ふと、自らの頬を掠める温かな指に意識が浮かび上がった。
意志に背く目蓋をようやく上げると、間近に夜の瞳が見返している。
その眼差しは慈しみに溢れ、大きな翼で守られているような安堵を掻き立てる。安らぎは、胸を締め付けるような切なさと常に同居する不可思議な感覚であった。
鉛を含んだように重い腕を伸ばして男の黒髪に触れてみると、硬い質感を持ったそれは微かに情欲の残り火を伴って湿っていた。
「……大丈夫か?」
彼は静かに囁いた。低く耳に残るバリトンは、どこか案じるいたわりを含んでいる。怪訝に思って幾度か瞬くと、男の指先がそっと頬を伝う。彼の指が掬い取っていたものが何であるのかを悟ったとき、カミューは束の間呆然とした。
────知らぬ間に流れていた涙。
じっと見詰めるマイクロトフは、拭いきれなかった雫を唇で吸った。
その情愛溢れる行為に狼狽して、カミューは顔を背けようとした。だが、優しく頬に手を添えられて引き戻される。已む無く視線を合わせると、マイクロトフはほっとしたように力を抜いた。
「……苦しかったか? その────」
────夢の中で涙するほど。
彼は困惑したように言葉を詰まらせ、だが僅かに頬を染めてカミューを窺う。昨夜あれだけ暴君として振舞っておきながら、目覚めれば常と変わらず彼の反応に杞憂するマイクロトフ。
交友の始まりから変わることない男の不器用さにカミューは柔らかく微笑んだ。
「……おまえには泣かされてばかりいるよ」
ぽつりと呟いた彼にマイクロトフはぎくりとして、食い入るような視線を浴びせてきた。恐れを知らぬ屈強な男が、誰よりも強く確かな道を目指す誇り高き騎士が、さながら子供のように当惑している。
表情の示すものはあまりにも理解し易い。不安と混乱、そして何とか自ら答えを導き出そうとする焦り────そうして、やがて降伏するであろうこともカミューには分っていた。
「す、すまない────」
いったい何に対してなのか、漠然と陳謝を口に昇らせた男にカミューは思わず吹き出した。くすくすと笑う彼に、困り果てたような視線が当てられる。
「……その……すまない、……おれはそんなにおまえを困らせているか……?」
次第に必死の顔つきになる彼に、カミューはゆるりと首を振る。
「おまえには……一から十まで説明しなければならないんだな」
「………………?」
あからさまに怪訝な顔になる男に再度笑みを与え、カミューはゆっくりと目を閉じた。
「夢を────」
「夢?」
「見ていたんだ────昔のね」
目を伏せても鮮やかに蘇る遠い記憶。一欠片とて零れ落ちることのない、剣と誇り、そして胸苦しい情念に彩られた遠い日の────
かつてその想いを友愛と呼んだ日々もあった。それは確かにこの誠実で歪みのない男から開かれた道だったのだ。逸らされることなく見詰める眼差しの強さに憧れ、退くことを知らない一途さに焦れた日もあった。
マイクロトフという男にとって、自分が欠くべからざる存在となったのがいつからなのか、それはわからない。だが、もしかすると最初に必要としたのはむしろ自分の方なのかもしれないと思う。
見知らぬ土地で、気を張り巡らせて生きていた自分に迷うことなく差し伸べられた大きな手。
弟のように感じていた男が、人懐こく後ろをついてきているとばかり思っていたマイクロトフが、いつのまにか真横に来ていた。いつしか追い越された背、そして広くなった肩が、どれほどあの頃の自分を焦燥に駆り立て、歯噛みさせたか────マイクロトフは一生知ることはないだろう。
常に羨望を覚えていた。我が身が持たぬすべてを持っていた彼に、どうして惹かれずにいられただろう。
仄かに抱いた妬心さえ、確かにあったはずなのに。
彼が自分を支える唯一の輝きなのだと知るまで、どれほどの時間を要したことか────
「昔の夢を見ていたのか?」
マイクロトフはあくまで問い質そうという姿勢を崩さない。苦笑しながらカミューは頷いた。
「それは────おまえが今もなお、つらい記憶に悩んでいる……ということか?」
「…………え?」
マイクロトフの表情は微かに歪んでいた。痛ましげな、とも呼べる感情が見て取れる。カミューは、だがそんな男の筋違いな心配さえも愛しく思える自らの余裕が嬉しかった。
覗き込む男の首をそっと引き寄せて、己が身に逞しい体躯を伏せさせる。男の重みと薄い汗の匂いが、未だ火照りを失わないしなやかな肢体に浸透し、すみずみにまで満ち溢れていく。
怪訝そうなままだったマイクロトフも、珍しく素直に縋った彼への感動に燃え上がったようだった。
やはり汗にしっとり重くなった甘い色の髪を、無骨な指が掻き分けていく。暴かれた額に唇が落ちると、それは再度交わされる情熱への合図となった。
「あ………………」
狂おしく弄られるたびに、求められる満足に眩暈がした。耳朶に吹き込まれる熱い息と囁きは、奔放なまでに肌を煽る。自らもまた限界まで男を得ようと身を揺らし、何処までも貪欲な獣と還り────
カミューはただ刹那げな吐息を洩らしながら、己を貪り尽くそうとする男の背に固く腕を回していた。
この広く逞しい背中を護るために、今ならすべてを差し出せる。
彼が自分に与えるものは、命と同じほどに重く、魂と同じほどに神聖だ。
「マイクロトフ……」
掠れた声で呼び掛ければ、男は甘いくちづけによって応える。
流した涙の跡はすでに失われているであろうに、僅かでも自分の知らない記憶にたゆたう恋人を認めぬと言わんばかりの唇が、白い頬を行き来する。
どれほど溶け合っても、まだ足りない。
いっそこのまま、薄闇のゆりかごの中に戯れる炎となってしまいたい────
意識の明るいときには過ぎることのない願望が、唐突にカミューを走り抜けていく。生まれたままの、無垢な、けれど煮え滾るような情熱を伴った渇望が。
「マイクロトフ……、涙はね……────」
高みに駆け上がる荒い息の合い間に呟くが、震える唇はやがて閉ざされた。
今更教えてやる必要などない。
この男もおそらく、心の奥では分っている筈なのだ。
涙とは────
喜びの中にとて流されるものなのだということを。