実戦・極真武道会について





極真カラテ、『実戦極真武道会』の特色


1994年の大山総裁逝去後、「極真」は複数の団体に分かれそれぞれの理念の下に活動をおこなっていますが、
実戦極真武道会は、極真カラテ創始者・故大山倍達館長時代からの極真空手伝説であり、元来の極真空手の精神を忠実に守り武道極真空手、極真精神の指導を行う事を理念としていたボビー・ロー師範の直弟子によって設立されました。

極真カラテは、武道としての空手を追求していく中で、競技空手が中心の時代に 空手の基本・型・武器術を再度見直すとともに、
現代の日本人が失いつつある礼節にも重きをおいた活動をおこなっています。

また既存の極真空手のフルコンタクトルールのみならず、近年は手技による顔面攻撃を認めた真剣勝負ルールなどの大会を行い
組織を上げて武道空手の実践に力を尽くし、空手を通して青少年の育成に努めております。

顔面ノーガードルール・グラップリング・柔術・締め等にご不安・ご不信をお持ちの方は是非、当武道会へいらして下さい。
ボクシング・柔道・柔術・レスリング・プロレスリング・総合格闘家、等各分野に精通した専門指導員が親切丁寧にご指導致します。








極真カラテにおける型の意義について

代々木体育館に於ける全国支部長・指導者、講習会配布資料より抜粋

ここ数年来、型競技が浸透し選手の型に対する認識や取り組みも高まってきました。
大変素晴らしい傾向ですが、一方で競技化による弊害も少なからず出てきているように思われます。
「型の為の型」「型にはまりすぎてしまう」「競技で高い点数を取るための技」等は、極真空手が本来あるべき方向からずれてしまっていると言わざるを得ません。
では我々、極真空手を志す者が目指すべき姿とは、型の稽古とはどういうものであるべきなのかを、大山総裁の生前の講話から考えてみたいと思います。



ひとつひとつを大事に身につける。くり返しくり返し同じ型をやり通すことのほうが、真の修行になります。
そういう中にこそ、忍耐とか、決断とか言う精神力が育ち、初めて真の修行になるといえます。
技そのもの、からだの運びとリズム、呼吸、間合いや、技のきめ方などを型の中から学ぶのです。
型はすみからすみまで、戦うことのための合理的なパターンの集まりです。
そして相手を倒すという目的がつくりあげた型だからこそ、そこに見る人は美しささえ感ずるのです。
型は空手のエッセンスといえるでしょう。
しかし、それだけではなんの役にも立つものではないこと、「型」は目的ではなくて、充実した組手の力を養うための「手段」であることを忘れてはいけません。


君たちが選手権大会で力いっぱいいくら叩いても全然倒れない。それは叩き方が悪いからだ。皆、肩に力が入ってしまっている。力任せに叩いても人は倒れない。
突きは「三合法」といって、丹田から出た力が、脇の下を通って、拳頭に集中するのが正しい、拳は軽く握る。そして拳をひねる時に、小指と薬指にしっかりと力を入れる。
これが空手における突きの極意だ。それが完全にできるようになれば、一撃必殺は夢ではない。
しかし実際にやってみればよくわかるが、これが難しい、実際にはなかなかできない。できないが、拳の極意というなら、それが極意だ。それには空手の稽古をする。
基本をやり型をやり「力の強弱、技の緩急、息の調整」空手の三要素を完全に身につける。
空手というのは、奥が深いよ。今の日本の選手の中で試合場の上でそういう突き方ができる選手はいないのではないか。
それを危惧して、私は口を酸っぱくして言うのだが誰もやらない。黒帯でもやろうとしない。
しかし私がプロレスラーを倒したのは、全部、「三合法」に合った突き方だったよ。



ルールを考える上で心に留めておくべきは「はじめにルールありき」ではないということである。
その点を理解できれば、ルールの持つ意味、ルールの精神というものも自然にわかってくるはずである。
このルールならこれが出来るぞ、と「ルールの抜け道」を探すのは武の教えに反する。


極真カラテにはひとつの哲学、理念があります。
極真カラテの哲学とは、すなわち極真カラテは政治、思想、宗教、経済、民族、国境、その他すべてを超越したところに在る。
いっぽう極真カラテの理念、究極的にめざすものは何か?
いうまでもなく精神的にはサムライの心の体得であり、技術的には「地に則った基本・理にかなった型・華麗なる組手」の完成である。
いささか手前ミソとなるが、理念体系に盤石なものがあるのが、極真が、「最強最後の空手」といわれるゆえんではないだろうか。
私はこうした独自の哲学、理念が今後も脈々と受けつがれていく限り、極真カラテの土台は安泰だと、ひそかに自負している。









実戦極真武道会 東京三鷹道場