未だ静寂に包まれる黎明、赤騎士団長カミューはゆっくりと覚醒を果たした。
我が身をしっかりと包み込む腕の温もりを噛み締めるように束の間息を止め、それから白皙の頬を傾ける。
間近の男は眠っているときですら普段の表情を崩さない。固く眉を寄せ、一見したところでは立腹しているかのようですらある。
そんな面差しを暫し見詰め、カミューはそっと回された腕を外して半身を起こした。能う限りの細心を払ったのに、やはり男は目を開けた。薄白い光によって僅かな群青を孕ませた闇の瞳が真っ直ぐにカミューを射貫く。
「ああ……すまない、起こしたかい?」
もともと朝の早い男だ。忍び寄っていた目覚めを更に速めてしまったのだろうと詫びると、暗い眼差しが否を示した。
「……眠れなかったのか?」
いや、と男は首を振り、嘆息気味に続ける。
「眠らなかっただけだ」
言うなり彼も身を起こす。上掛けが滑り落ちて逞しい上体が露になった。その肩口、ほぼ背に通ずる肌にはうっすらと爪痕が刻まれている。気づいたカミューが淡い悔恨に目を細めるのを見て男は口元を綻ばせた。
「当分、跡が残るだろう。おまえを感じていられる」
「マイクロトフ……」
伸びた指先が傷のひとつを撫で上げる。マイクロトフは慈しむような指先を強く握り締めた。
「行くのか」
「ああ」
「……大丈夫か?」
「これもつとめさ」
世は大戦の直中、古巣を離反して新同盟軍に属す彼らに安息の日は未だ遠い。ましてこれから待ち受ける戦いを思えば朝寝を過ごしている場合ではない───カミューの微笑みはそんな心情を物語っていた。
大きな掌で柔らかな髪を掻き上げ、マイクロトフはぽつりと呟く。
「分かっている……つとめだということは。だが……」
そこで彼はきつく目を閉じ、唐突にカミューを抱き竦めた。夜の間切なく燃え上がった白い肌は明けの冷気にもかかわらず、今も火照りを残している。
「何故だ」
押し潰した声が問う。それから激情に駆られたようにもう一度。
「何故、おまえでなければならないんだ……」
「ロックアックス攻めだから、……だよ」
さながら縋り付く子供のように己を抱き締める腕に胸を詰まらせながらカミューは答えた。
「あの城に在る『敵』がどんな武器を持ち、どんな防具で身を守るか……それを知り尽くしたわたしだから選ばれたのさ」
「だが……!」
「それに……やはりおまえよりわたしの方が適任だと思うし、ね」
慰撫するように囁いて、カミューは男の背を撫でた。
「君命に従うは騎士のつとめ、それは誰よりも理解しているつもりだ。だがカミュー、おれは……」
行かせたくない、ただ一言が言えずに口籠る男の性情を心から愛しく思うカミューだった。
「大丈夫、すぐに戻るとも。知っているだろう? わたしは運の強い男だ、そして誰よりも巧くつとめを果たす」
「カミュー……」
「……刻が満ちる。そろそろ行かなければ」
細身の肢体が腕から零れ落ちる。寝台から抜け出たカミューは床に散らばる衣服を掻き集めた。
闇に咲き匂った肌が真紅の騎士服に覆われると、すでにそこには情熱の虜囚だった彼はなく、懍とした騎士が在るばかりだった。
引き止めるなど叶わぬことを十分に悟るマイクロトフは、感慨深げにその変貌を見守った上で自らも寝台を下りた。双眸に心からの誠実を湛えながら低く言い募る。
「……剣と誇りがおまえを守るように」
「ありがとう。行ってくるよ、マイクロトフ」
屈強の体躯にローブを羽織った姿で丁寧に礼を取るマイクロトフ。何処までも愛しい心の伴侶に最後にもう一度微笑みかけて、カミューは静かに扉を閉めた。
───同日、午後。
赤騎士団長カミューはひっそりと持ち場に立ち尽くしたまま今朝方のマイクロトフとの遣り取りを切なく思い返していた。
