その夜、青騎士団長ユーリは人生最大の当惑に襲われていた。
四十を過ぎて不惑……とは誰が言ったものか。まったく大嘘も甚だしいと胸の奥で嘆息しながら、目前に座る青年騎士を眺めやる。
ロックアックス城内に設えられた騎士団長自室のソファで向き合っているのは、彼が自団の中でも最も目を掛け、可愛がっている男だ。その一本気さ、不器用で退くことを知らない、けれど勇敢で誠実な部下は、何処か己の若き日を思い出させる。
地位を上げ、一団を束ねるようになり、不本意ながら我を通すばかりでいられなくなったユーリにとっては、青年は懐かしいもう一人の自分であり、自然愛さずにはいられない存在なのである。
だが────
今宵ばかりは彼は青年が己の部下であることに心底溜め息をつきたい気分であった。
ユーリは青騎士団においてカリスマ的な指導者であると同時に、親しみやすい兄貴分のような人物であった。
勇猛果敢な武将でありながら、日常においては部下の言にのんびりと耳を傾ける鷹揚な人柄。気さくで開けっぴろげな彼は、部下の武芸の指導から恋の悩みまで、楽しげに相手をするような騎士団長なのである。
彼の自室には常に多くの部下がたむろしていた。殊に親友であった赤騎士団長が戦没してからというもの、長い夜の無聊は埋め難く、訪れる部下を歓迎するユーリだった。
己を慕ってくれる多くの部下たち。その中でも最も愛すべき青年の訪れは、常ならば喜ばしいことであっただろう。
現在青年は大きな問題を抱えている。三日後に決闘を控えているのだ。
決闘────
古式ゆかしいこの儀式は、騎士団においても風化された風習である。私闘がおさまらなくなった場合、騎士団のトップを立会人として行われる公式の喧嘩────と言えば聞こえはいいが、実際には殺し合いさえ是認される文字通り命懸けの儀式なのである。
青年の決闘相手は赤騎士団長モウル。
白騎士団長ゴルドーから正式な通達が降りたときには驚愕したものだ。何故そのような事態になってしまったのか。他団の団長と剣を交えるまでに部下が思い詰めた理由には察しがついた。
おそらく────
赤騎士団に所属する親友を巡る確執なのであろう、と。
こうして自分を訪れた部下は決闘を控え、それに対する何らかの助言なり檄なりを求めに来たのだろう────彼はそう信じて疑わなかった。だからこそ、その心積もりで切り出したのだ。
「マイクロトフ、ここまできてしまってはわたしには何も言うことは出来ぬ。おまえの誇りが命ずるまま、剣に恥じることなき戦いを────」
「ユーリ様」
だが、そこで部下は彼の言葉を遮った。無骨ながらも、礼節には重きを払う男には珍しいことだとユーリが目を細めたのも束の間、次に飛んできた一言は彼を混乱に叩き落した。
「……男同士で愛し合うには、どのような手段を用いるのですか?」
────己の信念を貫くことに夢中で、周囲の噂話や政治的な配慮になど無頓着な猪男。
生真面目で勇敢で、だが女性の扱いは殊に下手。
浮いた噂のひとつもなく、仲間が城下の娘の話をしているだけで逃げ出す朴念仁。
恋愛沙汰には無縁で、送られる秋波にさえ気づかないほどの鈍感男。
誰だったか、『あいつはレディを抱き締めるよりも、剣を抱いて眠る方が好みらしい』と評していたか────
────いやいや、待て。
あるいは命さえ危ういという人生の一大事を抱えていながら、この話の展開はいったい何なのだ………………?
