名もなき騎士の墓


どんよりと曇った空が重苦しく伸し掛かる冷えた午後。ロックアックス城の西棟に位置する赤騎士団長執務室を訪れたマイクロトフは、迎えた副長に申し訳なさそうに部屋の主人の留守を告げられた。
「一部老朽化している城壁の修復について相談したかったのだが……」
それを聞いた副長は即座に執務机の書類の束を探り出す。
「その件でしたら、先日カミュー様が施工人に見積りを依頼しておられました。少々お待ちを、確かこの辺に……」
流石に行動が速い、そう苦笑ってマイクロトフは捜索をやんわりと止めた。
「ああ、結構です。金銭的な交渉ならば、おれの出番はありません。カミューに一存します」
なるほど、と言って笑う副長に改めて問う。
「確か今日、午後いっぱいは時間が空いていると聞いていたのだが……急な任でも入りましたか」
すると副長はやや眉を寄せて窓の外を見遣った。
「いえ、少し散歩をしてくると仰せになって……」
「この寒空に?」
このところ一番の寒さだった。硝子ごしの木々はすっかりと葉を落として北風に晒されている。灰色の空は今にも泣き出しそうで、青・赤両騎士団共に奥外訓練を早々に打ち切っていたのだった。
こんな日に散歩か、と相変わらず気紛れな青年を思って嘆息したときだ。あ、と低い副長の呟きに引き寄せられた視線が白い花弁のような欠片を捉えた。
「初雪、ですな……風邪を召されねば良いが……」
独言のように言ってから副長は案ずる眼差しで空の執務机を一瞥する。一回りも年下の上官を心から崇拝している人物であるが、こうなると父親じみているなとマイクロトフは心中で密かに笑んだ。
「おれも午後は空きなのです。探して連れ戻してきましょう」
カミューが空いた時間を潰す場は把握している。城の東にある見晴らし台、あるいは西にある森のいずれかを探せば見つかるだろう。
どちらを選んだかはそこらの赤騎士を捕まえて尋ねれば判る筈だ。ただでさえ諜報に才を発揮する彼らは、艶やかな自団長の動向には殊更敏感であるのだから。
丁寧に謝辞を述べた副長が据え付けの箪笥から大急ぎでカミューの外套を取り出すに至って、先程感じた温かさを再び噛み締めるマイクロトフだった。

 

 

 

ロックアックス城の西の森。
そこは騎士の墓地へと続く広大な森である。
枯れ木に混じる針葉樹が鈍い緑の陰を落とし、暗い冬の森の空気をいっそうもの寂しいものにしている。これでも晴れた日には陽光を照り返して森を神秘に染めるのだから、自然というものは不思議だとマイクロトフは思う。
湿った風がそうさせるのか、踏み締める枯れ葉の音も鈍い。時折細い枝がたてるポキリという響きが侘しく聞こえる。白く凍る息の向こうにひらひらと舞う雪は、落下と同時に淡い水滴と化して道筋を濡らした。
ひとたび足を止めた。しかし、死したような静けさの中に探す人の気配はない。マイクロトフは溜め息をついて再び足を踏み出した。
彼の目から見て、平時におけるカミューは責ある地位に身を置くとは思えぬほど気儘な青年だ。朝、起きられないと言っては周囲を戸惑わせ、暑いと唸っては冷所を求めて城中をうろつき回り、寒いとぼやいては暖炉の前から動かない。
それでいて、何時の間にと不思議に思うほどきっちりとつとめをこなす。要領の良さ、それも才覚かと半ば呆れるほどだ。
そんな彼がこの寒空に散歩する、マイクロトフはその理由に興味を引かれたのだった。
それにしても、と彼は首を傾げた。
このままでは墓地に出てしまう。
西の森に向かったという赤騎士の証言を信じない訳ではないが、些か不審に思い始めたときだった。
視界が開けて騎士団墓地が一望された。
夥しい墓標の波の中に求めていた姿を見出し、呼び掛けようとして声を飲む。赤騎士団長が足を止めているのは騎士団における下位者の墓碑の前であったのだ。
淡雪の絡みつく薄茶の髪も、色を失った世界で唯一鮮烈な印象を放つ真紅の騎士服も、静寂を写し取った絵画のようだ。
やがて気配を察したのか、穏やかな琥珀がマイクロトフに向いた。青白く冷えた唇がゆっくりと彼の名の形に動き、それから密やかに綻ぶ。
見改められた彼は小路から進み出て、手にした外套で無造作にカミューを包んだ。
「散歩をするなら厚着して出ろ、……こんなに冷えて……」
「雪になるとは思わなかったんだ」
叱られた子供のように肩を竦めるカミューの髪に落ちた雪をごしごしと袖口で拭いてからマイクロトフは墓碑に向き直った。
「随分熱心に参っていたな、知己の騎士か?」
簡易な既製の墓碑、名の他には何も記されていない。それは死した人物が位階を持たない一介の騎士であることを示している。
「……名前も知らなかったよ、葬儀の日までは」
静かないらえ。
意外に思って首を傾げると、傍らの青年は柔らかく目を細めた。
「一団を与る身とは言え、赤騎士すべての名を覚え知っている訳ではない。だから知らなかった、……彼のことも」
「だが……」
何と訊いたら良いのか惑い、曖昧に口籠るとカミューは続けた。
「わたしが赤騎士団長を拝して最初に執り行なった葬儀、それが彼だっただけさ」

