Devotion


 

「────風邪、だな」

 

あっさりと宣告されたひとことに、寝台の上のマイクロトフはくらりと眩暈を起こした。
珍しく目覚めが悪かった。いつもなら日の出とともにぱっちり開く目が、今朝に限って妙に重く、傍らに眠る恋人の寝姿を堪能することも出来なかった。
そのうちに物音がし始めて、已む無く必死に目を開くと、すでに身繕いを整えた恋人が心配そうに彼を覗き込んでいたのである。
朝を数少ない弱点にしているカミューの方が先に身支度を済ませている。これは只事ではないと思いつつ、身体を起こそうとして叶わなかった。
ゆっくりと伸びてきた白い手が、彼の寝乱れた前髪を払って額に触れた。いつもなら温かく感じるはずのカミューの手は、何故かひんやりと心地良かった。
やがて恋人は溜め息混じりに呟いたのだ。
マイクロトフにとってはげんなりするような事実を────淡々と。

 

 

サウスウィンドウの街に同盟軍の物資調達に訪れて数日。粗方の物資を確保した二人が降雨に見舞われたのは、昨日夕方のことである。
雨に濡れる恋人の魅惑的な姿を他人に見せたくないという子供じみた独占欲に駆られ、カミューを懐に守るようにして宿屋に辿り着いたまでは良かった。
ついでに、しとどに濡れた身体を拭う間もなく燃え上がった情熱的な営みも素晴らしかった。
カミューは腕の中でしどけなく身悶えながら、しきりに濡れた髪を乾かせなどと訴えていたが、あの状況でそんな余裕など作れるはずもない。結局マイクロトフは全身濡れ鼠のような有り様で愛を満喫した後、そのまま寝入ってしまったのである。
カミューの視線には『わたしが風邪を引かずに済んだのはおまえのお陰だ』『それにしてもおまえが風邪を引くとは意外だな』『だが、わたしの忠告を聞かなかったのだから自業自得だ』『困った奴だな』と、それはまあ多くの言葉が込められていた。だが、マイクロトフにかろうじて読み取れたのは精々三つ目の意見だけだった。
「す…………すまない…………」
「────別に謝る必要はないけれど」
カミューは苦笑して、もう一度額に触れてきた。昨夜はあれほど熱く感じた掌が、今は冷たくて気持ち良い。マイクロトフは大きな溜め息をついて目を閉じた。
「とにかく……医者を呼んでこよう」
それを聞くなり、マイクロトフはがばと跳ね起きようとし、慌てたカミューに止められた。
「い────医者は駄目だ!」
「何故? 早く治さねば、明後日には騎士団員たちが調達物資の移送のために来るんだぞ?」
「と、とにかく医者はやめてくれ! 頼む、カミュー」
するとカミューは端正な表情を笑みで崩した。
「いい年をした図体の大きな男が、医者が怖いのか? まったく……、しょうがないな。まあ、見たところただの風邪のようだけれど……」
「そ、そうだ! 今日一日寝ていれば治る! いや、治してみせる!!」
「────そこまで言うなら仕方ない。では、わたしは残った物資の調達を済ませてきてしまうよ。……一人で大丈夫かい?」
「あ、ああ。心配しないでくれ。おとなしく休んでいるから。それより……すまない、おまえ一人に任務を押し付けるようなことになって────」
カミューは肩を竦めてみせた。
「気にするな。おまえが風邪を引き込んだのは、わたしを庇ったことが一因なのだし。それより万一苦しくなったら、ちゃんと医者を呼ぶんだぞ? 宿の主人に頼んでいくからな」
「ああ────、そうする…………」
この街に派遣された第一の目的を果たさぬ限り、精神的に落ち着かないのは事実だ。病床の自分を置いて恋人が出掛けることを物足りなく思うことはなかった。
それでも病で寝込んだ記憶を紐解くと、遥か幼少時まで遡ることになるマイクロトフには、どうしても人恋しい気分は否めない。
そんな心情を察したのか、カミューはふと身を屈めて顔を寄せてきた。マイクロトフは驚いて枕深く頭を引いた。
「だ、駄目だ、カミュー……うつるから────」
「…………うつらないよ」
形良い唇は、マイクロトフの汗ばんだ額に押し当てられた。それは子供の頃に父母に与えられたキスに似て、彼の心を温めた。
「一人にしてすまない。出来るだけ早く戻るから」
涼しげな琥珀の瞳が、今は蕩け出すような甘やかさを浮かべている。一瞬、そのしなやかな肉体を掻き抱いて何処にも行かせたくない衝動に駆られた。
「────あまり……外で笑顔をばら撒かないでくれ」
自分の知らないところで零される恋人の笑み。それを耐え難いと思うのは余裕のなさなのか。思い煩いながら洩らした言葉に、だがカミューはにっこりした。
「……最近、おまえの束縛が快感になってきたよ。それじゃ、行ってくる」
一気に頬を染めたマイクロトフに軽く手を振り、彼は部屋を出て行った。それを見送ってから、ぼんやりと天井を見上げる。

