とある秋の午後、マイクロトフは親友の姿を求めてデュナン湖畔の居城を徘徊していた。
マチルダを離れ、隣国ハイランドと戦線を構えるジョウストン新都市同盟軍に身を寄せて数月、繰り返す戦いの狭間に時折ぽっかりと生じる平穏。
常に自軍を思い、次なる戦火に万全で臨もうと心掛けてきた青騎士団長であるが、ここへ至って数日来続く待機の時間を持て余し、遠乗りでも、と思い立った。
大地を駆ける愛馬の隣に、同じように無聊を舐めているであろう友を伴いたいと考えたのは自然の流れ。そういう訳で、彼は赤騎士団長カミューを探しているのだった。
最初は自室、次はレストランのテラス。居ると思われる場所を覗いてみたが、今日に限って見つからない。配下の赤騎士に尋ねても、捗々しい答えは返らなかった。
容貌や振舞いからあれだけ目立つ青年が、こうも完全に身を隠してしまえるとは不思議だ。思案に首を傾げ、マイクロトフは更に探索を続けた。
行き交う住人に友の所在を問い掛けるたび、相手の顔に何とも言えぬ苦笑が浮かぶ。
きっと今のおれは、置き去りにされた子供のように見えているに違いない───幾度目かの、宥めるような笑みを向けられたとき、マイクロトフは唐突に思った。
本拠地に暮らすようになってからと言うもの、二人で居るのが当たり前になった。共に離反した騎士たちの編成、軍師が描く戦術への意見。交わす言葉には限りがなく、マチルダに在った頃とは比較にならないほどに揃って過ごす時間が増えたのだ。
並んで居城の廊下を歩く二人に、いつしか住人も慣れ切っていたのだろう。独りでいると『片割れはどうした』といった声が掛かるようになった。それは『片割れ』の方にも同様らしく、セットとして認識されているようだ、などとカミューは笑っていたものだ。
だからこそ、こうして唐突に訪れた独りの時間が不可思議な感慨を呼び覚ます。周囲が想像しているらしい寂しさや不安を感じている訳では決してないが、親友の所在を完全に見失ったという点に小さな失意を味わっているのは事実であった。
やれやれ、と首を振ってマイクロトフは澄み渡った高い空を見上げた。
考えてみれば元来社交的なカミューのこと、新たな環境の中で交友の世界を広げていても不思議はない。そこに招き入れられなかったからといって、物足りなさを感じる必要などあるだろうか。
誰よりも強固な絆を共有している自負はある。
なのに、ささやかなれども独占を過らせてしまうなど、人々の苦笑を誘っても仕方のない狭量ではないか。
───遠乗りには独りで行くか。
最後の期待を胸に訪れた図書館を背に歩き出したマイクロトフだったが、少し進んだところで可愛らしい子供たちの歓声に歩調を緩めた。聞くでもなく届いた会話の中に零れた名が、次には足を止めさせた。
「やっぱりカミュー様が一番だね」
「うん、カミュー様が一番好きみたい」
「……そうかな?」
柔らかに響いたのは探していた人の声。
ゆっくりと歩み寄ってみると、割れた小さな木立ちの向こうに車座になった数人の少年少女、そして秋の陽光に美しく頬を照らされた青年が現れた。
ロックアックス時代から妙齢の乙女に囲まれる姿は見慣れていたが、子供と一緒に笑うカミューは初めて見る気がして、何故か呼び掛けが喉に蟠る。
少し離れた木陰で眺め遣っていると、突然、息が詰まるような光景が襲った。何処からともなく現れた巨大な黒い塊が真っ直ぐにカミューに激突したのだ。
咄嗟に愛剣ダンスニーに手を掛けたものの、相変わらず子供たちは楽しげな歓声を上げているし、何より突き倒されたカミューに緊張がない。心を鎮めてよくよく見れば、大きさこそ目を見張るものの、友に覆い被さっているのは一頭の犬だった。
「お、重い……退いてくれ」
息を切らせて訴える青年をよそに、黒犬は恐ろしい勢いで彼の顔を舐め回している。周囲の子供らの笑顔、そして凄まじい速さで振られている黒い尾がなかったら、それは友が獣に食い殺されそうになっているようにも見えただろう。
「ロンは男の子なのに、カミュー様が大好きだね」
一人が言えば、別の一人が悪戯っぽく同意する。
「キス、だよね。カミュー様にキスしたいんだ」
わあ、とはしゃぐ子供たちに憮然とした声が呻く。
「……ませたことを言っていないで、助けてくれ。潰されてしまうよ」
食べ物にでも釣られたのか、犬はひらりとカミューから下りて、子供の一人に駆け寄っていった。騎士服を乱して半身を起こした青年は、それでも不快どころか可笑しそうな笑みを浮かべている。
「ああもう……ベタベタだ。これは勘弁して欲しいな」