 

 

ひゅっと荒い風が吹き抜けていった。
袖を通さずに羽織っているだけだったカミューの外套が煽られる。飛ばされぬよう、マイクロトフは片腕を伸ばして衣服ごと彼の肩を抱き寄せた。
カミューは淡々とした口調で語り出した。
「わたしが騎士団長に就任して以来、暫くの間は平穏な日々が続いた。あれも……死者が出るような任ではなかったと皆が口々に言ったものだ」

 

 

それは隣り合う学園都市グリンヒル領内で起きた。
武力のない街と侮った無頼の一味が徒党を組んで近郊の略奪行為を繰り返した。憂いた市長代理の要請を受けて赤騎士団の下位二部隊が掃討任務に赴いたのである。
もともと寄せ集めのならず者連中、修錬を重ねた騎士の敵ではなかった。労することなく二部隊は一味を打破した。
中には逃げをうつ者もあったが、当初から部隊長らは深追いの意志を持たなかった。要は、この近隣に騎士団在りと知らしめればほぼ目的を果たしたに等しかったからである。
碌な統制も取られていない集団の下っ端ならば、上が捕われれば更生の余地もあろう───そう考えた部隊長らだったが、その若い騎士は退きの命よりも先に飛び出し、放たれた火の札に焼かれてしまったのだという。

 

 

「死なずとも良かったものを、功を焦った愚か者……誰もが嘆いて憤った。わたしもそう思った。式次第を渡されるまで、わたしは彼の名も知らなかったんだ」
カミューは自嘲めいた響きで薄く笑うと外套の襟を手繰り合わせた。
「寒い日だったよ、今日のように。それから名簿から名を削除しようとして初めて知った。彼がグラスランド出身であったこと、叙位されたばかり……僅か十五歳だったことも」
はっとして見遣った彼は再び髪に雪片を鏤めて瞑目していた。
「功を焦った訳ではなくとも……異邦の民が上官の目に止まるには少々の無茶も要る、そんなふうには思っていたかもしれないね」
「カミュー……」
マイクロトフは胸を突かれて言葉を飲んだ。
同じ異邦グラスランドの出自であるカミューには、死んだ少年の心が誰よりも理解出来るのかもしれない。
今でこそ赤騎士団の頂点として栄華を極めた彼もまた、騎士の街に生まれ育った者には分かり得ぬ葛藤を舐めてきた筈だから。
騎士団では出自の如何を問われない、実力だけがすべてである───崇高に詠われる訓戒が決して真実ばかりではないことを、今ならばマイクロトフも理解出来る。
殆どがマチルダ領の子弟である閉鎖的な騎士の世界で、異邦に生まれ育ったものが認められるには並々ならぬ剣技と才覚、そして何より強靱な心が不可欠だ。
若くして命を落とした少年が己の存在を訴えようと勇んだことは、たとえ傍からは愚かしく見えようと、彼にとっては精一杯の尽力であったに違いない。
カミューはそれを知っている。
知っているからこそ、こんな眼差しで墓標を見詰めるのだ。

 

 

