うららかな早春の午後。
赤騎士団長執務室にて今期の団内における予算審議の草案を作成していた副長は、ふと書面に走らせるペンを止めた。穏やかな灰色の眼差しが傍らの騎士団長に投げられる。
若く端正な青年騎士団長は執務机に置かれた書類に目を向けていたが、その表情は何処か虚ろで、先ほどから裁可の印が一切押されていないようであった。
実に珍しいことである。
赤騎士団長カミューは驚異的な事務処理能力で知られており、彼のつとめに『遅延』の二文字は皆無なのだ。そうして生じた時間を利用し、なお深く慎重に自団内に目を光らせる、それが赤騎士団が円滑に日々を送る原動力なのである。
そんな彼が執務中に心ここに在らずといった様子でぼんやりするなど、理由はひとつしか思い当たらない。副長はおずおずと、だが誠意をもって口を開いた。
「カミュー様、お加減でも……? でしたら、ご無理をなさらず自室にてお休み……」
「……ランド」
だが副長の言葉が終わらないうちに、形良い唇が溜め息混じりに呟いた。
「───訊きたいことがあるのだけれど」
知的で聡明な上官に対し、果たして参考となる意見が出せようものか。副長は些か緊張しながら頷いた。
「如何様なことでございましょう?」
するとカミューはもう一度、今度こそはっきりした溜め息を洩らして忠実な副官から目を逸らせた。これもまた珍しいことだと困惑するランドである。
彼の敬愛する騎士団長は常に相手の目に向けて語り掛けてくる。心のすべてを見透かすような琥珀の瞳に捕まれば、嘘偽りはおろか、一切の隠し事も不可能となるのだ。そんな瞳を敢えて背けるカミューの心理を推し量り、副長はますます眉を寄せた。
躊躇っているのか、あるいは懊悩の深さなのか。
伏せられた長い睫に覆われた瞳は不安げに揺れているようだ。彼が大抵のことは自力で解決するという信念を貫いてきたことを思うと、こうして他者に助言を求めねばならないほど追い詰められた姿が痛ましくもあり、同時に頼られた喜びで胸が熱くなる副長だった。
「……おまえならば教えてくれるのではないかと思って」
ポツリと独言めいた言葉を洩らす青年に、彼はペンを置いて姿勢を正した。
「仰ってください。誠心誠意をもって我が意を述べさせていただきましょう、カミュー様」
温厚ながらも、ものに動じぬ不屈の精神力を持った男は、けれど次なる上官の言葉に真っ白になった。
「濃厚なキスと触れるだけのキス、どちらがより愛情深く感じられるだろう?」
「───はい?」
思わず間抜けた合の手を入れた副官に、カミューは一瞬哀しげな視線を向けた。再び俯いた頬は、ややほんのりと色づいている。
「え、ええと……その、カミュー様……それはあのう……」
副長は必死に混乱する己を諫めて焦った。何しろ青年の言葉を耳にした途端、あらゆる思考が四方へ飛び散ってしまったような気がする。そこらをふわふわと飛び交っている意識を手繰り寄せ、ようやくカミューの問いの意味を掴み取った次には改めて呆然とした。
───赤騎士団長カミュー、彼はその道の熟練者ではなかったか。
カミューの騎士団長就任と同時に副長の地位を与った男は、青年が若き頃よりロックアックス城下で多くの浮き名を流していたのを知っていた。
同性の目にも美しい若者である上に、纏う肩書きは同世代の騎士とは明瞭に異なる。娘たちが群がるのも無理はない、彼は人生の勝利者に見えたものだ。
実際に副官として側近く仕えるようになって、ようやく彼が噂とはまったく別の、身持ちの固い人間であることを知った。これは後に本人の口から根拠のない風評ではなかったと聞かされている。若さと美貌と地位を兼ね揃えてそこそこ経験を積んだものの、遊びの虚しさを悟ったという訳かと理解していた副長だった。
しかしながら、今の発言はどうだろう。
これはまるで、初めて恋をした無器用な少年のようではないか。こうして彼が悶々と悩んでいる間にも、カミューはいたたまれぬように瞬きを繰り返している。
何か言わねば。
焦る副長は忠誠の化身であった。
「それは、恋人との場合───でしょうか、やはり」
「親兄弟と濃厚にするのか、おまえは?」
「……ごもっともです」
憮然と返されて絶句する。こんな余裕のないカミューは初めて見たような気がして、何としても力にならねばと拳を握り、慎重に言葉を選んだ。
「こ、これはあくまでもわたしの体験に基づく説でございますので、必ずしもカミュー様にあてはまるという訳ではないと存じますが、敢えて述べさせていただくとすれば……」
「……前置きはいいから、要点を言ってくれ」
