遺されしものの涙


夜半過ぎ、静寂の中で目が覚めた。
ゆっくりと半身を起こしたマイクロトフは、寝台脇に立て掛けた愛剣を一瞥して息を洩らした。
デュナン大戦は大詰めに入っている。
明日はハイランド領内に進軍し、布陣する敵軍を押し遣りながら一気に皇都ルルノイエを落とす───軍師が珍しく真向勝負を宣言したのも、もはや戦いが策らしきものを要さぬ総力戦の領域に進んだことを意味しているのだろう。
大事な一戦になる。
負けることを許されぬ死闘が待っているのだ。
心身を休め、明日は最大限の働きをせねばならない。
なのに眠りが訪れないことにマイクロトフは焦った。
自覚以上に緊張があるのかもしれない。これまで犠牲となったあまたの人々への思いが溢れ、目は冴える一方だ。いっそ外の風にでも吹かれようか、そう考えた彼は簡単に身繕って部屋を抜け出た。
静まり返った隣室を窺い、そこに眠る心の伴侶を思って束の間立ち尽くす。顔を見たい衝動に駆られたが、思い直して歩を進めた。
ひっそりとした城内。寝ずの番を勤める兵が気遣う視線を投げてくるが、それには落ち着いた笑みを返し、屋上へと向かう。
集った仲間たちも今宵は早々に眠りについている、そう考えていたから、辿り着いた先に佇む細い後ろ姿には心底驚いた。
「あ……」
気配を感じてか、振り向いた少年から無意識らしい声が零れる。どこか力なく見える表情が苦笑を浮かべた。
「こんばんは、マイクロトフさん」
「ウィン殿……」
新同盟軍の指導者、ウィン。
今や同盟の救世主として絶対の信頼を身に集める彼は、だがこうしているとごく当たり前の少年にしか見えない。
───決戦を前に寝不足で身体でも壊したら。
諫めねばと急いで歩み寄り、口を開き掛けた。が、少年は早々に意図を汲み取っていたらしい。
「何だか眠れなくて。マイクロトフさんもですか?」
先手を打たれて口籠る。ウィンは温かく微笑んだ。
「少し風にでもあたろうと思って。すぐに休みますから」
はあ、と生返事を返したマイクロトフはそのまま少年の傍らに並んだ。
物思いに耽っていた主君の邪魔をするのは心苦しいが、時が時である。
以前、同盟を敵視するカラヤの女族長が城への侵入を果たしたことがあった。それからというもの、警備には万全を期しているが、万一ということもある。同盟軍の一翼を担う騎士として彼を護るのは当然の責務であった。
そして、更にひとつ。
マイクロトフにはウィンの纏う覇気の衰えが気になった。
ロックアックス攻略の折に義姉を喪失した少年が気落ちするのは無理からぬことだ。
それでも彼は立ち上がり、戦争終結に向けて力強い宣言を為した。仲間たちはそんな少年を支えるべく心をひとつにして現在に至る。
だが、今宵目にしたウィンは一軍を率いるにはあまりに儚く、心細げに見えたのだ。
「……何を考えておられたのか、お聞きしても構いませんか?」
躊躇いがちに切り出すと、ウィンは小さく笑んだ。
「随分遠くまで来ちゃったな、って……」
「遠く?」
ええ、と頷いて彼は広がる闇の先を見詰める。
「ウィン殿は確かキャロの御出身とお聞きしましたが」
軽い同意と共に懐かしげに目が細められた。
「でも、遠いというのはそういうのじゃなくて……居る筈だった場所から遠く隔てられちゃったな、と」
僅かに眉を寄せた男を気遣ったのか、彼はゆっくりと語り出した。
「ぼくはハイランドのユニコーン部隊というところに所属していたんです。もうすぐキャロに帰るというある夜、同盟軍の夜襲を受けて部隊が全滅して」
即座に口を開き掛けたマイクロトフは続く言葉によって遮られた。
「でも、それは同盟と戦線を開くためのルカ・ブライトの策略で……ぼくとジョウイは追い詰められて滝に身を投じたんです」
唇から出たかつての親友、今は敵国の王となった少年の名は微かに震えていた。
「もしも離れ離れになったらここへ戻ろうと約束して、岩に印を刻んで……流されて幾度も駄目かと思ったけど、死んでしまったらキャロで待ってるナナミが泣くだろうと必死に泳ぎました」
その一瞬だけ切なげにウィンは笑った。
「あのときは一緒にビクトールさんに助けられたけど……結局ぼくらは遠く離れてしまった。ジョウイだけじゃない、今はナナミもいない。もうあの頃には戻れないんだなあ、って思ったら眠れなくて。決戦の前なのに、だらしないですよね」
「ウィン殿……」
痛ましさに唇を噛む。
何程気丈に振舞おうと、彼が十代の少年であることは事実だ。重いさだめを背負わされ、慕わしいものを次々と失っていったウィンを思えば、言葉など見つからなかった。
「……痛かっただろうな」
不意にポツリと独言のような呟きが洩れる。見遣った先のウィンはきつく瞑目していた。
「ぼくを庇って死んじゃうなんて、ナナミは馬鹿だ」
耳慣れぬ指導者の嘆き。
初めて対峙したときから輝ける存在感をもってマイクロトフを圧倒してきた巨星が、今は一人の少年に還って失った少女を悼んでいる。
「その……ウィン殿」
慰める言葉を思いあぐね、おずおずとマイクロトフは口を開いた。
「カミューが言っていました。『ナナミ殿は素敵なレディだった』と……」
するとウィンは苦笑した。慌てて言い募る。
「あいつは女性なら誰にでも優しく振舞いますが、ナナミ殿のことは心からそう思っていました。強くて明るくて……同盟軍にとって掛け替えのない───」
そこまで言って、はっと口を閉ざす。その掛け替えのない少女を失った義弟の痛みを慮ることなく言及してしまった己を恥じたのだ。
だが、ウィンは嬉しそうに目を細めた。
「ナナミ、喜ぶだろうなあ……カミューさんに凄く憧れていたから」
もういない、自らの盾となって散った少女を思い返しているのか、束の間の沈黙が下りる。
無言のまま添う男をちらと窺い、再びウィンは切り出した。
「……ぼくね、ナナミのお墓も訪ねてないんです」
え、と見開いた目に寂しげな笑みが映る。
「知らないんです、ナナミが何処に埋葬されたのか。『墓地という目に映る場に立てばつらいだろう、せめて戦いが終わるまでは』って……シュウさんが」
軍師らしい気遣いだと思ったが、同時に困惑もした。