 

────医者が怖い訳ではない。始終無鉄砲な戦い方をしているマイクロトフは、むしろ誰よりも医者の世話になっているのだから。だが────

 

怪我で局部的な治療を受けるならともかく、背中に走った真新しい無数の爪痕を、いったいどう隠せというのか。
「…………おまえの方が意外と抜けていると思うぞ、カミュー…………」
マイクロトフは小さく笑って目を閉じた。

 

 

 

夢を見ていた。
幼い頃の夢────それはすでに両親が他界して、叔父夫婦と暮らし始めてからの一幕だった。
小さな頃から病気とは殆ど無縁の彼だったが、それでも幾度か寝込んだ記憶がある。そんなとき、叔母は特製の粥を作って枕元で微笑んでくれた。
その粥の味には覚えがあった。亡き母が同じものを作ってくれたことがある。病床に休む家族のために、工夫を凝らした滋養のあるそれは、彼の家に古くから伝わる『家庭料理』のひとつだったのである。
病み疲れた身体の隅々まで広がる温かさ。そして何より、それをふるまう家人の微笑み。歳を重ねていつしか記憶が遠くなっても、その優しさだけは忘れ難い大切な思い出だった。
枕元に置かれた小鍋から立ち昇る湯気と甘い香り、案じる気配に満ちた視線。
気怠い幸福感に満ちた曖昧な時間────

 

泣きたいほどの安らぎに満ちた夢に、はっと目を開いたとき、そこには夢の中と同じ香りが漂っていた。
「起こしたかい?」
間近に聞こえた恋人の柔らかな声。慌てて瞬くと、すでに寛いだ衣服に着替えたカミューが、袖を肘まで捲り上げたままサイドテーブルに小さな鍋を置くところだった。
「カミュー……戻っていたのか」
「少し前にね。よく眠っていたので、起こさなかったんだが」
彼は確かめるようにマイクロトフの額に自らの額を当てた。ふわりと香る恋人の匂い。未だ夢の中に漂っているような幸せな一瞬。
「────朝よりは少し熱も引いたか……おとなしく寝ていたようだな」
「ぐっすりだ。それより、カミュー…………」
彼はサイドテーブルに置かれた鍋に目を向けた。
「これは?」
「朝から何も食べていないだろう? 少しは胃にものを入れないと……」
「い、いや……そういう意味ではなく────」
どう言葉にするか口篭もったマイクロトフに、カミューは悪戯っぽい表情で笑い掛けてきた。
「話は後にしよう。折角作ったんだ、まずは食べてみてくれないか?」
「お、おまえが作ったのか……?」
無言の同意に動転しながらも、マイクロトフは急いで身体を起こそうとした。すかさず伸ばされたカミューが、枕を背もたれ代わりに設えた。そのまま椅子を引き寄せて、ベッドの傍らに座り込む。
カミューの手によって小皿に取り分けられた粥は、やはり記憶にあるものだった。ほんのり甘いミルクの香り、幾つかのハーブや細かく刻んだ野菜の入ったそれは、かつて母や叔母が作ってくれたものに間違いない。
ゆっくりと口に含むと、更に確信は深まった。
熱に浮かされ気弱になった幼少時、力づけられた魔法の味────

 