ユーリは元来ものに動じない男であったが、今回ばかりは動じすぎて思考ばかりか表情まで固まってしまっている。半ば引き攣る笑顔のまま、彼は何とか口を開いた。
「あー……マイクロトフ、それは……どういう……?」
「ユーリ様ならば、教えてくださるのではないかと思いまして」
見返すマイクロトフは必死の面持ちである。この男が酔狂でこうしたことを言い出す筈もなく、ユーリは途方に暮れながらも彼の真剣さを認めぬわけにいかなかった。
「…………おまえ…………好きな男でも出来たのか?」
確かに部下の恋の悩みは腐るほど聞いてきた。が、よりによってこの男からそうした話題を持ちかけられる日が来ようとは。
しかしマイクロトフは即座にぶんぶんと首を振った。
「ち────違います! その、あの、おれは……つまり、その……世間一般常識として……そう、知識として知りたいと思いまして!!!」
────馬鹿者。
嘘ならばもっとうまく吐け、このたわけ者。
ユーリは内心げんなりした。
目を掛け、いずれは騎士団を率いるだけの器と確信している男だが、この真っ正直さはどうだ。
真っ赤に染まった顔、不必要に大袈裟なリアクション。全身で『嘘です』と宣言しているのに気づいていないのか。どのあたりの教育を誤ったのだろうと頭を抱えたくなる青騎士団長だったが、まずは横に置いておくことにした。
幼い頃から騎士として生きることしか考えていなかったような男の思春期───それもかなり遅い───の到来は、親代わりのような存在のユーリとしては喜ぶべきことであろう。他の部下の恋の噂を聞くたびに、脳裏にマイクロトフがちらつかなかったと言えば嘘になる。
あいつはいったいどうなっているのだ、女性が苦手といっても程がある、ひょっとして機能に問題があるのか、問題なのは意識の方か────と密かに胸を痛めていたのは事実である。
だとしたら、たとえそれが世の摂理から外れていようと、マイクロトフが性に関心を示したことを諸手を挙げて歓迎し、極上ワインの一本でも開けてやるのが自分のつとめ────なのかもしれないのだが。
「何故……わたしに聞きに来る……」
「ユ……ユーリ様はこうしたことにお詳しいと耳にしました! それで……その…………」
────何故にわたしが。
非常に不本意な認識をされていることに彼は呆然とした。
確かに騎士団は男だけの世界、中にはそうした恋愛に悩んで扉を叩く者もいた。彼は出来得る限り真摯に彼らの言葉に耳を傾けてきたものだ。
おそらくはそうした噂を聞きつけてやってきたのだろう。が、やはり心の声はひとつだった。
────何故、わたしが。
「いいか、マイクロトフ……おまえは今、とても重大な儀式を控えている身なのだぞ? そのような四方山事に頭を悩ませている暇があったら────」
「こちらも重大なことなのです!!!!」
悲鳴のように声を荒げたマイクロトフは、すぐに耳まで赤くして首を振った。
「あ、いや、その────き、気になると精神集中が……その…………ええと」
「……………………………………」
なるほど。
そういうことか────なるほど。
ユーリは虚ろな目で部下を見詰めた。
何ということだ……おまえにとって『彼』は並んで生きる友としての存在を超えてしまったということか。
考えてみれば幾らでも納得出来る。
この鈍くて疎い男は、いつでも『彼』しか見ていなかった。『彼』と肩を並べるため、『彼』に恥じぬ騎士であろうと己を磨き、前だけを見詰めて歩いてきたマイクロトフ。そんな男が、心ばかりかすべてを欲する相手、それはやはり『彼』しかない。
かつて自分と親友が似たような生き方をした。互い以上に心許せる女性に巡り会えずに独り身を通した────
何ということだろう、部下はそんなところまで自分の生き方を辿っている。
苦笑が零れ出た。
結局自分と親友は死に隔てられてしまったけれど、彼らはこれからなのだ。
マイクロトフの想いが何処までいくのか、そしてその魂の片割れは想いを受け入れるか────
可愛がっている部下の初恋を、見守るのも悪くない。
そう────これは騎士団長として、またマイクロトフの保護者分としての使命だ。
────興味本位ではない、多分…………決して。
「まず……役割分担が必須だな、マイクロトフ」
「役割……と仰いますと?」
「つまり……抱く方と抱かれる方と。おまえはどちらが望みだ?」
「そ、それはやはり………………抱き………………」
巧みな誘導尋問だったが、マイクロトフはすんでのところで踏み止まった。
「の……望みなどありません! い、一般知識ですから!!」
「────すでに男同士というあたりで『一般』からは外れているぞ」
「うっ」
「まあ、いい。まず……初めは女性を相手にするのと変わらんな。愛しい相手を抱き締めてくちづけて……相手の性格にもよるだろうが、愛の言葉でも捧げてみるものだ」
「愛の……言葉……」
眉を寄せて考え込んでいるのに、ユーリは溜め息混じりに呟いた。
「……そこまでレクチャーせねばならんのか。まったく……『好きだ』くらい言わんと、相手は女性の代用にされているのかと疑念を持つではないか」
「な、なるほど」
「────おい、何をしている?」
「わ、忘れないようにメモを……」
「馬鹿者、落としたらどうする! このくらい暗記しろ!」
「は、はい!」
最初から脱力しかけたユーリだが、可愛い部下の恋の成就のため、いつしか真剣になっていた。
「……それから……服を脱がせる。良いか、このときにも急いて愛撫の手を中断してはならぬ。でなければ、肉欲ばかりなのかと、相手の誇りを傷つけるからな」
「は、はあ……………………あい、ぶ……?」
「触ることだ!!!」
────どうしてこんなことまで。
ユーリは泣きたい気分であった。
