Gnev Op.145-5 Sjuita na slova Mikelandzhelo Buonarroti |
怒り ミケランジェロの詩による組曲 |
Qua si fa elmi di calici e spade, e 'l sangue di Cristo si vend' a giumelle, e croce e spine son lance e rotelle; e pur da Cristo pazienza cade! Ma non c'arivi più 'n queste contrade, chè n'andré 'l sangue suo 'nsin alle stelle, poscia che a Roma gli vendon la pelle; e èci d'ogni ben chiuso le strade. S' i' ebbi ma' voglia a posseder tesauro, per ciò che qua opera da me è partita, può quel nel manto che Medusa in Mauro. Ma se alto in cielo è povertà gradita, qual fia di nostro stato il gran restauro, s' un altro segno amorza l'altra vita? |
今や聖杯より兜も剣も作られ キリスト様の血は叩き売りだ 十字架も茨の冠も槍や盾になって キリスト様も我慢の限界 だが彼をこの世によみがえらせてはならぬ その血は天まで吹き上がってしまうから ローマでは彼の皮を売り すべての善きところに行く道は閉ざされてしまっているのだ もしも私がここで宝を積もうとしていたのなら 私のここで仕事をするのは慰み物となるだけだ こんな黒いメドゥーサがマントをまとっているようなところでは 天の高みが貧しき者を讃えていようとも われらの現状にどれだけの改善が加わるというのだ 別の旗印が 別の生き方を掲げている限り? |
第1曲目に引き続いて、腐敗堕落したローマ教会への怒りがぶつけられています。これもユリウス2世に向けて書かれた1512年の作品ということで、第1曲目の詩と時代的にもかなり近いところですね。音楽もここでは激しく爆発し、物凄い迫力です。
この詩はかなりロシア語では少々内容が違っているようです。中間部では「キリストをベツレヘムに行かせるな」とあり、また「ローマでまた多くの血が流れる」と歌われているようです。私のようにキリストが再び処刑されるという解釈ではなくて、戦争などによる虐殺が起こるという解釈なのでしょうか。
その次の3行はよく意味が取れませんでしたが(イタリア語でもロシア語でも)、opera(work)がpartita(game)である、とあるので上のような解釈としました。ロシア語の方は全く分かりませんでしたが、英語の対訳では「私には何もすることはない」となっていました。
最後の連も解釈しにくいところですが、要はキリスト教で「貧しき者は幸いである」と言っておきながらローマ教会では奢侈の限りを尽くしてるじゃないか、という言ってることとやってることの食い違い(別の旗印というのが「やってること」にあたります)を怒っているのでしょう。言ってることとやってることが違っていたのは社会主義の国ソヴィエトでも一緒でしたでしょうから、ここでショスタコーヴィチが音楽で怒りをぶつけているのが誰なのかは言うまでもないでしょうか。
( 2007.12.16 藤井宏行 )