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キャラバンの鈴    
 
 
    

詩: 川島芳子 (Kawashima Yoshiko,1907-1948) 日本
      

曲: 杉山長谷夫 (Sugiyama Haseo,1889-1952) 日本   歌詞言語: 日本語


広い砂漠を はるばると
駱駝に乗って キャラバンは
雪を踏み踏み 通うてくる

村に残した 恋人に
別れのしるしと おくられた
鈴は駱駝の 頸(くび)で鳴る

雪の砂丘に 月させば
別れた宵の 想い出に
駱駝の背(せな)で ひく胡弓(しょうろ)

鈴を磨いて 若人は
遠くはなれた 故郷(ふるさと)の
娘の指を 夢に見る



中国・清朝の粛親王の王女として1907年に生まれ、1912年の辛亥革命で清が滅亡した際に、清朝と日本との交渉代理人をしていた川島浪速の養女として川島芳子という名で日本人となった女性・愛新覚羅顕子(最後の字は正しくは「王」偏に「子」)。劇団四季のミュージカル「李香蘭」では物語の語りと狂言回しをしている重要な登場人物としておなじみのところでしょうか。満州国が清の最後の皇帝を傀儡に担ぎ出して建国されたときに、彼女もまた王族につながるものとして担ぎ出されさまざまな政治活動に関わるようになりました。髪を短く切って男装し、自分を「ボク」と呼ぶそのスタイルはまるで宝塚の男役スターのよう。どれぐらい活躍したのかは分かりませんが上海では防諜活動にも携わり「東洋のマタ・ハリ」とも呼ばれていたようです。更にその頃書かれた彼女をモデルとした村松梢風(1889-1961)の小説「男装の麗人」によって日本でも注目を浴び、昭和6年頃には「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼ばれて芸能界でも引っ張りだこになったという(しかしこの業界も今も昔も変わりませんね)経歴の持ち主です。ちょうどこの頃にはレコードに「蒙古の唄」などの歌を吹き込んだり、歌謡曲の歌詞を書いたりしていてそれが今に残っており、この曲もそんなひとつにあたります。レコードは1933年(昭和8年)のリリースのようです。
まあ、今の世でもアイドル歌手の書いた歌詞なんていうのはゴーストライターが書いたものであったり、よしんば本人のものであったとしてもまわりのプロの手がかなり入って別物になってしまっていることはよくありますから本当のところは彼女の作なのかどうかは分からないところはありますが、選んだテーマといい内容といい中国東北部出身の彼女が手がけるということは非常に興味深い作品ではないでしょうか。モンゴルの砂漠を行くキャラバンの中で、郷里に残してきた恋人を形見の鈴を鳴らしながら想う若者の姿を描写しています。
作曲の杉山長谷夫は童謡や歌謡曲で活躍していた人。作詞家の勝田香月と組んだ作品が多く、その中で最も知られているのは「今宵出船か お名残惜しや」の「出船」でしょう。それで私はずっとこの人は童謡畑の人かと思っていたのですが、調べてみるとこんな風に歌謡曲の世界でも仕事をされた人でもあるようです。この曲もエキゾチックな雰囲気にあふれてなかなかに魅力的。この昭和初めは満州国の成立などもあって中国東北地方への関心は非常に高かった時代で、これに限らず「国境の町」や「いとしあの星」など、この北の大地をさすらう歌がたくさん作られて流行しています。もちろん人々の関心を向けさせようという政策的なものもあったのかも知れません。彼女もそれにまんまと乗せられてしまったところもあるのでしょう。
そしてこれを歌うは東海林(しょうじ)太郎。ド演歌の歌い手のイメージが強い人ですがもともとオペラ歌手を目指していただけあって、歌い方はけっこう清清しいです。管弦楽の伴奏が伊福部昭の「ゴジラ」の音楽みたいに鳴る中、この人の歌声で淡々とエキゾチックなメロディが歌われるのはユニークで、彼のSP復刻のCD(King)の中でもひときわ異彩を放っていました。東海林太郎なんて知らない世代も増えてきている中、この復刻盤も今や入手困難かも知れないですが、機会がありましたら聴いてみてください。
この歌、オリジナルのSPレコードのときにはその裏面に同じ作詞・作曲コンビで「蒙古の娘」(歌:渡邊光子)というのも吹き込まれていたようですがこちらはまだ耳にする機会を得ておりません。

しかしまた芸能界で大当たりした人が忘れ去れるのもまた早い、というのも今も昔も同じこと。昭和10年を過ぎるともうこの川島芳子も「あの人は今」的な感じの扱いになっていたのでしょうか、芸能関係の記録にはあまり名を見なくなります。また彼女を利用した満州の関東軍との間もうまく行かなくなっておりまして厄介払いでしょうか、昭和13・14年頃には日本に病気療養と称して送り返されています。

その後再び北京に戻り、そこで彼女は終戦を迎えます。不運なことに「李香蘭」こと山口淑子と同じように、中国人でありながら日本人の中国侵略に加担した罪で裁判にかけられ、日本人であることが証明された李香蘭とは対照的に1947年に死刑判決を受け、翌年3月に銃殺刑に処せられて40年の数奇な生涯を閉じました。史料を見る限りでは死刑になるほどのことをしていたようには現代の感覚では思えないのですが、それが戦争というものの恐ろしいところなのでしょう。それだけ侵略者に対する憎しみも強かったのだと(そしてそんな侵略者に協力した同胞への憎しみも)思うととても暗澹たる気持ちになります。

そしてそんな歴史を忘れないためにも、この曲もまた李香蘭の歌った「夜来香」や「私の鶯」など幾多の曲と同じように人々の記憶に留めて置かれたらいいのにな、と思います。

( 2007.03.24 藤井宏行 )


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