汽車の旅 |
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夏の休暇(やすみ)のふた月を わが兄君は父上の み許し受けて長崎の 長き旅路へ出でにけり その道々の汽車なかに ところの名をば詠入れて 手帳に書ける旅の歌 われに歌へと送り来ぬ ひとり歌ふは惜しければ 父にねがひて父うへの 親しき都の先生に 曲(ふし)をばつけてもらひけり 地理を知るにも利益ある この一冊の唱歌をば きたれ我友おもしろく 手拍子とりて歌ひみん みなさけ深き父母(ちちはは)に 別れを告げて丸の内 右手に御所を拝みつつ 新橋来れば夜は明けぬ 外国人(とつくにびと)も打まじる 幾千(いくち)の客を載せ載せて 朝立つ汽車に東京の 繁華のさまは知られたり (中略) 神戸はまこと横濱に 次ぎたる港よき港 船の出入りのひまなきに 外国貿易さかんなり うしろに負える諏訪山は 緑あやどる繪の如く 淡路の嶋をひかへたる 海の景色も飽かぬかな ああ忠臣をしるしたる 石碑を見れば楠公の むかし悲しき湊川 松の雫も身にぞしむ さはいえ公のみこころは 人の胸にときざまれて 七度ならず万づ代も 君が御代をば護るらむ |
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この手の唱歌ものでは「鉄道唱歌」(大和田建樹・詞 多梅稚・曲)が圧倒的に知られておりますが、なんと同じ年明治33年にこんな作品も出ていたのです。私も国会図書館のディジタルアーカイブで初めて存在を知りましたが、与謝野寛(鉄幹)の詞がなかなかにユニークで面白い唱歌に仕上がっておりますのでここでご紹介することにします。まず東京を汽車が出発するまでの前置きがなんとも長い。しかも旅は長崎までなのに歌は神戸で終わっています。もっとも明治33年当時はまだ山陽線は三田尻駅(現在の山口県防府駅)までしか伸びておりませんでしたので神戸からは船の旅だったのかも知れません。
この「汽車の旅」、第2集は奥州線・第3集は中山道・第4集は常磐線と鉄道唱歌同様、どんどん増殖して行っております。国会図書館アーカイブにある資料では「第5〜12集迄逐次出版とありましたが、実際に出されたかは不明です。それと面白いのは、あとの方のシリーズでは作詞の与謝野、作曲の奥ともにペンネームを用いていて、与謝野の方は「竹の家主人」と、奥は「狛の家主人」とそれぞれ名乗っていることです。
まあ歴史に残るような凄い歌ということではないですが、明治期のひとつの記録としては大変に興味深いものです。
( 2018.12.29 藤井宏行 )