突然現れた赤騎士団長の娘を名乗る少女は、振り回した男たちに丁重に詫びを述べつつロックアックス城を去っていった。
あれこれ頭を痛めさせられはしたものの、いざ少女が消えてしまうと不思議な物寂しさを感じる騎士たちだ。ふとした拍子に脳裏でカミューと少女の類似点を探した数日間を、苦笑と共に振り返りながら、彼らはようやく日常を取り戻した。
傍迷惑な帰還を果たした新・青騎士団長であるが、結局は彼が解決を早めたことも否めない。数日のちには団長就任式典が催される。敬愛する赤騎士団長の朋友である男が他騎士団に並び立つことは、彼らにとっても歓迎すべきことだ。マチルダ騎士団は堅固な二枚岩を有することとなる。
副長ランドはこのところ悩んでいた胃の痛みが嘘のように引いたのに喜んで、早速食事の改善を料理人に申し入れた。カミューの配慮とはいえ、味気ない粥や野菜ばかりの食事は流石に飽き飽きしていたのだ。
少女を送り出した後のカミューは普段の穏やかさを取り戻し、あの気がかりな空虚さは跡形もなく消え失せていた。少女との間にどんな会話がなされたのかを推し量ることは出来なかったが、彼が元通りの笑顔を見せていることで満足することにした。
第一隊長以下、三人の騎士隊長はここ数日の早朝・深夜勤務を慰労され、しばしの職務軽減をカミューから仄めかされたが、いずれも頑なに首を振った。カミューのために秘密を抱えながら職務に励むという行為が、肉体の疲労以上に高揚をもたらしていたのも事実だったらしい。
かくして、赤騎士団上層部の一連の騒動に終止符が打たれることになった。
そして後に残ったのは───
「マイクロトフ……駄目だ、もう……やめてくれ……」
喘ぎ混じりの懇願が洩れるのを、きつく唇で塞ぐ。合わせた肌は燃えるようだ。逃れようと弱く抗う恋人を全身で押さえ込み、マイクロトフは更なる侵略を進めた。
「あ……」
「だいたい、理不尽だと思う」
行為の最中、弾む息の合い間に彼は言う。
「それは確かに、きちんと意思表示しなかったことが禍したのだろうが……おまえは結局、おれを信じていなかったということだろう?」
「それは……あっ───」
「子供がいたことくらいで、あっさり諦めて退く程度の想いだと見なされていたわけだ」
「……違……っ」
詰問する口調同様、鋭い突き上げに攻められて仰け反ったカミューの喉元を、きつく吸い上げながらマイクロトフは憤懣を吐き出し続けた。
「生半可な想いで一生を誓えるか?」
切れ切れの吐息を零す唇を再度くちづけが覆った。
「おまえの中には未だ不安が残っていることを確認出来たからな、今夜は夜通しかけてそれを壊すぞ」
カミューの娘だという少女を目にしたとき、確かに激しい衝撃を覚えた。彼が自分との関係を築く前に歩んできた人生の残り火を見たような気がして、呆然とした。
ただ、嫌悪や嫉妬めいたものは微塵も感じなかった。二人に語った通り、カミューの血が少女に息衝いていると思うだけで、少女はすべてをかけて庇護すべき対象となったのだ。
幸い───と言っては問題があるだろうが、実母は逝去しているという。ならばカミューが片親の責任を果たすのは当然のことで、自分がそれを支えることは更に自然なことだと即断した。言葉は足りなかったかもしれないが、聡い彼ならば理解出来ると疑わなかったのだ。
だが、カミューは履き違えた。
自分の言葉を離別と取ったことは、二度目の訪問時の彼の様子から漠然と思い当たった。機微に疎いマイクロトフであっても、日頃とは比較にならないカミューの反応の鈍さに流石に察することが出来たのだ。
少女の手前、追及することも叶わず、そのまま帰還後の雑務に突入した。新しく副官となるディクレイに早速小言を言われながら留守中の報告を受けているうちに、ふつふつと怒りが込み上げてきたのである。
二年もの間、温かな関係を育んできたというのに、人生の一大事に頼りにならぬ男と見なされたのは腹が立つ。
しかも誤解したその場であっさりと引き下がり、不実を詰ろうとしない淡白さはどういう訳だ。
少女が実際にカミューの娘であり、まして実母が生存しているとなれば、それはそれでややこしい話になっただろうが、あの状況下で二人の未来を簡単に放棄したというのは許し難い。それは即ち、カミューがいつ終わっても仕方ない関係だと我が身に思い込ませていた証ではないか。
結論づくなり、夜更けの赤騎士団長自室を訪問した。
───そうして、マイクロトフなりの『説教』が開始されたのである。
「そんなにもおれが信じられないか? 簡単に切り捨ててしまえるものなのか」
「ち、違…………」
度を過ぎた快楽はもはや苦痛でしかない。額に汗を滲ませ、潤んだ琥珀は必死に告げた。
「お、まえは……誰より倫理に堅い人間だから……」
「だから遠慮してさっさと退く、とでも?」
マイクロトフは不敵に笑った。
「そんな安易に結論を出すことが倫理だというならば、そんなもの、窓から投げ捨ててやるぞ」
憤懣から始まった行為ではあったが、根底には紛れもない情愛が広がっている。苦しげに瞳を濡らすカミューに、いつしか胸を占めるのは愛しさだけになっていた。大きな掌で濡れた髪を掻き分け、しっとりした額に唇を落とす。
