Utro Op.145-2 Sjuita na slova Mikelandzhelo Buonarroti |
朝 ミケランジェロの詩による組曲 |
Quanto si gode,lieta e ben contesta di fior,sopra' crin d'or d'una,grillanda; che l'altro inanzi l'uno all' altro manda, come ch'il primo sia a baciar la testa! Contenta è tutto il giorno quella vesta che serra 'l petto,e poi par che si sponda; e quel c'oro filato si domanda le guanci,e 'l collo di toccar non resta. Ma più lieto quel nastro par che goda, dorato in punta,con sì fatte sempre, che preme e tocca il petto ch'egli allaccia. E la schietta cintura che s'annoda. Mi par dir seco: qui vo' stringier sempre! Or che farebbon dunche le mie braccia? |
なんという喜びだ、競い合う楽しさは 花飾りの花として、このブロンドの髪に輝き お互いに押し合いへしあいしながら 彼女の額にくちづけしようとすることは! なんと幸せなことだ、一日中彼女のネグリジェになって この胸を包み、それからそこを覆い隠すってことは あるいは金色のヴェールとなって探しまくるのは ひたすらに頬やうなじに触れようと だがもっと素敵なのはブラジャーになって 金色の縁飾りのあるブラジャーになって 乳を押さえつけ触り続けること そして締め付けるあの布 永遠にアソコを締め付けていたいとでも言いそうな それじゃあぼくの腕はどうしたらいいんだろう? |
若きミケランジェロの妄想が爆発しているソネットです。まだ20代そこそこでボローニャにいた頃に書いた詩であるそうなのですが、なんともまあ官能的。私も少々煽られて言葉の選び方が過激になってしまいましたが、内容はそんなに大きく間違ってはいないものと思います。それで、詩では当時の下着(たぶん)が上から下まで描写されているのだと思いますが、イメージを膨らませるために現代のものに置き換えてみました。一番最後の一節のオチがまた何と申しましょうか、20歳の青年の純情さが出ていてなかなかよろしいです...(なおこの最後の部分だけはロシア語詩ではかなりニュアンスが違うようです。もっとウハウハな感じ) もっとも真面目な人は、この一節を「あなたの生来の美しさに対しては、芸術家の私の腕をしても敵わない」という解釈をされているようですが。
そしてこのような詩に「朝」というタイトルをつけたショスタコーヴィチもまた、このミケランジェロの詩に妄想を掻きたてられたのでしょうか。60歳を過ぎた老人がこのような詩を選んで曲をつけるというのも考えてみると凄まじいことです。まあ音楽はそんなに露骨ではないのですけれども。というよりも張り詰めて重たい音楽は、こんな煩悩の爆発にしか私には読めない歌詞に対してすらもひたすら真剣勝負のようです。これを聴いておりますと私のようなフザケた翻訳は決してしてはならなかったのではと思えなくもありません。最後の一瞬だけ音楽が穏やかになりほのかなユーモアを漂わせて終わります。
( 2007.12.16 藤井宏行 )