黒ずんだ群青の空に爪の先のような鋭角の月が浮かんでいる。
頼りないばかりの光を嫌い、燭台を手にしてきたのは正解だった。
深夜の巡回も通り過ぎた頃を見計らい、赤騎士団長カミューはひとり城内外れにある厩舎を目指していた。
人目を忍んでいるのは衣服の所為だ。夜着の上にローブを羽織っただけという姿なのである。日頃人一倍身だしなみに気を遣う彼らしからぬ振舞いだが、今はそれ以上に気になることがあった。
夜半過ぎ、浅い眠りから彼を揺り起こしたのは、少々気がかりな夢だった。
先日、赤騎士団において大掛かりな騎馬訓練が実施された。これは実戦を想定した本格的なもので、主に軍馬を許されたばかりの若年層の騎士を鍛錬するためのものだった。
馬の扱いに梃子摺った若い団員に接近して指導していたとき、部下の馬と愛馬が接触し掛けた。咄嗟にかわしたものの、愛馬は脚を痛めてしまったのだ。
敬愛する騎士団長の馬を傷つけたことで青褪める部下に、それでも柔和に慰撫を与え、即座に獣医師を招いた。
幸い愛馬の脚は軽症で、最も恐れていた安楽死に至る骨折などではなく、十日もすれば元通りに走れるようになると医師は断言してくれた。だが、厩舎に繋がれた愛馬の哀しげな黒い瞳を見ると、胸が突かれるようだった。
マチルダ騎士団では、新たな団長が叙位された折に一頭の馬が贈られる風習がある。一流の血統を持ち、一流の調教師の手によって大切に育まれてきた駿馬を得ることは一種のステータスとも言えた。しかし、それらを除外しても、カミューは与えられた牝馬を愛していた。
彼は平原の民だ。馬の扱いはむしろ自己流と言ってもいい。だが寄与された馬は彼の心をよく理解してくれる聡さと、戦場にあっては怯むことを知らぬ勇猛さを併せ持っていた。自然、深い情が芽生え、いつしかカミューにとって掛け替えのない存在に位置するようになった。
夢は、愛馬の脚が悪化するというものだった。
夕方にも一度医師と共に厩舎を訪れ、回復を確認したばかりだというのに、一度不安になるとそのまま眠りに戻ることが出来なくなった。
彼にとって大切なものは少ない。地位と名誉を欲しいままにしているけれど、失いたくないと心底願うものは片手にさえ余る。
そうした訳で、カミューは温かいベッドから抜け出し、最低の礼節とばかりにローブを引っ掛け、部屋を出たのであった。
人の目を避け、心細い燭台の灯りを揺らしながら歩を進め、ふと苦笑う。