 

ならば彼は何処で───

 

「戦争さえ終われば、また前みたいに三人で笑えると思ったけど……」
そこでウィンは言葉を詰まらせた。嗚咽を堪えているらしい細い肩を見詰めながらマイクロトフは訊いた。
「ウィン殿、……泣かれましたか?」
戸惑ったような視線が返る。我ながら唐突過ぎるかと自嘲に首を振り、重ねて問う。
「ナナミ殿が亡くなられてから、泣かれましたか?」
いいえ、と小さく呟き少年は苦しげに笑もうとする。
「だって……頑張らなきゃ。ナナミはぼくを庇って死んだんです。勝ってナナミに応えるまでは、泣いてなんて───」
「ウィン殿」
やや強く遮ったマイクロトフにウィンは怪訝そうに瞬いた。若さに似ず色深い瞳を覗き込みながら静かに言い募る。
「泣かないことが強さではない、と……おれはそう思います」
「え……?」
「うまく言葉に出来ないが……、あなたは同盟軍の盟主である以前にナナミ殿の御身内なのです。大切なもののために流す涙は決して弱さなどではない」

 

自問するように考え込む少年の姿は何処かカミューを思わせた。
心よりも理性を先走らせ、結果、自らを傷つけていく慕わしい人。

 

やがてウィンは消え入るような声で問うてきた。
「マイクロトフさんも泣く……? 例えばもし、カミューさんがナナミみたいに───」
ひどく幼げな、中途で切れた言葉の先に痛ましさを募らせ、目を伏せた男は低く答える。
「……ええ、泣きます」
「どうして死んだ、何で庇ったりしたんだ、って……責めますか?」
「はい」
マイクロトフは穏やかに目を細めた。
「泣いて、恨んで───最後に、相手にとって自分の命がそれほど価値あるものならば、精一杯に愛おしむべきなのだろうと……そう思います」
「…………」
ウィンは暫し押し黙ったまま眼前を見遣っていた。
闇の中で揺れる木々のざわめき、微かな生き物の息吹。それらに耳を澄ませるかのように、やがて彼は目を閉じる。
「そうか……、マイクロトフさんみたいに強い人でも、悲しいときは泣くんですね」
ひっそりとした声があたりに溶けていった。
「ナナミはそそっかしくて騒々しくて……でも、いつも笑ってた」
「……はい」
「料理は不味かったなあ。残すと怒るから、泣きながら食べたこともあったっけ」
「一度だけ馳走になったことがあります。何とも珍しい味でした」
神妙な顔での同意にウィンはぷっと吹き出した。綻んだ唇が震え出し、不意にくしゃりと顔が歪む。
「……、って───」
聞き取れず、僅かに身を屈めたマイクロトフは押し殺すような呻きに胸を突かれた。
「『お姉ちゃんって呼んで』って……最後にナナミはそう言ったんです。いつもいつも姉さんぶって……、世話が焼けるのはナナミの方だったのに」
「…………」
「でも」
少年は屋上の石縁に縋り付くように半身を伏せた。
「でも、そんなことで喜ぶなら、もっとたくさん呼んでやれば良かった。ナナミが作ったご飯、嘘でも美味しいって言ってやれば良かった! 戦争に勝ったって、もうナナミは戻ってこない……」
絞るようにそこまで言うと、次には悲痛な声が叫んだ。
「何で……どうして死んじゃったんだよ、ナナミ……!」
ただ黙して見守りながら佇んでいたマイクロトフは、唐突に胸に飛び込んできた少年を慌てて抱き止めた。温もりを求めてか、きつくしがみついたウィンが嗚咽の合間に掠れ声で詫びる。
「ごめんなさい、今だけだから。少しだけ、ですから……」
「はい」
マイクロトフは屹立したまま少年を強く包み込んだ。
「……おれなどで宜しければ」
腕の中で洩れる啜り泣きに密やかに目を閉じる。