「わたしが昔、おまえの家で寝込んだことがあっただろう? あの時────おまえの叔母上が作ってくださったものを再現した……、つもりなのだけれど」
カミューはやや気恥ずかしそうな口調で切り出した。
「おまえの家に伝わる病人用の食事なのだと聞いた。うろ覚えだし……あまり自信はなかったんだが…………」
「カミュー……────」
マイクロトフは呆気に取られて恋人を凝視した。
確かに昔、そんなことがあった。だが、一度や二度ふるまわれただけの粥を、ここまで見事に再現するとは。
「おかしいか?」
カミューはマイクロトフの視線に苦笑して、小さく息を吐いた。
「初めて……だったんだよ。『客人』としての持て成しではなく、『家族』と同じ扱いを受けたのは。だから────」

 

身一つで故郷を離れ、遠いロックアックスでひとり気を張り巡らせて生きてきた彼が、初めて知った安らぎの世界。今、こうしてその深い情を吐露する彼は、マイクロトフの胸を切なく締め付ける。
カミューの作ってくれた粥は、確かにマイクロトフの家に伝わる味だった。寸分の違いも感じられない。
それほどまでにかつての彼の孤独は深く、そして開かれた世界は暖かかったということではないか。

 

「……美味いよ、カミュー……とても────」
口下手なマイクロトフには、それ以上の賛辞が出ない。ただ、カミューが微かに目を伏せたことだけは本能的に許してはならないと思った。
「────また……つまらないことを考えているだろう、カミュー」
「ん?」
カミューは意外そうに瞬いて、それから困ったように口元を緩めた。
「おまえ……病気のときは意外と敏感なんだな」
「────放っておいてくれ」
「おまえの家族は────本当は…………」

 

この味を、可憐な乙女に伝えたかっただろうに。

 

マイクロトフは言葉にならなかったカミューの声をはっきりと聞いた気がした。
匙を置いて手を伸ばし、なめらかな指先を握り締める。
「病めるときに傍にいて欲しい相手────その相手に伝わってこそ、我が家の特製粥の真髄だ。だから、間違ってなどいない。おまえがこれを作ってくれたというだけで、風邪など吹っ飛んでしまいそうだぞ、カミュー」

 

カミューは一瞬惚けたようにマイクロトフを見詰め、それからゆっくりと破顔した。そこにはもう小さな憂いの影さえなく、深い想いだけが溢れていた。
「────それで? わたしが寝込んだときには、これを作っていただけるのかな?」
「う………………、あ、後で調理方法を教えてくれ。努力する」
「おまえに厨房は似合わないが、な」
くすくすと笑い出した恋人にマイクロトフは憮然としたが、やがて一緒に笑み崩れた。
「冷めないうちに食べてくれ」
「ああ、これのお陰で明日には全快出来そうだ」
「それは何よりだ。食後には薬湯を飲んでもらうからな。宿の主人からの配慮だ。かなり苦いそうだから、覚悟しておけ」
それだけ言うと、カミューは立ち上がってテーブルの中央に置いてあった水差しの口に手を翳した。
「……湯加減も丁度良くなってきた」
「湯加減?」
「食後に身体を拭いてやるよ。汗ばんで気持ちが悪いだろう? 着替えもしないと」
弾んだ口調で言う恋人に、粥を啜りながらマイクロトフは首を傾げた。
「カミュー…………楽しそうに見えるのは気のせいか?」
「楽しいさ」
彼は朗らかに言い返した。
「おまえの面倒は色々みてきたつもりだが、こういうのは初めてだからな。何だか大きな弟が出来たみたいで、新鮮だよ」
「……………………………………………………」

 

 

……その大きな弟に、昨夜散々しがみついて泣いていたのは何処の誰だ?
ひっそり心で呟いて、マイクロトフは咀嚼に励んだ。
早いところ体調を戻して、再び弟から恋人に昇格しなければならない。
しかし、さしあたっての問題は────

 

熱くなってしまっている正直な身体を、如何に恋人に気づかれずに拭いてもらうか、である────。

 


自己設定をリニューアルしたので、
久々に使ってみました。
しかしながら────

あああ〜ちっともサービス過剰にならない〜〜。
どうも奉仕精神が『母』になってしまう。
困った赤様…………。
蛙さん、ごめんなさい。玉砕しました。

しょうがない、次はキリキリ頑張るッス!!

 

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