────こんな姿を見たら、彼は何と言うだろう。

常日頃、無鉄砲だ考えなしだと言われ続けている友よりも、今の自分は勢いだけで行動している気がする。自分が、価値を認めたもののためならば万難を排して進む人間であることを、彼は何処まで知っているだろう……?
厩舎は騎乗する騎士の位別に分けられていた。
団長保有の馬の住処は殊に奥まった場所に設えられており、一般の騎士の馬とは明らかに異なる見事な造りの建物である。
さすがに身体が冷え始め、もう少しちゃんとした上着を持って来るべきだったかと後悔した。昼間は茂った木々に適度に影を落とされる豪奢な厩舎だが、覚束ない月明りの下では何処か不穏な気配を漂わせて見える。
「──────?」
建物の中で小さな光が瞬いていた。この時間、幼い従者が馬番をすることはない。すると、夜間の張り番として雇われている者だろうか。カミューは首を傾げた。
そう言えば先日、膨大な書類の隅に厩番の入れ替えがあったと記載されていた気がする。確か長いことその役を勤めていた人物が病で静養に入ったと記されていた。
そんな末端の情報まで頭の隅に押し込んでいる自分に苦笑して、彼は厩舎に足を踏み入れた。
「失礼する」
愛馬の世話をしてくれる人間の一人だ、カミューは礼を込めて丁寧に言い放った。広々とした舎内の奥で、ぎょっとしたように振り向いたのは、まだ三十がらみの屈強な体格の男だった。
「驚かせたか、すまない…………ええと────」
書面の名前を思い出そうと試み、頷いた。
「…………ケビン、と言ったかな?」
「え、あ…………」
男は大きなフォークで汚れた寝藁を集めているところだった。
出世街道を邁進したため、一般の騎士よりも従者として過ごした時間が少ないカミューには、厩番がこの時間にこの作業をしているのが普通か否か判断できなかった。
それでも男の労苦で愛馬が快適な眠りを得られるのならと、穏やかな笑みを浮かべて会釈する。
「こんな時間までご苦労なことだな。すまない、すぐに戻るから」
男は無言でカミューを凝視するばかりだ。無作法なまでの露骨な視線も、訓練された騎士とは違うのだからと自らに言い聞かせ、努めて気にせぬようにカミューは愛馬の馬房に近寄った。
「レフィ…………レフィーナ」
栗毛の牝馬は主人の声にすぐに反応し、厩栓棒まで進み出て優雅な首を突き出した。
「すまない……起こしたかい、レディ?」
カミューは手にしていた燭台を置き、光沢のある馬の首筋に頬を寄せ、優しく鬣を撫でてやった。長いこと主人を乗せていないのを寂しく思っていたのだろう、愛馬も切なげに首を摺り寄せてくる。
「よしよし────そうだな、わたしも寂しいよ。ここ数日、色々な馬を試したが、やはりおまえほど気の合うレディにはお目にかかれなかった」
一般の馬房の三倍はあろうかという広さの中を、カミュー目指して真っ直ぐに歩いてきた馬の脚には、恐れていた悪化の形跡は見られなかった。ほっとして温かな体温を味わい、カミューは語り続けた。
「早く良くなって、おまえの背に乗せておくれ。良い子だからおとなしく回復を待つんだよ、いいね? レフィ」
愛馬は小さく鼻を鳴らした。獣医師が同席しているときには与えられない主人の温もりと優しい言葉に感じ入っているかのように。
「では、また来るよ。おやすみ……レフィーナ」
もう一度名残惜しげにしっかりと馬の首を抱き、カミューは振り向いて厩番に声を掛けようとした。だが、男の表情を見た途端、微かな警戒が過ぎった。
こうして団長専用馬の馬房を訪れたカミューの正体は、男にもわかっているはずだ。たとえ顔を知らなくても、それなりの敬意を払っても不思議はない。なのにあくまで無言を通す男は、相変わらず無作法な眼差しで彼を舐めるように見詰めるばかりなのである。
それは不快な感覚だった。しかし男の手によって愛馬が世話されているのも事実である。カミューは努めて穏やかな声で呼び掛けた。
「────わたしの大切な馬だ。どうか、よろしく頼む」
それでも男は頭も下げず、口を開こうともしない。寡黙というのにも限度がある。騎士団長に対しての礼儀作法すら知らず雇い入れられたのかとげんなりして、諦めて燭台を取り上げようと身を屈めた、まさにその瞬間────。

 

不意に脇腹を掬い上げられるような形で体勢を崩された。そのまま馬房の向かいに積んであった真新しい寝藁の上に突き飛ばされる。何が起きたのか一瞬理解出来なかったが、うつ伏せに倒された身体を襲った重みは忌まわしく熱っぽかった。
異変を察したのか、愛馬は細く嘶いた。
厩番の手によって藁に押さえ込まれたのだと悟るなり、カミューは怒りに燃え上がった。
「────何をする!」
顔を捻って振り仰いだ男の顔に、今度は血が冷えた。
猛々しい表情、赤く充血した眼、荒く弾むばかりの息遣い。紛れもない劣情の発露だった。
まだグラスランドにいた幼い頃、彼の少女のような美貌に血迷った男は大勢いた。このロックアックスに来てからも、その種の誘いを掛けられたことは一度や二度ではない。
しかし、こんなふうに獣じみた様相を隠さぬ相手はいなかった。まして彼の地位を考えない礼儀知らずな男も初めてだった。
カミューは鋭い叱責を飛ばした。
「離せ、無礼者!!」
うつ伏せる彼に馬乗りになった男は、それでもいっこうに怯む気配を見せない。そればかりか、逞しく発達した筋力に物を言わせ、カミューの夜着の襟をローブごと引き毟り始めた。
「や、やめろ!」
ただでさえ、この体勢では思うように力が入らない。城内だからという理由でユーライアを置いてきたことを心底後悔した。こうして組み伏せられてはなすすべがない己が腕力の乏しさに歯噛みしつつ、全身でもがいて抗った。
争い合う二人に燭台の灯が脆く揺れ、壁の陰影を歪ませる。
はだけられた衣服から零れた象牙のような肌に、背後に密着する男が絶え入るような溜め息を吐いた。節くれだった指に肩甲骨をなぞられると、おぞましさに息が詰まりそうになった。
男はもがくカミューの腕を鷲掴むと、ローブの紐を使って背後に捩じ上げ縛り付けた。完全に腕の自由を奪われ、カミューは恐慌に陥った。
「くそ、離せ! ふざけた真似を…………!!」
ざらついた舌が首筋を舐める感触に、思わず言葉が途切れる。べったりした後味の悪さが残り、総毛立った肌を男の掌が撫で回していく。
「────いい匂いだ……」
初めて洩れた声は情欲に濡れ、甘噛みされる耳の痛みと共にカミューをぞっとさせた。
「……やめろ!」
生き物のような舌が耳腔を這い回り、開かれた夜着の胸元に滑り込んだ指が淡い乳暈を探る。もはや優雅さをかなぐり捨てて暴れ出したカミューの姿に、低い笑いを零した男が囁いた。
「──おとなしくしなよ、団長さん……二人の秘密にすればいい。あんたみたいな綺麗な男が、騎士団なんてところにいるのは間違ってるぜ? おれが男の良さを教えてやるからよ…………」
怒りと嫌悪に震えた彼を、男は可憐な怯えと取ったらしい。いっそう大胆に動き出した手が、容赦なくカミューを弄った。なめらかな胸元を嬲りながら、もう片手が下肢に伸びる。衣服の上から乱暴に揉み込まれ、カミューは憤怒に眩暈を起こした。