ここ、同盟領内サウスウィンドウの街では瑣末な騒動が持ち上がっている。街の入り口近くにある交易商の店。持ち込まれた様々な品を間に挟み、店主と少年が睨み合っていた。
次の戦いはロックアックス攻め。カミューら、マチルダ騎士にとっては古巣を敵に回しての攻防だ。
古くから都市同盟の戦力の要として位置づけられていたマチルダ騎士団は、軍装備や兵の練度、共に他都市の追随を許さない軍事専門組織なのである。
ところが片や新同盟軍は、本拠地の城に開かれた防具屋の品を掻き集めても、倉庫に納められた品をすべて吐き出しても、とても全兵士に行き届いた装備を与えることが出来ない。彼らは大きな戦いを前に資金繰りから見直さねばならない逆境にあったのだ。
売り払えるものをすべて処分して、得た金で装備を整える。もっとも大きな金額を動かせるのは交易である、と進言したのは誰だっただろう。
剣と忠誠を捧げた主人自ら矢面に立って戦う姿は確かに美しくも感動的な光景だが、何故か虚しい心地に陥るのはどうしてなのだろう───カミューはぼんやりと考えていた。
「そんなのってないでしょう、いくら何でもひどいや!」
「冗談言っちゃいけませんや、お客さん。とにかく引き取れないったら引き取れませんね」
「これから大きな戦いがあるんだ。お金が要るんですよ!」
「そりゃあまあ、色々事情はあるでしょうけどね」
交易商人は盛大な溜め息をついた。
「だから骨董品は高値をつけるって言ってるでしょう? 運がいいですよ、丁度骨董品フェアが開かれるのでね」
でも、と彼は山と積まれた別の品を一瞥した。
「こっちはねえ……」
「品薄だって聞いたから苦労して集めてきたんですよ!」
「ガセですよ、ガセ。情報に踊らされると痛い目に遭いますよ、お客さん」
少年は憤懣遣る方無いといった表情で店主を見詰めていたが、やがてふっと力を抜いた。
「ぼくも一軍を与る人間として、ここで引き下がる訳にはいかないんですよね。何しろ相手は軍備を誇るマチルダ騎士団……装備を固めなきゃ太刀打ち出来ないんだから」
「新同盟軍も大変ですねえ。ま、頑張ってくださいよ。それじゃ、骨董品の代金をお支払いしますんで……」
「ちょっと待って」
少年は薄く笑うと背後に控えていた仲間を振り返った。
「カミューさぁん、お願いしまーす!」
呼ばれたカミューはしどけない溜め息を洩らしてからゆっくりと歩み寄る。少年は間近に寄った青年に耳打ちした。
「頑張ってくださいね、このおじさん相当手強そうだから」
「拝命致します、ウィン殿」
それから店主に向き直った彼からは一切の迷いは消え去っていた。
───これもつとめだ。
誇り高き騎士の精神が主人の期待に応えることを欲しているのだ。
佩刀した青年と対峙した店主は、その類稀なる美貌に一瞬呆けたが、すぐに思い直したように表情を引き締める。
「な、何です? あなた、暴力はいけませんよ、暴力は。いくら剣を向けられたって、買い取れないものは……」
「ご主人」
艶やかな笑みが広がり、店主を陶然とさせた。
「残念です……どうしてこの品の素晴らしさをご理解いただけないのでしょう?」
店主は青年が指す品よりも、むしろ彼の姿に視線を奪われながら息を止める。
純白の手袋に包まれたしなやかな手が伸びて店主の顎を一撫でした。途端に飛び上がりかける男に艶然と微笑んだまま、カミューはカウンターに優雅に乗り上げて腰を落とした。
「この艶、なめらかさ……稀に見る極上品だとは思われませんか?」
「は、はあ、……た、確かに……」
ゆっくりと組まれる長い脚を凝視しながら店主は同意する。カミューは商品をひとつ取り上げた。
「ご主人……この品の真の価値をご存じですか?」
「し、真の価値と仰いますと……?」
息を詰めて見守る店主の目前に右手の人差指が突きつけられた。そこに突然ぽっと小さな炎が灯る。
「綺麗でしょう?」