 

 

 

剣の主人、新同盟軍の希望───周囲が与えたウィンの立場。
けれど彼はこんなにも若く、柔らかな心を持った少年だ。
身に負った重い宿命を、それでも彼が耐えてここまで来たのは、傍らに微笑む少女が在ったからこそだろう。
仲間たちにとってウィンが光であるように、彼にとっては義姉がそうだった。彼女と共に失われた友を取り戻す、ただそのためだけに少年は戦いの日々を生きたのに。

 

過ぎた刻は戻らない。
───戦いの末路に何が残るのかも分からない。
けれどすべてが終わった後に、せめて少年に欠片の救いが在るといい───マイクロトフはそう思う。

 

 

 

暫し慟哭が行き過ぎるのを待って、そっと囁いた。
「ナナミ殿は分かっておられたと思います。御自分の命と同じ程にウィン殿を想われていたのですから」
こくりと頷いて、ウィンは泣き濡れた目を上げた。頬に伝う涙をぐいと腕で拭い、小さく言う。
「……すみません」
「詫びる必要などありません」
微かに首を振る気配がして、今度はやや強い声が続けた。
「もう大丈夫、後は戦いが終わってから思う存分泣きます。ありがとうございました、マイクロトフさん」
「おれは何もしていませんが」
笑み返した男に真摯な瞳が当てられた。
「マイクロトフさんは死なないで」
「え……?」
虚を衝かれて瞬いていると、切々とした言葉が続く。
「もう……、誰かが死んで泣くのも、泣いている人を見るのも嫌だ。あなたを大切に思う人のためにも……生きていてください、マイクロトフさん」

 

 

───カミュー、と思わず胸の奥で呟いていた。
己の死に誰よりも傷つくであろう人、ひとり遺すことを許さないであろう想い人。
二人は剣士、信念のために剣を取り、戦うことを選んだ者である。
もし、志半ばにしてどちらかが斃れたなら、片や生きて、遺志を果たさねばならない。遺された命を互いの分まで慈しみながら生きる道をマイクロトフは選ぶし、カミューにもそうして欲しいと思う。
けれど、生き延びた片割れは命の重さの分だけ痛みを抱えて生涯を送ることになる。
それを知るから、ウィンは案じているのだろう。
戦いの中を突き進むマイクロトフの在り方を。

 

静かに頷いて、そのまま少年の前に片膝を折った。困惑したように一歩退くウィンに両手で捧げ持った愛剣を向ける。
「離反の折には果たせませんでしたが……、今、改めて忠誠の儀を」
「え……え?」
「デュナン新同盟軍の騎士として、指導者ウィン殿に剣を捧げます。我が名と誇りに懸けて、終生の忠誠を」
「マ、マイクロトフさん───」
狼狽えた声を上げたウィンだが、男の表情に思い直したのか、深く息を吐いた。
「……ぼくはどうすればいいんですか?」
「剣に右手を乗せてください」
請われるままそっと鞘に置かれた少年の右手。そこに宿る赦しの紋章を見詰め、マイクロトフは敬意を込めて唇を寄せる。

 

 

我が主君の戦いに輝かしき勝利を。
そして祈る、栄誉の先に待つ彼の人生に穏やかなる祝福のあらんことを───

 

 


青と『少年』という組み合わせは好きv
どちらかというと青は語るより
黙って傍にいる気がしますが、
たまにはこんな青も宜しいかと。

なお、この話はGood end 前提で。

 

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