こんなことは認めない。
このような男に汚されるなど、我が誇りが許さない。

いっそ舌を噛み切ってでも、守る誇りはひとつだった。だが、柔らかな舌を歯で噛み締めようとした彼の脳裏を、友の笑顔が横切った。

 

──────マイクロトフ……

 

悲壮な決意さえ揺らがせる存在。我が魂の伴侶。
残される男の悲憤を思い、迷いに目頭が焼けた刹那。

 

 

「────……の野郎!!!」
怒号と共に、圧し掛かる重みが消えた。巡らせた瞳に飛び込んだのは、吹き飛んでいく厩番と、拳を震わせている青騎士団・第一隊長の雄々しい姿。
マイクロトフは攻撃の手を休めなかった。殴り倒された男の胸倉を掴んで引き上げると、腹部に重い一撃を食らわせる。うめいた男が崩れそうになるのを更に捩じ上げ、今度は膝を減り込ませた。
彼は完全に理性を失っているようだった。感情を匂わせないのは怒りが限度を超えた証だ。彼はほとんど無表情のまま、ボロ布のようになった厩番を痛め続けている。
後ろ手に縛られた体勢のため、やっとのことで藁の上に半身を起こしたカミューは、自分を嬲ろうとしたことを割り引いても悲惨な厩番の姿に眉を寄せた。
「……マイクロトフ……」
拳が顎を直撃し、鈍い音が洩れた。悲鳴さえ上げられず、男は蹲る。それでも男に向かおうとしている友に、カミューは慌てて叫んだ。
「マイクロトフ────もういい、やめるんだ!」
熱し切っていたマイクロトフだったが、凛とした一喝に我に返ったように瞬いた。それからゆっくりとカミューを見遣る。無残に乱された姿を見るなり、男らしい精悍な顔つきが泣きそうに歪んだ。
「カミュー…………」
「やめろ。殺す気か?」
「……殺しても飽き足らない!! こいつはおまえを……」
「────わかっている。だが、もうやめてくれ。ここで殺人が起きれば、わたしも証言しなければならなくなる。おまえは──それを望みはしないだろう?」
騎士団内における私闘は固く禁じられている。それは騎士だけにとどまらず、騎士団に糧を得る者すべてに与えられた宣告だ。
殊に変死ともなれば、厳しい詮議は想像に難くない。今宵カミューに起きたことも暴かれないとは限らないのだ。ようやくマイクロトフはその危険性に思い至ったように荒い息を吐いた。
「それよりも…………これを外してくれないか?」
身体を捻って縛られた手首を見せると、マイクロトフはまたも怒りを募らせたように頬を染めた。彼は無言で歩み寄り、カミューの傍らに片膝を折った。
散々男を殴りつけたものと同一とは思えぬ優しい手が、慎重に紐を解いて、赤くなった手首をそっと撫でた。
「────ありがとう」
カミューはやや顔を伏せて短く礼を言うと、優美に立ち上がった。
唸っている男の目前まで進むと、冷気を漂わせた声で命じる。
「──……今夜のことは忘れてやる。さっさと荷物を纏めてロックアックスを出て行くがいい」
「カミュー、そんな生温い…………」
仰天したように声を荒げる友を片手で制し、抑えた声で続けた。
「次に出会えば、我が剣の錆となることを覚悟しろ。さあ、行け────わたしの気が変わらぬうちに」
マイクロトフはカミューの必死の自制を察したように押し黙った。
彼以上に憤っているのは乱暴を働かれたカミュー自身である。それでも、城の秩序を守るために敢えて感情を殺しているのだ。その内心の葛藤のため、カミューは常以上に青白く凍えた頬を曝していた。
「…………命を拾ったな、貴様」
マイクロトフが忌々しげに吐き捨てた。
「おれに出会っても命はないぞ。二度と姿を見せるな」
男はよろめきながら立ち上がった。よほど頑丈な身体をしているのだろう。マイクロトフのあの殴打を受けて尚、立ち上がるとは。カミューは疎ましい感嘆さえ覚えた。
あちこちから血を滴らせ、足取りも覚束なく戸口に向かう男に、ふと声を掛ける。
「ああ、忘れていた────」
厩番が弱々しく顔を向けたところへ、厳しい平手を見舞った。小気味良い音を立てた一撃に、マイクロトフが目を見開いている。
「…………手を汚したくないのでな、これで勘弁してやる。行け、ケビン。これまでのレフィーナの世話を感謝する」
柔らかな口調の影の棘を認めたように、男は微かに震え、のろのろと歩み去っていった。
後に残された二人は、しばらくの間、気まずく言葉を失っていた。やがて沈黙に耐えかねたようにマイクロトフが口を開いた。
「ええと…………その、大丈夫か……?」
「────見ればわかるだろう、未遂だ」
「──よ、良かった……おれはもう、驚いて…………」
「────それより、マイクロトフ。どうしてここへ……?」
すると彼は照れたように頭を掻いた。
「今夜は居残りで報告書を作っていたんだ。兵舎に戻ろうとしたら、夜勤の赤騎士に会って」
そこにはつい今し方、容赦なく敵を排除しようとしていた闘士の面差しはない。言い難いことを必死に紡ぎ出そうとしている子供のような瞳が真っ直ぐにカミューを見詰めている。
「おまえが……厩舎の方へ行くのを見た、と────それで、気になって様子を見に来たんだ」
「わたしを…………見た? 赤騎士が?」
人目を避けたつもりだった。そう口にすると、マイクロトフは鷹揚に笑い飛ばした。
「甘いな、カミュー。おまえの部下の目はあちこちに光っているぞ? 赤騎士の目を逃れておまえが城をうろつくことなど出来るものか」
「そ、そういうものか…………?」
戸惑うカミューは、自身が部下にとって絶対の存在であることをあまり理解していないのだ。
「『カミュー様があられもないお姿で忍び歩いておられた』などと言われては、様子を見に来ないわけにいくまい?」

