Syystunnelma Op.2-1 |
秋の想い |
Teit oikein ystävä aino, kun luotani läksit pois, sun rintasi nuori ja lämmin mun rinnalla jäätynyt ois. Kas maantiellä kalpea kukka lumipälvestä nostavi pään. Mittä vuottelet kukkani vielä, on aika jo painua pään. Tuhat aatosta sieluni tunsi, sen vaan minä muistaa voin: oli tielläni kuihtunut kukka ja sen peitoksi lunta mä loin. |
それは正しかったわ、愛しい人よ あなたが私を捨てたことは あなたの胸は若々しく暖かだった わたしのもとでは凍り付いてしまったことでしょう 路端の蒼ざめた小さな花が 冷たい冬の雪から頭を持ち上げている 小さな花よ何を待っているの もう頭を沈める時が来ているのよ 私の幾千もの思い出の中で ただひとつ忘れられないことがあります 路端に蒼ざめた、しおれた花があって 私はそれをそっと雪に埋めたのです |
トイヴォ・クーラの歌曲の中では以前紹介した「朝の歌」と並んで最も良く知られ、歌われる作品でしょう。
英語タイトルでは普通Autumn Moodとなることが多いのでここでは「秋の想い」という日本語タイトルを当ててみました。フィンランド語は難しいのでちょろっと辞書を引いただけで、あとは英訳を適当に参照して訳をでっち上げましたのであまり正しい訳にはなっていないような気もしますけれどもご了承ください。
タイトルのSyystunnelmaにしてからが、フィンランド語の秋はSyksyで、9月のことをSyyskuuといいます。それでこれは9月のことを歌った歌かなとも思ったのですが、英語でいうReasonに当たる言葉にSyystaというのがありましたのでたぶんこちらが使われているのでしょう。語尾変化とか活用とかを全然知りませんのでスペルが近い単語からの類推しかできていません。このタイトルに「秋」の意味は含まれているのでしょうか???
とまあそんなことはさておいて、緯度の高い北欧では秋とは言いながらもう雪の歌です。悲しい別れを強がって、小さな花にやつあたりしているかのような詞と読めなくもありませんが、ここで雪に埋められちゃった花って実は自分自身の心のことですよね。冒頭は重々しく始まり(前奏などチャイコフスキーの歌曲のよう)、憂愁に満ちた気分が表されますが、小さな花が出てくる第二節はメロディがなぜか明るく流麗になり、花の美しさを、そして可憐さを表現しています。まるで自分の心をいとおしむかのように。しかし第3節では気持ちが高揚していき、その可憐な花に自ら試練を与える。そして最後はこれからしばらく続く厳しい時を覚悟するかのように静かに終わります。と短い歌なのですがかなり表情の変化が激しく印象に残ります。男女ともに良く歌われる歌で、CDではバリトンのヨルマ・ヒュンニネン(FINLANDIA)とソプラノのカリタ・マッティラ(Ondine)という男女それぞれの大物歌手の歌を聴くことができました。どちらも素晴らしいですがとりわけマッティラの迫力が印象に残りましたので、訳詩は女性の言葉っぽくしてみました。
クーラの作品の中でもかなり初期のものにあたります(Op.2-1)。また詩のエイノ・レイノ(Eino Leino 1878-1926)はフィンランドを代表する民族詩人で、フィンランド語での歌曲ではよく名前を見かける人です(フィンランドではシベリウスの多くのように、長い植民地支配の影響のせいかスウェーデン語による詩に付けた歌曲がけっこうあります フィンランド人の詩人でもスウェーデン語で詩を書く人が結構いるのです)。言葉の壁のためかあまり日本では知られていませんが、フィンランド語が日本語とルーツが一緒だからでしょうか。意味がわからなくても言葉の音だけ聴いていてもなぜか懐かしい響き。まるで北原白秋や野口雨情の詩のようなイメージを受けます。
( 2006.11.10 藤井宏行 )