口元を拭っているのを見ると、子供たちが言ったように雄犬は彼の唇を集中攻撃したらしい。マイクロトフは幾分引き攣る頬を自覚しながら足を踏み出した。呼ぶ前に子供が気付き、これまた明るい声で叫ぶ。
「マイクロトフ様だ! こんにちは」
「マイクロトフ様も『ひばん』なんですか? ロンと遊びに来たの?」
非番、という言葉を教えたのはカミューだろう。目を遣ると、小さく肩を竦めていた。
「あ、ああ。そうなのだ、今日はつとめがなくて……カミューと遠乗りに行こうかと思ったのだが」
それから初めて聞く名に首を傾げる。
「……ロン?」
「この子だよ!」
地面に落ちた肉片と思われるものを無心に咀嚼する大犬に跨がろうとでもしているのか、しがみついた格好で一人が言う。
「ぼくが名前を付けてあげたんだ」
未だ不可解そうに眉を寄せているマイクロトフに気付いたのか、一番年長らしい少年が説き始めた。
「一カ月くらい前に迷い込んで来たんです。お菓子をあげたら、住み着いちゃったみたいで。御飯は皆の分を分けてあげているんだけど……いけなかったですか?」
マイクロトフは生真面目に本拠地の暮らしについて軍師から与えられた注意事項を紐解いたが、愛玩動物──目の前の犬は、とてもではないが、その呼称には程遠い大きさであったが──に関する項目はなかったように思った。庭や商店街に犬猫が屯しているのを思い出しながら柔らかく否定する。
「いや、飼うのは特に問題ないと思う。思うが……」
育ち盛りの子供が食事を残して犬に与えるのはどうかと、そんな思考が過っていた。地に座り込んだままのカミューが察したように微笑む。
「思い遣りや助け合いを学ぶには良い機会さ。幸いにも同志は複数人だからね、そう負担にもならないだろう。実は、わたしも五日程前から参加させていただいているのさ」
カミューの声に反応したのか、食べ物をすべて片付けてしまったからか。黒犬は再び赤騎士団長に向けて身を翻す。振り払われたかたちの子供が転げ掛け、小さく頬を膨らませるのを別の子供が揶揄っていた。
「……おまえが犬好きだとは知らなかった」
またしてもカミューに纏わり付き、隙さえあらば細身に登ろうとしている犬を睨みながら呟くと、甘い調子が返った。
「全身で親愛を示してくれる大きな生き物は好きさ」
───ちらりと向けられた琥珀の瞳に煌めく挑発的な光。暗なる示唆を察して噎せそうになり、慌てて取り繕わんと大犬に向けて手を差し出してみた。
先ずは匂いを覚えさせ、警戒心を失わせる。一般的な常識は、だが黒犬には通じなかった。気配を察した途端に向き直った犬は、鋭い牙を剥いて唸り始めたのだ。
「変だね、ロンは誰にでも懐くのに」
子供が怪訝そうに言い、宥めるように獣の太い首を撫で擦る。まったく無防備に接触を許している犬は、それでもマイクロトフに当てた目を逸らさず、敵意剥き出しに唸るばかりだ。そこでカミューが背後から黒犬を抱え、ピンと尖った耳に吹き込むように囁いた。
「嫌わないでくれないか? わたしの友人だよ、……大切な人間なんだ。わたしを好いてくれているなら、彼とも仲良くして欲しい」
何て懇願だ───赤面しそうな心地で聞いていたマイクロトフは、けれど不意に黒犬が唸るのを止めたのに仰天した。まるで言葉が分かるかのようだ。やや不満そうにカミューの顔を一瞥した後、犬は不承不承といったふうに座り直した。
今度はマイクロトフが手を伸ばしても微動だにしない。そればかりか、必死に堪えているとしか言いようのない様子で拳に鼻面を擦り付けてきた。
「……やきもちだね」
「うん、やきもちだ。取られちゃうと思って怒っていたんだね!」
わぁい、と叫声を上げて周囲を駆け回る子供たちに目を向け、マイクロトフは複雑な面持ちで固まっていた。カミューが優しく黒犬の背を叩く。
「さあ、わたしは行くからね。皆と遊んでおいで」
ロンと呼ばれる巨大な犬は、未練がましい瞳で青年を振り返ってから、のそりと立ち上がった。次いで太い足で疾走を開始し、子供の輪に連なっていった。
それを見届けてから、優雅な仕種で差し向けられた手を掴んで引っ張り上げると、耳朶に楽しげな声が囁く。
「取られちゃうと思って怒っていた、か。犬と誰かと……さて、どちらのことだろうね」
「なっ……」
犬相手に嫉妬したなど、絶対に認めたくない。なのに、否定し切れないのも確かだった。
困惑で狼狽えるばかりの男に先んじて歩を進めながら、美貌の友は朗らかに笑い出した。
「好悪の情だけでは動けない。人間という生き物は不利だな、マイクロトフ」
「……どういう意味だ」
憮然と呻くものの、胸の奥に燻る情念を突かれたような気がした。締め付けられる焦燥を覚え、友を探していた目的も忘れて彼方を見遣る。
───よく晴れた遠い空に、鱗雲が流れていた。