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Bollspelet vid Trianon   Op.36-3  
  6 Laulut
トリアノンでのテニス  
     6つの歌

詩: フレーディング (Gustaf Fröding,1860-1911) スウェーデン
    Nya dikter - Från när och fjärran  Bollspelet vid Trianon

曲: シベリウス (Jan Sibelius,1865-1957) フィンランド   歌詞言語: スウェーデン語


Det smattrar prat och slår boll och skrattar
emellan träden vid Trianon,
små markisinnor i schäferhattar,
de le och gnola,lonlaridon.

Små markisinnor på höga klackar,
de leka oskuld och herdefest
för unga herdar med stela nackar,
vicomte Lindor,monseigneur Alceste.

  Men så med ett
  vid närmsta stam
  stack grovt och brett
  ett huvud fram.


Vicomten skrek: “Voilà la tête là!”
och monseigneur slog förbi sin boll
och “qu'est-ce que c'est?” och “qui est la bête là?”
det ljöd i korus från alla håll.

Och näsor rynkas förnämt koketta,
en hastig knyck i var nacke far
och markisinnorna hoppa lätta
och bollen flyger från par till par.

  Men tyst därifrån
  med tunga fjät
  går dräggens son
  Jourdan Coupe-tête.

そこではお喋りが、ボールを打つ音が、笑い声が
トリアノン宮殿の木々を縫って聞こえてくる
羊飼いの娘の帽子をかぶった小さな侯爵令嬢たちが
笑ったりハミングしたりする ロンラリドン

ハイヒールを履いた小さな侯爵令嬢たちは
無邪気に遊ぶ、羊飼いのお祭みたいに
若い強情そうな羊飼いの役は
リンドール子爵とアルチェステ殿下だ

  だが突然に
  そばの木の幹から
  荒々しく下品に
  顔がぬっと出た


子爵は叫んだ「オウ ソコニ顔ガアリマース!」
おかげで殿下はボールをミスった
それから「何デスカアレハ?」「誰デスカ?」
という声が一斉にあちらこちらから

彼らの鼻には滑稽なくらい皺が寄り
つんと向こうを向いてしまった
侯爵令嬢たちはぴょんぴょん飛び跳ね
そしてまたボールはあっちからこっちへと飛んだ

  だがあちらの方では静かに
  重々しい足取りで
  下賎な少年は歩いていた
  首切りジュールダンが


トリアノンといえばフランス、ベルサイユ宮殿の北隣にある田園風の離宮です。この詞で描写されているのはルイ16世の時代に無邪気に遊ぶ貴族の子供たちの様子。シベリウスの歌曲としては、そしてグスタフ・フレーディングによる詩にしても他の多くのものとはかなり異質なテーマです。とりわけ子供たちがフランス語で「ヴォアラ」だとか「ケスクセ?」なんて喋っているのもそのままフランス語で詩の中に表されているのがとても不思議ですし、スウェーデン語の詩の中ではとても不自然に響きます。そこも面白いのでフランス語の会話の部分はステレオタイプの外国人の日本語喋りっぽくしてみました。そういうユーモラスなところがこの歌にはあり、キッチュなメヌエットの主部はまさにこの貴族の子供たちが親のままごとをしているかのようなしぐさを表現するにはぴったりの音楽です。
ところが最後になってこの歌はとんでもない展開。途中で出てきたときも詞も音楽も不気味な違和感のあったぬっと出てきた顔が誰か、の種明かしがされますけれども、そこには残虐なフランス革命の影が忍び込んで参ります。
“Jourdan Coupe-tête” (これも歌詞でもフランス語のままですね)というのは調べてみましたら、本名Mathieu Jouve Jourdan(1749-1794)という人なのだそうで、ジャコバン党の軍隊組織を率いて革命下のアビニョンで恐怖政治を敷いた人。1789年の9月にヴェルサイユ宮殿で2人の近衛兵の首を切ったことからこう呼ばれるようになったのだとか。そういうことを知るとこの歌の情景が俄然恐ろしさを帯びてくるのです。

ここでのどかに遊んでいる貴族の子供たちにも遠からず恐ろしい運命がやってくることを暗示しています。
ジュールダンがこのときにその首切りの残虐行為に及んだのかどうかは明らかにはされておりませんけれども、ほとんどアカペラで重苦しく歌われるこの終結部はこの突然の侵入が決してただごとでは済んでいないであろうことを表しているのでしょう。
無邪気な子供たちの気楽でユーモラスな音楽と、そしてその背後に流れる重苦しい歴史との対比がこの歌のポイントですが、両者があまりにかけ離れているために曲想が分裂気味でうまく歌いこなすのは大変難しそうです。それもあって傑作・有名作の集中しているOp.36中にありながらこの曲はめったに取り上げられることはなく、私もフォン=オッターのメゾ(BIS)とゼーダーシュトレーム(Decca)の2種類しか聴けておりませんが、録音がかように少ないくらい難しく、かつ演奏効果を挙げにくい曲のような感じがします。そうはいいながらこの2枚はいずれも貫禄で歌いきってはおりますけれども。
まあシベリウスにもこんな歌曲があった(というよりもこんなタイプの曲は他の作曲家では聴けないスタイルかも知れません)というところに注目すべきでしょうか。

( 2007.04.27 藤井宏行 )


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