「ハッピー・マフィン・プロジェクト」は、移動販売のクレープ屋として
2005年5月5日、道東の別海町で始まりました。
「マフィン」なのにどうしてクレープ屋なのか、、、
別海町に住む友人夫婦のお蔭で、東京から「渡りに舟」とばかりに首尾よく引っ越してきたはずが、
いきなり躓いた結果です。
でもまあ、それで良かったのです。もしも当初の計画通り、マフィンを焼いて売り歩く商売として始めていたら、誰にも相手にされず、おそらく半年もしないうちに店仕舞いしていたことでしょう。今、振り返っても冷や汗が出ます。天の配剤としか思えません。

名前にあえて「プロジェクト」と入れたのは、「みんなでハッピーに生きよう」という想いを、この仕事を通して実践したかったから。
自分たちなりの幸福な生き方を模索するうちここに辿り着きました。
おいしいお菓子を作ってみんなに喜んでもらいたい。商売することでお金という力、社会にとっての血液を健全な方向に回したい。そのためにどんな基準で物事を決めていったらよいのか。。。
思い込みの激しさとは裏腹に、やることなすこと、どうもチグハグになりがちなわたしたちですが、
3つの柱を基本に据えました。

<本物の素材をつかう>
  わたしたちが育った家庭では、マーガリンや化学調味料が当たり前でした。おやつは駄菓子やスナック菓子。たまの休みに、母親が即席プリンの素でつくってくれるプリンが極上のスイーツでした。中学生になり、自分でお菓子を作るようになってからも、選ぶのはケーキ用マーガリンや植物性の生クリーム。安かったし、それで十分と思っていました。それなりにおいしいと感じていたのです。 でも、ある時、本物を食べて驚きました。なんだか自分が騙されていたような感じがしました。そうして大人や社会に対する不信感でいっぱいだった頃の気持ちを思い出しました。 それ以来、買うなら本物を、と決めてお菓子をつくってきました。買えなくなったら、作ることじたい諦めます。

<食品添加物はできるだけ避ける>
本当のおいしさをお届けしたいという気持ちのほかに、本物をつかう理由はもう1つあります。食品添加物をできるだけ避けたいからです。 安さも大きな価値だから、添加物を投入してでも本物に似せた乳製品が開発されていったのでしょう。ほんの一つまみ入れるだけでチーズの風味がぐんと増す添加物だってあります。すごいです。 製造者が直接使っていない添加物については表示もされないから、実際には目にする以上に含まれていることもあり得ます。それで、選べるものならできるだけ避けようと考えて暮らしてきました。 農薬にしても食品添加物にしても、それぞれの物質について「安全」とされる基準は確かにあります。でもその基準値は、あくまで動物実験の結果を健康な成人男性の身体にあてはめ、一定の安全率を掛けて算出されたもの。 そんな基準で本当に発育途中の子供の身体が守れるのか、疑問視する声も出ています。しかも、実際には食事のたびに複数の化学物質が一緒に取り込まれているはず。にもかかわらず、それらが組み合わさることで招くかもしれない影響については研究が進んでいません。 また、近年のアレルギーの研究では、中毒を引き起こすレベルより遥かに微量の化学物質が症状の悪化を招くこともわかってきているのです。

<投票行動のつもりで食材を選ぶ>
「ハッピー・マフィン・プロジェクト」が存続できるのも、わたしたちの提供するものに対してお客様がお金を支払ってくださるから。立場がかわって、わたしたちが原材料を買うときも同じです。 平飼い卵を選ぶのは、もちろんそれがお客様の身体にも心にも良いエネルギーをもたらしてくれると信じているからですが、「みんなでハッピー」には、動物たちも含まれます。日頃手にする食材のなかで、未来への違いを生むために選びやすかったのが卵でした。 わたしたちが平飼い卵養鶏場に1票を投じることで、1円でも安い卵にするため一生狭いケージの中で過ごす鶏たちの飼育環境が見直され、平飼いや放牧があたり前の社会になったらどんなにいいだろうと思うのです。

そして、、、 お小遣いをにぎりしめた子供たちが気軽に買いに来てくれるようなお店になること。それが大事と思いました。 そのために、多少は妥協しながらでも、最善を尽くしてつくったお菓子をできるだけ低価格で販売しよう!!! そう心に決めて出発したのでした。

