Massa's in de Cold Ground |
ご主人さまは冷たい土の中 |
Round de meadows am a ringing De darkeys' mournful song, While de mockingbird am singing, Happy as de day am long. Where de ivy am a reeping O'er de grassy mount, Dere old massa am a sleeping Sleeping in de cold,old ground. (Chorus) Down in de cornfield Hear dat mournful sound: All de darkeys am a weeping Massa's in de cold,cold ground. When de autumn leaves were falling, When de days were cold, 'Twas hard to hear old massa calling, Cayse he was so weak and old. Now de orange tree am blooming On de sandy shore, Now de summer days am coming, Massa nebber calls no more. (Chorus) Down in de cornfield Hear dat mournful sound: All de darkeys am a weeping Massa's in de cold,cold ground. Massa made de darkeys love him, Cayse he was so kind, Now dey sadly weep above him, Mourning cayse he leave dem behind. I cannot work before tomorrow, Cayse de tear drop flow, I try to drive away my sorrow Pickin on the old banjo. (Chorus) Down in de cornfield Hear dat mournful sound: All de darkeys am a weeping Massa's in de cold,cold ground. |
牧場のまわりに鳴り響いてんのは 黒ん坊たちの悲しみの歌だ モッキングバードが歌ってんのは とてもとても楽しげだというのに ツタがその上を這い回っている 草の生えた塚ん中 やさしかったご主人さまは眠ってる 眠ってる、冷たい、冷たい土ん中に (コーラス) トウモロコシの畑じゅうに 悲しみの声は聞こえる 黒ん坊たちは涙にくれる ご主人さまは冷たい、冷たい土ん中 秋の木の葉が散って行き 毎日寒くなった頃 年取ったご主人さまの呼ぶ声は聞こえなくなった とても年取って、弱ってしまったから 今はオレンジの木は花盛り 砂の岸辺の上じゃ もう夏の日がやってきたが ご主人さまの声はもう聞こえることはない (コーラス) トウモロコシの畑じゅうに 悲しみの声は聞こえる 黒ん坊たちは涙にくれる ご主人さまは冷たい、冷たい土ん中 ご主人さまは黒ん坊たちに好かれてた とっても優しかったからさ 今はみな悲しくて泣いている みなを置いて行っちまったからさ 明日から仕事も手につかねえだろ 涙があふれてくるからな 俺あ、この悲しみを振り払うため 古いバンジョーを弾いてやろ (コーラス) トウモロコシの畑じゅうに 悲しみの声は聞こえる 黒ん坊たちは涙にくれる ご主人さまは冷たい、冷たい土ん中 |
小学校だかどこかで私がこの曲を習ったときは、「あるじは冷たき土の下に」という題名で「マッサは眠れり」とかいう歌詞になっていたものですから、それからずっと長いことこの歌はマッサという名前のおじいさんが死んでしまったのを残された妻が嘆いている歌だと思い込んでおりました。こうして黒人訛りで書かれた原詩を見ればこの曲も典型的なプランテーションソングですね。マッサとはご主人さま(Master)の黒人訛りです。
奴隷を使っているようなプランテーションの農場主がこんなに慕われるわけないだろうなんて思う人もおられるかも知れません。こんなの白人が勝手に作り上げただけで現実にはないフィクションだろうと。しかし時代の制約の中において、制度には従っていながらも人間的に包容力のあった人というのは必ずいたんだろうなと私などは思うのです。丁度日本でも江戸時代というガチガチの身分制度のもとでも、名君とよばれるお殿様がいて領民に慕われた例が皆無ではないのと同じように。そんな暖かい人間の交流もあったのだと思うとなんとなくほっとさせられます。1852年の作品。
( 2007.11.30 藤井宏行 )