「は、はい。愛情が根底にあるならば、その……行為の濃淡と申しましょうか、種別は然したる違いを持たぬと考えます。何と申しますか、……濃密な行為が想いを強く伝えるとは限らず、ただ掠めるだけのそれであろうと十分ではないかと」
騎士団内において論議する際、どんなときにも冷静で、理屈で周囲を納得させる副長であるが、このときばかりは額に滲む汗を感じた。
語る内容が内容である。言葉にすればするほど、陳腐で当然過ぎて嘘臭い。
しかしカミューは必死の面持ちの男を一瞥した後、薄い笑みを浮かべた。
「おまえの奥方は幸せだね」
「は? はあ……ありがとうございます」
「そう───そうだ、普通はそう思う筈だよなあ……」
妙に幼げな口調でブツブツ繰り返す上官を凝視しながら、何故か薄ら寒いものを感じる副長であった。
同じく、穏やかな日差しの差し込む青騎士団長執務室。
こちらはさっきからまったくペンの進んでいない上官を、山と積まれた書類の隙間から青騎士団副長が苛立たしげに睨んでいた。
彼の実務能力は赤騎士団を率いるカミューに匹敵するほど優れている、というのが周囲の評価である。
その彼をして、未処理の書類の山。如何に上官がこの手の任を苦手としているか知れようものだ。
まったく、自分以外の人間が副官に就いていたらどうなっていたことか。暗澹たる心地を日々抱え、だが彼は息子ほどの年頃の騎士団長を心から愛していた。
「マイクロトフ様、一言申し上げても宜しいでしょうか? 書類というものは、ただ眺めていては紙切れに等しいものでございますぞ。騎士団長の印章を得て、初めて効力を為すことをお忘れなく」
言われてようやく男はぼんやりと副長に向き直った。書類の隙間で合った目は、やや血走っているようだった。
「ディクレイ……頼む、助けてくれ」
困憊しきったような口調。本日決裁を終えた書類の少なさを一瞥し、些か情けない気持ちで溜め息をついた副長だったが、ふと気づいた。
マイクロトフは確かに事務処理能力皆無に等しい男だが、つとめに関して泣き言を口にしたことはないのだ───ただ、残務が増えていくだけで。
「如何なさいました? 腹具合でもお悪いとか……?」
上官の絶え入るような声に相当する理由は、それくらいしか思い当たらない。努めて口調を緩めて問うた彼は、次の言葉にあんぐりと口を開いた。
「い……一般論として教えてくれ。お、想い人がくちづけを拒むようになるのは、どういう場合だろう?」
半ば引き攣った笑いが相手から殆ど隠れているのは幸いというべきだろう。ずっと上官の心を占めていたのは溜まった仕事でも体調不良でもなく、彼にとって最も不得手と思われる類の悩みであったとは。
そんなことはあの赤騎士団長にでも相談すれば良かろう、そう言い掛けて慌てて思い止まった。
こればかりは無理な相談である。何故なら、彼の人こそマイクロトフの想い人その人なのだから。
鈍い上官は気づいていないらしいが、端から見れば一目瞭然の素振りや目つき。最初に知ったときには魂消たものだが、今では生真面目な男の一世一代の大恋愛を微笑ましい気持ちで見守っているのだ。
───つとめに差し障りさえしなければ。
「……まず、第一に考えられるのは心変わりでしょうな」
意趣返しを込めて冷たく言い放つと、屈強の騎士団長はたちまち青ざめた。副長は嘆息して首を振る。逞しい大男の半泣き顔など、見て楽しいものではない。
「それはさて置いて……順を追って考えてみましょう。変化は突然なのか否か」
「き、急に───まったくもって突然………………の場合」
「機嫌を損ねたことが考えられますな」
「そんな覚えは…………い、いや、ええと」
「個々人によって感じ方は様々。例えばマイクロトフ様とわたしが異なるように、何が気に障るかなど、人によって違いましょう」
呆然とする男が次第に気の毒になる副長だ。
マイクロトフの想い人は、自身の目にても繊細な神経の持ち主と思われる。誠実ではあるが、がさつっぽい男に機微を量るのは至難であろう。
「……拒むのは、く……唇のみでありましょうかな?」
およそ恋の悩みなど似合わぬ男を相手に、思わず声も低くなる。マイクロトフは異様に目を光らせながら大きく頷いた。
「唇のみ、だ。それ以外は以前と変わらず許してくれる
………………、そ、そういう場合で考えてくれ」
あくまで一般論を貫いているつもりらしい上官の必死の努力。心底疲れながらも投げ出すことの出来ない己の面倒見の良さを恨みつつ、同時に副長は怪訝に思った。
