母は熱心に念仏を称え、口癖のように子どもたちに念仏の大切さを説いていた。反発ばかりする私にも、お願いだからと念仏を迫っていた。その母も求めるところがなかなかつかめず、長い間苦悶していたようだ。それゆえに念仏を迫る母の言葉も科学的思考に染まっていく私には説得力を欠いていた。一方、それでもなお親鸞聖人の教えを求める姿は私の脳裏に焼き付いた。母が阿弥陀仏の抱擁を実感できたのは、やっと晩年になってからである。
母に反発していた私が一人前の小児科医となり、少しばかりの鼻を高くし始めたころ、ある患者の死に強い挫折感を感じたとき、何よりも聖人の教えを求めたのは紛れもなく母の影響だった。真宗の解説書も、著名な方の法話も理解が及ばず、何度も投げだそうとした私を常に励ましてくれたのも、心に焼き付いた母の姿だった。
そして数年後、幸運なことに私にも念仏の喜びの世界が開けた。
母に話すと、それは母の喜びの世界と同じだった。母はその喜びを幾首もの歌にした。前掲の一首はそのひとつである。
間もなく母の命日がくる。お仏壇に本を供えて母の恩を思う。
備前市(こまざわ小児科院長) 駒澤
勝 |