<Deep Blue>


#2「変化」

 セミの声が耳を刺す、真夏日だった。沙耶が倒れた。
「だいじょぶか、沙耶?」
 授業をさぼって保健室をのぞく。カーテンの陰、いちばん奥のベッド。制服のまま横たわる沙耶の顔は、白い上掛けと変わらないほど、色を失っている。
「ケイちゃん、お願い、プールに連れていって」
「プールって、おまえ、すっげー調子悪そうだぞ。自分でわかってんのか」
「苦しいの。お願いだから……」
 半身を起こそうとするが、ふらついてベッドの上に片手を突き、うつむいてしまう。長い黒髪がばさりと垂れて、影を作った。目だけが光を返している、思いつめたその表情。
 ごくり、俺は、つばを飲み込んだ。
「そんなに言うんなら連れてってやるけど、どっかのクラスで使ってんだろ、プール」
「水が静かだもの、誰もいないわ」
 足元の怪しい沙耶に手を貸してプールに向かった。
 着替えもせず、上履きだけ脱いで扉を開ける。プールは、彼女の言葉通り、無人だった。なんで分かったんだろう、保健室で先生の会話でも夢うつつに聞いていたんだろうか。
「沙耶!」
 彼女は俺の脇をすり抜け、水面に身を躍らせた。波紋が広がり、消えてゆく。無茶だ、服着たままで飛び込むなんて。凍り付いた俺の頭が思考力を取り戻すまえに、数メートル先に沙耶が顔を出した。しあわせそうな、満面の笑み。それから、波も立てずにすうっと泳ぎはじめる。俺はプールサイドを小走りに、泳ぐ彼女を追いかける。
「泳いだりして大丈夫なのか?」
「水に入ったら、治っちゃった」
 ふふ、と笑ってくるりと潜る。濃紺のセーラーカラーとスカートが揺らめき、形のよい脚の線が目を射る。真っ白な足裏、ふくらはぎ。それ自体が意思を持っているみたいに、しなやかに水を蹴る。光ゆらめく水底を、沙耶は際限なく泳ぎ続ける。ほんのときたま、思い出したようにしか、彼女は息を継がない。
 なにか、取り返しのつかないことが起こってしまったような、そんな感覚に俺はとらわれていた。

 それから数日、持病を理由に沙耶は欠席を続けた。ようやく登校してきた彼女は、プールに飛び込んだあの日よりも、ずっと落ち着いていて、奇妙な静けさをたたえていた。
 家まで送る帰り道、彼女は信じられない話を始めた。
「昔、ひとりの漁師が人魚の娘を見初めたの。ふたりの子孫は陸で暮らしていたんだけど」
くすり、と笑い、
「ときどき、あたしみたいな『先祖帰り』が生まれることがあるんだって。最近では、お祖母さまの妹、大叔母様がそうだったらしいわ」
「じゃあ、おまえは」
 夏の風に、ふわりと長い髪がなびく。真っ黒な、ときに緑の光沢を帯びて見える沙耶の髪。
「変化は始まってしまったから、止めることはできないの。もうじき、陸では暮らせなくなってしまうわ」
「冗談だろう。そんなことがあってたまるか!」
「証拠を見せてあげる。今夜、プールに来て」

 俺はゴーグルをつけ、息を詰めて見守っている。
 競泳用プールに仰向けで横たわり、息を吐く沙耶。気泡が連なり、水面へ上ってゆく。沙耶は唇を大きく開け、そのまま息を、いや水を吸い込んだ。水が気管支から肺を満たす瞬間、びくんと背をのけぞらせ、爪がプールの底をかりかりと掻いた。しかし、苦悶は長くは続かず、すぐに穏やかな、むしろ恍惚とした色が顔に浮かぶ。水に満たされて浮力を失った身体は(ボトム)で弛緩し、胸だけが上下している。
 一分も経っていないはずだが、信じられない光景に、胸が苦しくなってきた。上がろうとする俺の手首をつかみ、沙耶が視線で訴える。もう少し、最後まで見ていて。
 カットの高い水着の裾からすらりと伸びた彼女の太腿が、薄青く光る真珠色の鱗で覆われていく。微速度撮影か、映画の特殊効果みたいに。どうなってしまうのか見届けたい、だがもう、息がもたない。
 浮上する。俺は息があがってしまっている。立ち上がった彼女の、太腿から膝のあたりまで鱗で覆われてはいたが、脚の(ライン)はもとのままだ。人でも人魚でもない、その姿。俺はたぶん、戸惑いと畏怖の混じった表情を浮かべているだろう。沙耶は少し悲しげに睫毛を伏せた。
「あたしはまだ、不完全な変化しかできないの。『大人にならなければ駄目だ』って、お祖母さまは言ったわ」
「それって……」
「そう。ケイちゃんのずっとしたがってたことよ。でも、水の中で。お願い、水の中で、あたしに頂戴」
 沙耶の瞳が潤み、視線が熱を帯びる。
「完全な身体になるために、『それ』が必要なの」
「だけど、そしたらおまえは、俺の前からいなくなっちまうんだろう」
 問いには答えず、沙耶はただ、笑った。そこにいるのは、いつもの沙耶ではなかった。妖艶とさえ思える笑みを浮かべ、紅く艶やかな口唇、濡れた黒髪がなまめかしい。異質な存在に対する根源的な恐怖が、細胞の奥から湧きあがってくる。しかし、目が離せない。魅入られてしまう、というのは、こういう状態を指すのだろう。たとえどんな結果が待っているとしても、彼女に抗うことなどできやしない。
 俺は『水妖』という言葉を思い浮かべていた。