花街の娘でもあるまいに、身を許した相手に唇を与えないというのは如何なる理由か。それも突然。こればかりは思慮深い副長にも身に余る難問である。
だが、他に頼れず自分に救いを求めてきた上官の心情を思うと、何とか答えを与えてやらぬ訳にはいかないだろうと思い直す。
相談者と同じほど必死に悩んだ副長は、やがてポンと掌を打った。
「分かりましたぞ、マイクロトフ様」
「ほ、本当か!」
「お相手は今も変わらぬ想いを持ち続けておられましょう」
「あ、ああ!」
励まされたようにマイクロトフが表情を輝かせたのも束の間。
「ただ……、おそらくは技巧の問題でございましょう。要するに、巧みでない故に嫌がっておられるのですな」
「な、何…………?」
打ちのめされて愕然とした男は、握っていたペンを取り落とした。
「こればかりは如何ともし難いものが……。厨房を訪ねることをお勧め致しますな」
「ち……厨房??」
「サクランボのヘタを利用して訓練するのです」
マイクロトフはしばし不思議そうな顔をしていたが、やがて気を取り直したように姿勢を正した。少なくとも悩みの解決の糸口が見えた上に、『訓練』と名づくことならば自信があったからだ。
「果実のヘタをどうすれば良いのだ?」
真摯に耳を傾ける上官に、副長は懇切丁寧に手法を伝授してやった。一通りの情報を手に入れると、マイクロトフは勢いよく執務椅子から立ち上がった。
「感謝する、ディクレイ! 誇りに懸けて、おれは技を極めてみせる!」
「ああっ、お待ちを! どうか、この決裁を先に───」
『一般論』たる仮定を吹っ飛ばした、虚しくも力強き宣言。
突風のように執務室を駆け抜け、あっという間に視界から消え去った騎士団長に向けて伸ばした己の手を虚しく見詰め、副長は虚脱しながら独りごちた。
「終わったら教えて差し上げると言えば良かった……何たる不覚……」
その夜。
静まり返った廊下に響くノックの音に、赤騎士団長はそっと自室の扉を開けた。立ち尽くす年下の恋人を認めるなり、端正な表情が曇る。
「入ってもいいか?」
「あ、ああ……勿論」
言いながら身体をずらすカミューだが、気まずさは隠せず俯きがちだ。
昨夜も同じように部屋を訪れたマイクロトフは、情熱的に彼を掻き抱いた。そのままいつものように唇を重ねようとしたとき、カミューは僅かに顔を背けて接触を拒んだのだ。
それを恋人の恥じらいと取った男は、『そうやって照れるところも可愛いぞ』などと毎度代わり映えのない睦言を吐きながら彼を寝台に押し倒した。しかし、行為自体は常と変わらず受け入れながら、カミューは唇を許そうとはしなかったのだ。
流石に怪訝に思ったマイクロトフが逃げられぬようしっかと頬を包み込んでくちづけると、諦めたように抗いを止め、しかし頑なに唇を閉ざし続けた。噛み締めた歯に侵入を拒まれ、終に深く舌を絡めることも出来ないまま、奇妙な夜は終焉を迎えたのである。
交わす情愛には何ら変化を感じられず、それでいて激しい違和感だけが残り、微妙な壁が生じかけていた。互いに一日悶々とした結果、先に我慢できなくなったのはやはりマイクロトフの方だったのである。
「カミュー、おれはおまえを愛している」
「……わたしもだよ、マイクロトフ 」
「初めておまえと情を交わして以来、想いは色褪せるどころか、日々深く強くなるばかりだ」
「……それはわたしだって同じだよ」
「隠し事は一切しないと誓い合ったのを覚えているな?」
「………………」
マイクロトフは部屋の中央でカミューの両腕を捉えて強く揺さぶった。
「はっきりおまえの口から言って欲しかったぞ、カミュー! だが安心してくれ、おれは今宵、これまでのおれではない!」
「───は?」
「なかなか苦労はしたものの、初歩の結び目は会得した! おれの想いの誠を受けてくれ、カミュー!!」
きょとんと目を見開いたままのカミューに不敵に笑むなり、マイクロトフはしなやかな背を強く抱き寄せ、一気に覆い被さった。困惑していた青年は反応が遅れた。熱い舌先が、拒む間もなく重ねられた唇をぬって差し込まれる。
「……………!!!」
こうなってしまっては逃げられない。最愛の男の舌を噛む恐れがあるために歯を食い縛れず、その上、回された大きな掌がしっかりと後頭部を固定して顔を背けることも出来なかった。
マイクロトフは、恐々と見守る料理人一同をものともせずに厨房にて励んだ鍛練を熱心に反復し、会得した技を駆使してカミューを堪能させるよう努めた。腕の中の青年がもがいているような気もしたが、自信をつけた男を止められるものなどない。
「カミュー……」