「後で話を聞いてみたら天涯孤独だと言うじゃないか。おまけに人付き合いも悪くて友人の一人もなかったとか……。団長就任以来、死んだ赤騎士は彼だけではないし、特別扱いする訳ではないけれど……やはり誰も訪れてくれない墓では寂しいだろうと思って、ね」
最後はやや照れた表情で付け加えたカミューにマイクロトフは優しく微笑んだ。
「そうやって思い出してくれる者が在るだけでも、果報なことではないだろうか」
「……とは言っても、彼の顔を知っている訳でもないのだけれど」
溶けた雪の洗礼を浴びて濡れそぼった墓標は寂しげだった。
「今日が命日だったのか?」
真摯に尋ねると彼は首を振った。
「言っただろう、あれから随分多くの部下が命を落とした。流石に没日までは把握し切れなくなってきたよ。ただ……、彼を送った日が今日のように灰色の空の寒い日だったことだけは覚えている。だから思い出して訪ねてみただけさ」

 

 

頂点に立つものは捨てねばならない感情が幾らでもあるのだろう。例えば、名すら覚束ない一騎士の死に洩らす嘆きさえ。
周囲に部下の死を積み上げながら、それでも彼は進まねばならない。
けれどこうして一人の人間として同じ西の大地を故郷に持つ少年の墓の前に佇むカミューの心が愛しい。温情溢れる上官の顔と冷徹な指揮官のそれを併せ持つ彼であるけれど、真の優しさはこうして誰にも知られることなく零れ続けているのだろうとマイクロトフは思う。

 

 

暫し黙したカミューが再びゆっくりと口を開いた。
「上位レベルの札だったらしくてね、……骨も残らなかった。だからここには遺体がない。納められているのは剣だけなんだ」
それは珍しいことではない。
古より各地にて戦乱を体験してきた騎士たちの眠る墓地は、その大半が空である。遺体を土に還す風習を持つデュナンであるが、故国まで運ばれる僥倖を受けた亡骸の何程少ないことであるか。
長い布陣となることもある。そうした場合の多くは戦場にて葬られるのが常だった。
マイクロトフは無言のまま墓地の奥まった一画を見遣る。そこには青騎士団の騎士隊長として戦没した実父の墓標があるのだ。
「……おれの父上の墓も空だ」
ポツリと呟くとカミューは痛ましげに目を伏せた。
「そうだったね」
マイクロトフは幼き頃に没した父の墓に殆ど訪れたことがなかった。そこには欠片ほどの父の思い出さえ納められていなかったからである。
本来ならば亡骸の代わりに埋葬される剣は腰に在る。死してなお護り続けてくれる父の温みを己の手で握れることをマイクロトフは幸福に思っていた。
「わたしはね、マイクロトフ……出来ることならすべての戦没者をこの地に連れ帰ってやりたいと思う。身体の一部、髪一筋でも構わない。この街の土に還してやりたいと思っている」
昨今、デュナンに不穏な気運が満ちている。和平を結んだ筈の隣国ハイランドが都市同盟領下の村を襲っているという噂がまことしやかに流れているのだ。
そう遠くない未来に再び多くの騎士が命を落とすかもしれない、カミューはそれを予見しているのだろう。マイクロトフは更に強く彼を引き寄せ、冷えた髪にくちづけた。
「少し間違っているぞ、カミュー……『戦没者』ではなく、彼らを生きてロックアックスへ連れ帰ることがおれたちのつとめではないか?」
するとカミューは虚を突かれたように瞬き、幼げに笑った。
「……そうか、そうだったね」

 

 

雪の匂いがする、マイクロトフは湿った薄茶の髪に鼻先を埋めたまま思った。
清浄で真っ白な、如何なるものにも汚されることなき崇高な魂の香り。この世で唯一と決めた伴侶の醸す、何処までも心地良い安らかな───

 

 

「さあ……そろそろ戻ろう。雪が強くなってきた」
促すと、カミューは緩やかに天を見上げた。
「吹雪くかな……積もると思うかい?」
「どうだろうな」
次第に足下が白く染められている。どうやら降雪の勢いが溶ける速さを超えたらしい。
カミューは片手で墓碑に触れた。
「デュナンも少しばかり騒がしくなってきた。当分訪ねてやることも出来ないだろうが……」
穏やかな琥珀が雪片に揺らめいている。
「……どうか、おまえの仲間たちを見守ってやっておくれ」

 

 

マイクロトフは一度だけ空の墓地に向かって瞑目した。それから静かに踵を返す。
すぐに隣に並んだ青年の眼差しは、もう振り返ることもなく真っ直ぐに前だけを見詰めていた。

 


何気ない二人の日常のひとコマを
淡々と綴ってみることに挑戦、
そして敢え無く玉砕。
来年は頑張ります……(苦笑)

 

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