「は、はい、とても」
店主はカミューの顔を見ながらこくこくと頷いた。
彼は男の前に揺らした炎を商品に移し、それからにっこりする。
「ただのロウソクとお思いでしょう? けれど、素晴らしい使い方もあるのですよ」
火をつけたロウソクをゆっくりと店主の顔に近づける。
「そう───例えば夜、愛しいひとと想いを交わすとき」
ゆらゆらと揺れる炎の奥に妖しく輝く琥珀の瞳。すでに店主は魂を抜かれたような表情だ。
「闇に灯る仄かな明かりに浮かぶ人肌は、ランプの明かりなどに照らされるそれとは異なる魅惑です。あまりに儚い光であるがため、見えそうで見えない……そんなもどかしさに心乱されるのです」
「……………………」
「朧げに揺れる炎に浮かぶ陰影、それは清らかであり、淫らでもあり───男の情熱を掻き立てます」
「わ、分かります……」
催眠にかけられたが如く呟く店主に目を細めると、カミューはロウソクを傾けた。途端にロウがカウンターに垂れ落ちる。
「……ときにはこんな過激な悪戯をしたり、されてみたり」
「おおおおおお客さんもですかっ?」
「ご想像にお任せしましょう」
にっこりして彼は炎を吹き消した。煙と共に甘い吐息が店主の顔面を過っていく。
「如何でしょう? わたしはこの素晴らしさを是非ご主人にも分かっていただきたいのですが……」
「かっ、かっ、買い取らせていただきます!」
「基本価格の五倍ということで宜しいでしょうか?」
「よっ、よござんす!! あたしも男だ、この商品の価値はしかと見定めましたですよっ」
「それはどうも」
改めて零れんばかりの笑顔を振りまいた後、カミューは残念そうな店主をよそにカウンターを下りた。剣の主人に振り向くなり、誇らかに宣言する。
「商談、相成りました」
「お疲れ様です、カミューさん! はーい、騎士の皆さぁん、運んで運んで!」
嬉々とした少年の合図によって店の外にて控えていた赤騎士団員が次々に入ってくる。彼らの肩に担がれた大袋を見て店主は青ざめたが、後の祭りだった。
「ああ、良かった。流石はカミューさんですねー。ロウソクばっかりこんなに余っちゃったら困るところでしたよ」
「お褒めいただき、光栄です」
「それにしても……情報はあてにならないなあ。不確かな噂よりも身内の勘かな、やっぱり。カミューさん、何処かに儲け話の匂いはしませんか?」
「匂い、ですか───」
美貌の赤騎士団長は目を閉じて五感を研ぎ澄まし、かなりの時間を経て頷いた。
「そうですね……マヨネーズが暴騰しそうな予感が……」
「ようしっ! おじさん、店のマヨネーズを全部ください!! おいくらですかっ?!」
けれど山と積まれたロウソクの中で放心している店主には、もはや思考する余力もないようだった。
「もう……好きなだけ勝手にお持ちください……うう……」
同日夕刻、デュナン湖畔の本拠地内。
夕陽を見詰めながら並んで立ち尽くす大柄な男が二人。唇を噛み締める青騎士団長を宥めるように、盟友ビクトールが肩を叩く。
「おれには……おれには何故カミューなのか、どうしても納得がいきません」
「そりゃあおまえ……適任だからだろうぜ」
「そうは仰るが……何故剣士として参戦したカミューが商いの真似事まで……」
「そりゃあやっぱり……あの通り口が達者だし、『赤騎士団長はやり繰り上手』と有名だったからだろう」
「騎士のつとめとは言え、あまりにも惨い処遇。今頃は何処でどうしているのだろう……ああ、早く戻って来てくれ、カミュー……」
「そうだなー、今頃はコボルト村あたりに居るんじゃねえか?」
剣技や指導力のみならず、商才にも秀でた愛しき伴侶。
笑顔と色香を武器にして次々と交易商人の砦を陥落させていることなど知る由もない男は、暮れゆく夕陽に向かって誠実な騎士の礼を取り続けるのだった。