考えてみれば女性の噂にさえ立ち交わらないマイクロトフは、深窓の令嬢並みに純情で、まさに箱入り騎士なのだ。
この上くちづけの技術まで指導することになったらどうしたものかと内心青ざめたが、どうやら彼は先が気になるようで、その点には触れなかった。
「同じ男なのだから、何処にどう触れれば心地良いか、それくらいはわかるだろう?」
「…………………………………………」
「わかるなッ?」
「…………………………はい…………」
如何にも自信のなさそうな声に疲れ果てる。戦場で戦っている方がよほど楽だとユーリは思った。
「さて────ここで分かれ道だ。抱く方と抱かれる方……取り敢えずは抱く側から話を進めるぞ」
「は、はい! よろしくお願い致します!!」
ソファから身を乗り出して目を輝かせる青年に、またも深い溜め息が洩れた。
────あまりにも分かり易過ぎるぞ、マイクロトフ。
こんなことで騎士団を率いる男になれるのか。一軍の将たるもの、周囲に隠さねばならぬことなど幾らでもあるというのに。
だが、だからこそそれを補う伴侶を選んだのだろうと思い直し、何とか『彼』が受け入れてくれるよう祈りたい青騎士団長であった。
「まず、相手は男……女性とは決定的な差異がある。言うまでも無く、構造上の違いだ。女性には男と睦み合う為の…………その、場所が用意されているが……」
次第に声が小さくなる。
どうして二十歳も過ぎた成年男子にこんな講義をしているのか。冷静になると物悲しいので、この際何も考えないように努めることにした。
「男には受け入れる部分がないのだ」
「────はあ……」
「……本当にわかっているのか、おまえは?」
「………………………………は、はい……」
「…………そこで、だ。男同士の場合は別の器官を用いる」
話が生々しくなってきたので、彼は手招いて部下を引き寄せた。広い騎士団長室、誰が聞いているでもないのだが、やはりこの手の話は大声でしづらいものがある。
肝心のマイクロトフは不思議そうに上体を伸ばし、騎士団長が耳元に囁く言葉をおとなしく聞いていたが、やがてあんぐりと口を開けて呆然とした。
「そ、そ、そ、そ………………そのようなところに?!」
「大声を出すな、馬鹿者!」
「しししししかし、ユーリ様。は……入らないのではないでしょうか?」
「……実際に入れている者がいるのだから、可能なのだろう」
「な、なるほど」
「で、問題はそこだ。女性と違って……ぬ、濡れないからな、まずは準備をしてやる必要がある」
「濡れる……?」
「…………………………………………聞き流せ!」
「は、はい! 流します」
ほとほと情けなく思いながらも、自分だけしか頼るものがなく、決死の覚悟でやってきたマイクロトフの心情を思うと、どうしても突き放せないユーリは実に面倒見の良い団長だった。
「例えば……指輪だ。指の方が太くてきつい場合、油などを塗ると滑ってするりと入る。あれと同じだ。濡らしてやらねば相手はつらいばかりだぞ」
「濡らさないと、つらい……」
「『入れる』ことには慣れていない器官なのだから、まずは慣らす必要がある。指で解すのだ」
「指で……ですか?」
「そうだ、このような────感じで」
「こう……ですか? それで慣れて楽になるのですか? 本当にお詳しいのですね、ユーリ様」
「ええい、わたしは経験者ではないのだから感想を求めるな! 部下の相談事を繋ぎ合わせていくと、そうした結論が出るだけだ! とにかく、そうして充分に相手が馴染んだら突入する! あくまでも不自然な行為であることを忘れず、焦らず、ゆっくり、優しくする!」
「……難しいのですね……そのような行為、おれはともかく、カ…………相手は気持ちが良いのでしょうか……」
『相手』と言い直したところは上出来だが、主語が『おれ』になっているのは落第だ、とユーリは心で呟いた。まあ、相手を思い遣れる分、少しはマシか。
「うむ……身体が慣れるまでは、それは苦しくて痛むものらしいが……」
「痛む?! つらい行為なのですか?!」
ぎょっとしたように目を見開いた青年に、ますます苦笑が堪えられない。
これはどうやら本物だ。一生一度の純愛らしい。
『彼』がどう出るかはさて置いて、やはり応援してやらぬわけにはいかない。
「────数を重ねると、病み付きになるほど良いらしいぞ」
笑いながら彼は教えてやった。
「ほ、本当ですか?」
「愛し合い……肌を重ねる度ごとに、愛する相手も快楽を得ることが出来るようになる。おまえの努力次第だな」
「────しょ、精進致します!!」
どうやらすっかり己に課した枷を忘れたらしいマイクロトフが、顔を輝かせて拳を握った。
どうしようもないほど抜けた男、救い難い不器用な男だけれど────この男に愛される相手は幸福であるに違いない。青騎士団長ユーリはそう思う。
この男が心底望むならば、手に入らぬものなどないだろう。頑強な意志で、突き進む勢いで、真っ直ぐな眼差しで運命さえも味方にしかねない男、マイクロトフ。
何より、自分が見込んだ最高の後継者なのだ。
そういう訳で、諦めてこいつのものになってやってくれ────カミュー。
いつも通り硬い礼を取ってから、意気揚々と去っていく自団の騎士を見送って、ユーリは深々と溜め息をついた。
それにしてもマイクロトフは、決闘という大事を控えて何を考えているのだろう。
可愛い部下が、決闘に勝利したら親友に告白しようと決意していたことは、流石の彼にも生涯解けない謎だった。
彼にとってマイクロトフという青年は、そこまで気の利いた告白劇を思いつく人間ではなかったのである。
そのあたり、青騎士団長の部下の把握には小さな穴が空いていたらしい。
青騎士団長ユーリ、没前およそ一年前のことであった。