それがどうして札幌に来ることになったのか?
もともと、東京から北海道の別海町に移り住んだのは、スノーボードが目的でした。
30歳になってから始めたというのに、タカシはすっかりスノーボードに魅了され、東京から長野に通うこと約7年。しまいにインストラクターの免許までとるほどののめり込みようでした。

それで引っ越してからの最初の3シーズンは、当時弟子屈にあったビラオスキー場に毎日通ったのでした。 練習するにはもってこいのゲレンデでした。 シーズン券だけを買い、弁当・飲み物持参で休憩所と兼用の食堂に常駐しているようなわたしたちなのに、食堂のおばさんもリフト係の人たちも、「今日もご苦労様」って感じに迎えてくれました。 おまけに、地元のボーダー達もみんな気のいい連中で、憧れの山ごもりを満喫していたのです。

ところが、雪不足と利用者減が原因で、そのスキー場には、つねに閉鎖の噂が。。。 おまけに家主さんにも事情があって、いつ退去を言われるかわからない賃貸契約。

「もしも今が引越しのタイミングなら、きっと条件に合う貸し店舗が見つかるはず」
別海のお客様には複雑な思いでそう伝え、2008年の夏に札幌を訪れました。
札幌ならゲレンデがなくなることはないだろうと思ったのです。
とはいえ、正直な気持ち、別海の友人たちやお客様に対する愛着は相当強かったので、期待はちょうど半分くらいでした。
いい物件が見つからなかったら、まだ別海にいようと決めていたのです。

ところが、やはりタイミングだったのでしょう。
たった1週間の滞在中に今のお店が見つかり、札幌に引っ越すことが決まりました。
わたしたちが別海を出た年の冬、ビラオスキー場は閉鎖されました。
ずいぶん複雑な気持ちの引越しになりました。

「まぁ3年はメシ、喰えないつもりでやれよ」
札幌に行くことにしました、と伝えると、別海のAコープで顔見知りになった同業者は苦笑いしながら言いました。実際、自分たちが別海町で3年半やった経験からいってもそんな感じはありました。繰り返し来てくださるお客様の数が徐々に増え、厚みを増して、売り上げが伸びてきたことを実感できたのは丸3年を過ぎてからだったのです。なので、まあ、ある程度覚悟はしていたのです。

ところが、それがどんなことか、、、なけなしのお金がまるでお風呂の栓を抜いたみたいに出て行ってしまう毎日がどんなことなのか、覚悟と現実の間には、クラクラするほどの距離がありました。家賃を払い終えた直後はとりあえずホッとしました。普段よりちょっと売り上げの良い日が続くと「今月こそは」という強い気持ちになれました。ところが中旬を過ぎ、再び月末が近づくにつれ暗雲が。。。(さらにコアな話を聴きたい方は、精神保健福祉士が個別に対応いたします)

人生には渡りに舟のタイミングもあれば、泣きっ面に蜂のタイミングもあるものです。
他の事情も重なって、札幌で店を再開してからちょうど丸3年経とうというところで、諦めざるを得なくなりました。

「とにかく確実に現金収入を増やさなくては」
そう考えたわたしたちは、8月に入ると休日のたびにハローワークに通いました。
狙ったのは土日休みのフルタイム・ジョブ。それぞれがある程度仕事に慣れたところで、日曜日には店を開けようと考えたのです。
でも果たしてそれで、いつまた営業を再開することができるのだろう???
お互い敢えて口には出さなかったけれど、そんなことを考えてクラクラしている自分がいました。
そうなるとなんだか足元から力が抜けていくようで、潮が引くみたいな、全身が萎えていくような、すうぅっとはかなげな感じがしました。
7月に地デジに切り替わってしまってからは、テレビを見ることもなかったので、世間から切り離されてしまったような心もとない時間が流れてゆきました。

「だったら、もう、何が何でも日曜日だけは店を続けるしかないんぢゃあないか?!」
二人でそう口にすると、ブラウン管に映像が戻ったような(錯覚)、全身を血液がびゅんびゅん駆け巡るような感じがしました。

そんなわけで、再就職を果たした9月の第1週から、日曜日だけの営業が始まりました。身体はクタクタでしたが、心は軽くなりました。とりあえず収入のめどは立ったし、お客様とも繋がっていられる。。。その安堵感といったら、もぉ夢のようでした。

つづきはまた今度

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