T「作用と反作用」


 (…甘かったっ) 
 (このままで終わるはず、無かったのに)
 夏休み前の最後の授業。来週からは期末テストという日に、配られた一枚の謄写版のプリントを手に持って凝視しながら、北上千鳥はそんなことを考えていた。

     「1年A組 第1学期期末学力考査(物理分野)実施要領

実施日時              平成○○年7月○日(金) 第1時限
     実施会場              体育館横特設会場
     出題範囲              1章「力と運動」及び2章「波動」の一部
     携行物                  HB黒鉛筆(シャーペン)・消しゴムのみ(電卓不可)」

 「出題範囲はこの間説明した通り。ひねくれたような問題はないから、よく考えれば全部出来るはずだ」
 物理の八重山が、教壇に手をつきながら説明している。しかし、聞いている生徒からは、何ともやりきれないといったような、くぐもった不満の声が上がっていた。
 物理の試験が「全部できるはずだ」というのは、どちらかといえば文科系の千鳥のような生徒には厳しい話だ。しかし、問題はそこではない。
 「体育館横―というのは、体育館の外に、机と椅子を並べてやるということですよねえ」早苗が訊いた。
 「そうだ」八重山は、なぜそんなことを聞くのかというように、怪訝な顔をしている。
 年齢の割に髪がうすく、額はてかてかと光っている。そして、お決まりの髭と丸眼鏡。「エンゾと呼んでもいいぞ」などと本人は言っている。もちろん、誰も呼ばないが。
 「げっ。一番底じゃん」
 「15メートルはあるよ」
 「あたし、そんなに潜れない」
 「静かに」ざわざわし始めた生徒たちを、八重山が遮る。「質問は、挙手の上すること」
 「はあい」春菜が手を挙げた。「あたし、人魚じゃないんだから、そんなこと出来ません」
 「確かにお前は人魚じゃないな」八重山が答えると、くすくすと笑い声が起こった。小柄で子供っぽく、しばしば中学生に間違えられる春菜は、確かに人魚のイメージではない。
 笑われた春菜は、むすっと黙り込んでしまった。
 うちのクラスで人魚と言ったら、演劇部の天霧か、委員長の吉乃だろうか。二人とも背が高いし、胸あるしね―と、千鳥はやや自分と引き比べてそう思った。
 「でも、どうして普通に教室で試験を出来ないんですか」その吉乃が質問する。
 「普通?」と八重山。「だがお前ら、普通を求めてこの学校に来た訳じゃないだろう?」
 「それは」吉乃が口ごもる。
 確かに、千鳥たちの学校は普通ではない。
 全寮制で、県下でも有数の女子進学校。そこまでは良いのだが、その学校には、一点少し、いやひどく変わった所があった。
 と言っても、カリキュラムがどうとか、校内行事がどうとかいう事ではない。問題は、学校の建物そのものにあるのだから。
 千鳥たちの学校は、すべて水の中にある。
 地上から見ると、巨大な方形のプールがあるだけで、そこに校舎やら体育館やら、すべての学校施設が沈んでいるのだ。出入りは、水面下5メートル程のところにある屋上の昇降口から行う。廊下もことごとく天井まで水浸しで、生徒たちは、唯一空気のある教室と教室の間を、息をこらえて泳いでいかなければいけない。水底―つまりは校庭は、校舎を3階分潜った水面下15メートルの所だ。万一、溺水事故が起こった場合に備えてアクアラングも用意してあるが、ただし一番底の1階保健室にしかないので、あまり意味は無い。「心肺機能の鍛錬を通じた心身の育成」というのが学校のモットーだそうだが、どうも千鳥には学校を挙げて生徒を溺死させようとしているとしか思えない。
 千鳥は、進路指導で薦められるままにこの学校に願書を出してしまったのだが、もし学校がまるごと沈没しているのだと分かっていたら、ここを選んでいただろうか―と思うことがよくある。いや、絶対に、確実に選ばなかっただろう。こんな風に、巨大プールの底で息こらえをしながら期末試験を受けさせられるのだと知っていたら。
 「物理はインスピレーションだ」
 生徒たちのぶうぶう言う声をものともせず、八重山はお気に入りのセリフを言う。
 「天才ならいい。天才なら、インスピレーションは黙っていても向こうからやって来る。しかし俺たち凡才は努力しなければいけない。努力して、自分の心身を極限までに追い込まなければ、インスピレーションはやって来ない。これは、そのためのトレーニングだ」
 「そんな非科学的な」
 「極限まで追い込んで頂かなくても結構です」
 生徒たちが口々に反発する。しかし、八重山に「ならお前がやってみろ」という者はいない。なぜなら八重山はなんでもフリーダイビングの世界では有名らしく、スタティックなんとか競技では六分だか七分だかのもの凄い記録を持っているらしい。彼自身も、インスピレーションを得るために日々努力しているのだろう。あまりその姿を想像したくはないが。
 「最も、生徒の安全が最優先されることには変わりはない」
 八重山が意外なことを言ったので、生徒たちは一瞬静まり返った。
 「考査中、危険があると自分で感じたり、危険だと俺が判断した場合には、マウス・ツー・マウス式による気道確保と呼吸回復を実施する。その時点で、その受験者の考査は終了したものと見做し、答案は直ちに回収し採点する。以上だ」ぱたん、と音をたてて出席簿を閉じる。
 「マウス…って何?」生徒たちがざわざわする。
 「…要するに」武緒が、うんざりしたような口調で言った。「苦しそうな奴がいたら、口移しで人工呼吸して回るってことだろ」
 八重山は、これまでで最大級に高まった生徒たちの非難の声を後に、ウェットスーツのジッパーを胸元まで引上げると、あざやかな身のこなしで廊下へとすべり出て行った。