も見つけましたのでかなりの時代の隔たりがあります。そしてミケランジェロがこの詩を書いたときはもう70歳、波乱の生涯ももう終わりに近付いてきていました(現実には89歳という長寿だった彼にはまだ先は長かったのですが)。ここでの「破壊や恥辱が長く続いていても それを見ず それを聞かずにいるのはなんと幸いなことか」というのはミケランジェロの言葉であると同時に、ショスタコーヴィチ自身も自分の人生を振り返ったときに思わず発したくなった言葉ではないかと思ったりもします。その意味でも非常に重い対話なのですね。
音楽で興味深いのは、この曲では彼の愛弟子、ガリーナ・ウストヴォルスカヤの作品を引用していることです。どの部分がその曲かというのは私はソヴィエトの音楽には詳しくないので分かりませんでしたが、おそらくミケランジェロに向けて発せられた前半のストロッツィの書いた詩の部分なのでしょうね。音楽においても弟子と師匠の対話の形で、この厳しい時代を語るという...
( 2007.12.16 藤井宏行 )