「どうか私を、いや私たちを助けてください」

2次訴訟原告T

「生徒から教わることがなくなったらこの仕事はできへん。そのときは辞めるしかない。」

この言葉を聴いたのは、もうずっとずっと前のこと、私がまだ20代の頃でした。当時、教師になって間もない私は、いかにすればうまく生徒に教えることができるのか、「教える」ことばかりを考えていました。だから、同僚たちで自主的に開いた「授業研究」において、ある先輩教員が発したこの言葉は私には思いもよらぬものでした。しかし、今ではよく分かります。教育という営みは教師が生徒に「教える」という一方通行ではできません。生徒の声や姿から受け止めるものがあってこそ初めて「教える」ことも成り立ちます。私が曲がりなりにもこの仕事を続けてこられたのは生徒の存在があったからです。教員を育てるのは生徒たちです。そしてそれを手助けしてくれるのは、同じく生徒と向き合っている同僚たちです。

02年、「教職員の評価・育成システム」試験実施が始まったとき、周囲のほとんどの教職員は、こんな馬鹿げた制度が定着するわけはないと高をくくっていました。私もその1人でした。教育委員会の意向ばかりを気にする校長に教員の育成などできるはずはない、そんなことは誰もが分かっているはずなのに、こんな形式主義的なことをなぜ実施するのか不思議にすら感じていました。一方で、成果主義的賃金導入のための布石であろうという声があり、それを歓迎する同僚もいないではありませんでした。

03年、試行実施の名のもとに「自己申告票」なるものの提出を課せられ、同僚たちはパソコンに向かい初めての「作文」に苦労していました。しかし、私は提出しませんでした。制度に対する異議申立というよりは、自己申告票を作成するという、まるで茶番のような時間が惜しかったからです。校長もそれがわかっていたようで「まあ、今年はええやろ。しかし、やがて給与にも反映することになるだろうし、そのときには出さないとあなた自身が困ることに…」と言われました。実のところ、私はそれほど強い信念があって出さないと決めたわけではありませんでしたので、そうなったら出さざるを得ないだろうなと漠然と考えていました。 

ところが、04年度、卒業式予行の場で担任する生徒が「君が代」について校長に質問をした際、その生徒の発言をサポートしたことを理由として私の能力評価は「C」とされたのです。「C」という烙印は教員の矜持を奪うものです。納得がいかず苦情申出をしましたが、校長の評価は変わりませんでした。自分が身をおく教育現場のあまりの理不尽さに呆然とすると同時に猛烈な怒りがこみ上げてきました。現在、この件については大阪弁護士会に人権救済の申立をしています。 

それ以来、一体このシステムが何を目的とし何をねらいとしているかについて考え続けてきました。今思うことは、私に下された「C」評価は私個人の問題ではなく、これこそがシステムの本質であるということです。「教職員評価・育成システム」は成果主義などではありません。成果主義を仮面として、国家→政府(教育再生会議・文部科学省)→教育委員会→校長→教員→生徒という一方的なベクトルを学校において実現するシステムです。かつて私の母の世代、学校とそして教員は、国家が望むところの子どもたちを育てる装置として機能しました。今また、グローバル化する国際社会において国家が望むように子どもたちを分別し「教える」装置としての学校が企図されています。まさに、格差社会における差別と人権侵害を容認し支える社会が、「教育」の手によって作り出されようとしているのです。「教職員の評価・育成システム」は、戦後培われてきた公教育の在り処の、その本質ともいえるものを捨象させるものと言えます。

昨年、新勤評反対訴訟相談会に参加して以来、この裁判に加わりたいと思っていました。裁判の原告になるなど、数年前の私から考えればまったくありえないことです。裁判所に足を向けたことも法律についての知識も持ち合わせていませんでした。「原告」が務まるかどうか不安もあります。しかし、やらないわけにはいかないだろうというのが率直な気持ちです。私たち学校現場に身を置く教職員が国家教育の傭兵となるか、それともあくまで生徒と共に「教え合う」関係を維持し、誰もが幸せを求めることのできるあるべき社会を目指すのか、今、私たちは分水嶺に立たされているのかもしれません。 

学校現場のみなさんにお願いします。どうか私を、いや私たちを孤立させないでください。システムに疑問を持たれているのなら「自己申告票」を提出しないでください。そして、できれば第3次原告に加わってください。日々接する子ども達が声をあげられないでいる現況はどう考えたっておかしいはずです。子どもたちの姿や声からわたしたちの為すべきことも見えてくるのではないでしょうか。