「一人で抱え込もうとするな。たった一言、おれの真意を問い返してくれさえすれば良かったんだ。それとも……、『何故』とも思ってくれなかったのか? それはそれで問題だぞ、カミュー」
「───思ったさ」
きつく目を閉じて顔を背けたカミューは、拗ねた少年のようだった。
「あんなに熱烈に口説いておいて……いざとなったらこんなものか、と…………」
喘ぎ続けて掠れた声が、ようやく本音を紡ぎ出す。カミューに心情を語らせるには、肌を重ねているときが一番なのをマイクロトフは知っていた。満足して微笑みながら、この夜一番優しいバリトンが耳元に囁いた。
「……そういうときは、詰っておれを張り飛ばせばいい。そうしたらおまえを抱き締めて、ゆっくりと誤解を解くことにする」
「殴られ損じゃないか」
「構わない」
マイクロトフは白い頬を撫でて続けた。
「おまえが一人で哀しむよりも、おれに向かって怒っている方が余程ありがたい」
カミューはしばし無言でマイクロトフを見上げていたが、やがてのろのろと腕を上げて彼の首に回してきた。おそらく、今の顔を見せたくないのだろうと当たりをつけ、そのまま身を伏せて抱き締める。
「……驚いたのは事実だぞ。その所為で……長く離れていたというのに、今朝は抱き締めることさえ出来なかった」
「……これは……その意趣返しかい……?」
乱暴で強引な交合への厭味をやんわりと口にする青年に、マイクロトフは忍び笑った。
「それだけではないけれどな。離れている間、ずっとおまえが欲しくてたまらなかった……」
白状するなり、マイクロトフは兆した欲望で再びカミューに押し入った。限界を超えた波に攫われたカミューは、回した逞しい背に深い爪痕を刻むことで復讐しながら、幾度も愛しい伴侶の名を呼んだ。
月が西に傾く頃には、疲弊し尽くした二体の抜け殻が青白い褥に横たわるばかりだった───
「……グリンヒルで久々に家族と再会して……おまえが現状を再考することは充分に有り得ると思ったんだ……」
皺の寄った敷布の上で、マイクロトフの胸に頭を乗せたカミューがぽつりと洩らした。すでに落ち着いた鼓動がわけもなく互いをほっとさせる。マイクロトフはカミューの髪を撫で上げて続きを促した。
「そうなっても仕方ないことだと考えたのも事実だ。この数日、あのレディと過ごしてみて…………」
そこでカミューは苦笑した。
「笑うなよ? 子供というのも結構可愛いものだと思ったんだ」
「笑うなというのが無理だ」
マイクロトフは微笑んで返す。
「母性というのはよく聞くが……なるほど、父性というものも実在するということか」
「互いを選んでいなかったら……そんな未来もあったのだろうと、ほんの少しだけ考えた……」
「だが……後悔はないだろう?」
「───ないよ」
きっぱりとした断言に、マイクロトフは満足して頷いた。
「……皆、元気にしていた。おまえのことを案じていたぞ。見えないところで無理をする質だから、しっかり見張ってやれと散々言われた」
グリンヒルに移住した懐かしい一家の面影を過ぎらせ、カミューは目を閉じた。彼らに対して感じる後ろめたさは残っても、慕わしさが欠けることはない。
「……生涯独り身で過ごすと宣言してきた」
唐突な報告に驚いたカミューが身を起こそうとするのを、しっかりと抱き止めたまま続ける。
「『カミューと共に、騎士としての生涯を貫く』……そう言い残してきた。すべてを語ってはいないが……嘘もない。ある意味、おれにとってはすべてでもあるけれどな」
「マイクロトフ…………」
「笑って頷いてくれたぞ。決めたなら悔いのないよう生きろ、と。おれは……祝福されたような気がした。カミュー、おれのただ一人の相手───生涯おまえと共に生きる」
剣と誇りを道連れに。
命の炎が燃え落ちる最後の一瞬まで───
古い誓いを蘇らせたのか、カミューは甘く微笑んだ。
「……そして生涯、互いの背を守る」
付け加えるように言った彼に、マイクロトフは誇らしい思いで締め括った。
「ようやくおまえに追いついた。青騎士団長として、おまえの横に並び立つ」
幸福そうに微笑んだカミューが泥のような疲労に負けて穏やかに眠りにつくまで、マイクロトフは飽かず端正な美貌を眺め続けた。
思いついたことがある。
カミューは家族という繋がりに憧れと羨望を抱いているらしい。それは意識の外にあるのかもしれないが、身寄りのない彼にとって、そう呼ぶ存在は侵すべからざる神聖な領域なのかもしれない、と。
「……血の繋がりだけが家族ではないぞ、カミュー……」
夫婦は長い歳月を費やして血以上の絆を作り上げる。
血を分けた実子でなかろうと、愛をもって育て上げれば真の親子となる。
愛情と誠意と信頼と───それが家族を作るのだ。マイクロトフは己の定義を改めて噛み締めた。
ふと。
未だ騎士服の懐に入ったままの書類が脳裏を過ぎる。
自分たちの何かを残すなら、血を分けた我が子である必要はない。そうだ、カミューが家族の存在に憧れ続けるならば、いつか───
遠い未来へ向けて思いついた妙案に唇を綻ばせながら、マイクロトフは安らいだ眠りに落ちていった。