赤い靴

横浜の港の山下公園には”赤い靴”のブロンズがある。 幼い頃から、よく知っている童謡である。 しかしながら、どことなく、メロディがもの悲しい。 歌の深い意味は知らず、つい最近まで、遠く離れた外国に住んでる、わが娘を慕う内容と思っていた。 作詞は野口雨情。少女の名前はきみちゃんという。 北海道の開拓地に入植したが、生活が苦しく、やむなく3歳の時に、アメリカ人宣教師夫妻に預けられ、お母さん、お父さんと離れ離れになった。 その後、6歳の時に宣教師夫妻に帰国命令が出たが、きみちゃんは病気で一緒にいけず、六本木の孤児院に預けられた。それから、3年後の9歳の時に、病気のため、幸せ薄い短い生涯を閉じた。 その事実を知らず、お母さんは宣教師夫妻とアメリカに渡ったと思い込み、隣家の同じ新聞社に勤めていた野口雨情によくその話をしていたそうだ。 雨情はその話に感動して、この”赤い靴”の歌を作った。 大正12年のことである。 その後、50年も経った昭和48年、北海道新聞社に短い投稿記事が載った。 実は”赤い靴”に描かれた女の子は私の義姉です。今、どうしているか知りたい。。。。。その話を聞き、きみちゃんのその後を追ったのが、当時、北海道テレビ局の記者だった菊池寛とは露知らずである。 菊池寛は、夫妻の実家、北海道の開拓村、宣教師夫妻の住んでいたアメリカに渡ったり、横浜、函館などの外人墓地を調べ、とうとう、港区の管理事務所で”きみちゃん”の名前を発見。 明治44年9月19日、結核で死亡、9歳との記録を見た。 5年もかけて、きみちゃんを追いかけた菊池寛にとっては思いもかけないつらい結果だった。 以上、読売新聞文化部発行の唱歌童謡ものがたりから。  歌が出来てから、50年以上も経った後、その事実がわかると言うことだったとは知らなかった。 そんな思いをめぐらせながら、山下公園にあるブロンズを描いてみた。

トップに戻る

赤い靴
今日も、遠く海を見つめてる。

母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうだ。 
屈伸

功を拙に蔵す

才能は隠して外面は拙劣を示す。
屈を以て伸と為す
普段は人に対して、わが身を屈していて、やがて、伸展する時に備える。
是ら二つは処世の要諦である。
菜根譚(明:洪自誠)

萌夏ちゃん

つい先頃、愚妻の友人から赤い靴を履いた可愛いキューピーの着せ替え人形を頂いた。 赤い洋服、赤い帽子、赤いポシェット、赤いスカーフ、全部手作りである。 我が家には娘がいないので、萌夏(もえか)ちゃんと名前をつけサイドボードに大事に置かれている。