信頼する部下に指示されたように、貪る合い間に愛しい名など呟いてみる。掠れた吐息が零れるのを、更に強く押し当てた唇で塞ぎ、怯えたように逃げを打つ甘い舌を絡め取って軽く歯で挟んでみた───刹那。
マイクロトフは指先に触れる温かな雫にぎくりとして、思わず侵略を止めた。解放した唇を震わせてカミューが静かに泣いている。これには心底仰天して、慌てて恋人の顔を覗き込んだ。
「カ、カミュー? いったい、どうし……」
が、最後まで言う前に向こう脛に激しい衝撃を覚えてよろめいた。
蹴られたのだ、と悟るまでには脳天を突き抜けるような痛みが通り過ぎるまで待たねばならなかった。
「な、な……」
仁王立ちになって拳を震わせながら恋人に蹴りを食らわせた美貌の騎士団長は、まだほろほろと頬に涙を伝わせていた。
「カ、ミュー……?」
「痛いじゃないか!!!」
それはこっちの台詞だ───と言いたいマイクロトフだったが、相手のあまりの迫力と痛みに声が出ない。
「何が想いの誠だ、ヒリヒリする! どうしてくれるんだ、マイクロトフ!」
「ど、どうしてくれると言われても……」
ようやく苦痛から解放され始めた男が呆然と返すと、美しい琥珀の瞳を濡らしたカミューが珍しくも激昂したように続けた。
「わたしは舌を火傷しているんだ! なのにこんな……おまえも少しは痛みを知るがいい!」
激情の波が過ぎていった後、二人は寝台に並んで座っていた。
興奮したのを恥じたカミューは気まずそうに陳謝し、マイクロトフは脛を擦りながらそれを受け入れた。
「───昨日の夕食は、海老と帆立貝のグラタンだったんだ」
男の広い肩口にもたれた彼は、ポツリポツリと告白する。
「おれはローストビーフの方にした」
「そうかい? で……昨夜はおまえが来ることになっていただろう? 食事を始めたのが遅かったので、気が急いて……慌てていたら火傷をしてしまったんだ」
「な、なるほど……」
「過熱したホワイトソースの温度は馬鹿にしたものじゃないんだよ?」
やや呆然と相槌を打った男の反応を不満として、カミューは憮然と付け加えた。
「だが、カミュー。ならばそう言ってくれれば良かったのに」
もっともな意見を口にしたマイクロトフだが、美貌の恋人はツンとそっぽを向いた。
「食事で火傷をするなんて、食い意地が張っていたみたいで恥ずかしいじゃないか」
そういうものだろうか?
マイクロトフは首を傾げたが、副長の言葉を思い出した。
人それぞれ、考え方に違いがあっても当然だ。
「だからくちづけを拒んだのか……」
「おまえのキスは乱暴だからね。火傷した舌を我武者羅に吸われるのを想像してみろ、当然の措置だろう?」
もっとも───のような気がするマイクロトフは、所詮理屈で恋人に勝てる男ではなかった。
「濃厚なキスでなくても想いは十分伝わると思ったけれど、おまえにそこまで気が回るとは思えないし……触れるだけでも許したら、それ以上をされそうだったから……」
───よって、ただひたすら逃げ回っていたという訳だ。
マイクロトフは脱力しながらかろうじて微笑んだ。
「そうだったのか。知らぬこととは言え、すまなかったな」
「それで? おまえの言っていた『想いの誠』というのは何のことだい?」
愛しい琥珀に間近に見詰められ、彼は赤面した。
「い、いや……おまえが拒むのは、おれに技量がない所為かと……」
「何を今更」
非常に失礼な小声の指摘も耳に入らぬほど、男は照れていた。
「半日ばかり訓練を、だな……」
もじもじと言い募ったマイクロトフを、しばしカミューは無言で見詰めた。
彼なりに、今回の非は自身が大半を負っていることは分かっている。だが、それをカミューの非と思わず我が身を省みる男の誠実。
無器用であるけれど、常に深い情愛で包んでくれる恋人の想い───
ややズレているような感も無きにしもあらずだが、豊かな温みを注がれている自身を実感せずにはいられない。
穏やかな笑みを浮かべて再び男に寄り添った彼は、吐息のように呟いた。
「……折角だけれど、あまり変化がわからなかったな」
小さく言われてマイクロトフは苦笑して頭を掻いた。
「そうだな、むしろ痛かっただろう。すまな───」
「だから」
カミューはふと、啄むようなくちづけを男に贈った。
「もうしばらくはこれで我慢してくれるかい? 治ったら……改めておまえの誠を堪能させてくれないか」
甘い羽根のようなくちづけにマイクロトフはうっとりと目を細め、同じように触れるだけのそれを返した。
「……了解した。早く完治するよう務めてくれ、カミュー」