────あられもない────
言われてカミューは初めて自分の惨憺たる格好に気づいた。引き剥がされた衣服は、かろうじて腰の辺りに留まっているが、半ば上半身は露である。慌てて服を掻き合わせたが、手荒に扱われたためか、あちこちが破けてしまっていた。
「あ────ああ、すまん! 気づかなくて…………」
マイクロトフは狼狽したように上着を脱ぎ、ふわりと彼の肩に回した。馴染んだ男の匂いに包まれ、ようやく心からの安堵が全身に満ちていく。
「…………レフィの様子が気になって、見に来たんだ…………」
「────ああ」
彼の愛馬への執着を認めている温かな同意。カミューは更に力を抜いた。
「────そうしたら、あの男が…………」
不意に彼はマイクロトフの逞しい腕に抱き寄せられた。
「……無事で何よりだ。もういい、カミュー…………忘れてしまえ」
「マイクロトフ…………」
しばらく穏やかな抱擁に身を委ね、忌まわしい感触を消そうと努めた。
ふと、マイクロトフが笑みを含んだ声で呟いた。
「……レフィーナが助けてくれた」
「え?」
「おれはのんびり歩いていたんだ。そうしたら、おまえの馬の嘶きが聞こえてきた。あまりにも必死な調子だったから、只事ではないと思って飛んできた……」
カミューは愛馬に視線を遣った。無我夢中で気づかなかったが、彼女は必死に主人を救うために悲鳴を上げ続けてくれていたのか────。
マイクロトフの腕からするりと抜け出て、再び牝馬の首を抱いた。
「ありがとう────助かったよ、レフィ」
愛馬は嬉しげに鼻を鳴らす。マイクロトフも反対側から主人の危機を伝えた賢馬の首筋を叩いて褒めた。
「……そろそろ部屋に戻らないと風邪を引く。おまえ──こんなに冷えているぞ?」
牝馬の首越しに絡んだ指が、強く握り合わされた。
「────温めてくれるかい?」
悪戯っぽく囁くと、愛しき伴侶の危機を救った勇猛なる騎士は真っ赤に染まり、忠実なる愛馬は冷やかすように嘶いた。

 


表〜表〜〜と念じながら作った(苦笑)から、
ちょっと消化不良かな?
だから愛犬の名を赤様御用達の馬につけて
ご機嫌を取ってみました、うっちぃさん(笑)

数箇所「レディ」と呼び掛けてる所がありますが、
誤字ではありません、念のため。
赤氏は時折、愛馬を「レディ」と呼ぶのです(笑)
紛らわしい名前だったな〜〜。

やはり青以外の輩に
そうそう狼藉はさせられませんね〜。
「○○くらいまでなら、おっけ〜!!」
指示されていたことなど、
決して公言しませんとも、ええ。(爆死)

 

戻る