晩秋の湖畔
それはある晴れた午後のこと。
珍しく空いた時間を持て余し、自室で書物を捲っていたマイクロトフは、密やかなノックに顔を上げた。その調子だけで相手がわかる。彼は即座に書物を置いて立ち上がった。
扉の向こうには、誰よりも慕わしい赤騎士団長が花のように微笑んでいた。彼は優雅に会釈してみせる。
「──お暇かい?」
「あ、ああ。本を読んでいた……」
「だったら少し、付き合わないか?」
少し低い目線がマイクロトフを見詰める。その瞳には何処となく楽しげな気配が潜んでいた。マイクロトフはその調子に合わせて微笑んだ。
「────お供しよう」
二人は徒歩で本拠地の城を出た。
任務や訓練以外で、しかも歩いて城を出たのはここへ来て初めてのことである。ゆったりと歩を進めるカミューをやや後方から追うマイクロトフは、久々にのんびりと開放的になっていく心地を満喫することができた。
故郷を裏切り、同盟へと走った。
その選択に後悔はない。それでも反逆以来ひたすら働いてきたのは、ロックアックスに残った仲間と戦う未来が重く伸し掛かっていたからかもしれない。
次の戦はグリンヒル攻略が予想される。それが上手く行けば、その次は──
距離的に考えても、ロックアックスに進むことは十分考えられた。
そうしたことについて、カミューと語り合ったことはない。
彼は如何なるときにも飄々と任務を果たすことだろう。そんな彼に、自分の気の重さを知られることは耐え難い。望んで選び取った道を邁進する自分だけを見て欲しかったからだ。
やがてデュナン湖を一望する湖畔に、並び立つ木々の群れが現れた。
「あそこに座らないか、マイクロトフ」
カミューが指したのは、中でもひときわ見事な枝振りをたたえた巨木だった。青々と生い茂る枝が晩秋の強い日差しを遮って、過ごし易そうな日陰を作っている。
二人は並んで、湖を眺め下ろす形で腰を下ろした。
「────良い天気だな……」
マイクロトフは空を見上げながら呟いた。
こんなふうに静かに空を見ることさえ久しぶりの気がする。
この地方は温暖な気候の所為か、故郷で見る空よりも何処となく暖かな色合いの青に見える。ロックアックスの空は厳しいほど澄み渡っていた。手を伸ばせば切れそうなほど。特に今頃の季節は──。
そろそろ冬支度を始める頃だろうか。ふとマイクロトフはそんな郷愁に捕らわれた。
「……こうしていると、戦をしているのを忘れそうだ」
思わず洩らすと、カミューは横で微かに笑んだ。
「おまえは我武者羅過ぎるのさ。以前、軍師殿が仰った。ここは同盟の本拠地であるが、城に集った仲間の家でもあるのだ、と。たまには息を抜くことも必要だと思わないか?」
「……………………」
「──戦い続けるのは騎士のつとめ。そう言いたそうだな、マイクロトフ」
マイクロトフは口篭もった。やがて静かに頷く。
「……それがおれに与えられた役目だと思う。おまえはそう思わないのか、カミュー?」
「思うさ」
カミューは苦笑して片膝を抱えた。寛いだ様子でマイクロトフを見る目は、穏やかで優しい。
「──けれどな、人は戦い続けるだけでは生きていけない。始終張り詰めていたら、持たないぞ。おまえを見ていると、わたしまでつらくなる────」
洩れた言葉に驚いて、マイクロトフはカミューを見詰めた。何処までも深みをたたえた眼差しが、逸らされることなく見返してくる。
「…………戦いは終盤に入っている。グリンヒルの次は、おそらくロックアックス────おまえが気にしているのは、そうしたことだろう?」
「カミュー…………」
「……先のことまで考えるな。あまり先走ると、足元をすくわれるぞ?」
マイクロトフは溜め息をついた。
やはりカミューには敵わない。結局自分の思考などお見通しというわけだ。ようやく肩の力が抜けて、彼はぽつりと呟いた。
「同盟に参加したことに後悔はない。ただ────あそこに残った騎士たちと戦うことを思うと…………やはり穏やかではいられない」
「──同じだよ、マイクロトフ」
カミューは湖に目を向けた。
「かつての仲間に剣を向ける…………わたしだって、何も感じていないわけではない。ただ────」
「ただ?」
カミューはひとたび唇を閉ざした。珍しく逡巡するような友に、マイクロトフは真っ直ぐな視線を向け続けた。
やがて、ひどく細い声が答えた。
「────ただ、それでもわたしは今──、とても幸せなんだ」
「同盟に参加したことで?」
「……………………そうではなくて」
彼は俯き、ますます小さくなる声で続けた。
「…………おまえとこうして────すぐ傍で戦えることが──」
マイクロトフは呆然と友の横顔を見詰めた。
白い頬がやや染まっているように見えるのは、傾きかけた陽の所為だろうか。
確かにロックアックスに居る頃には、所属の異なる二人が同じ戦線に配置されることはなかった。片方が戦場に向かうときには、安否を気遣い、無事を祈る、そうした日々が過ごされた。
同じ戦場で、ひとつの未来の為に剣を振るう。そのことがカミューにとって、それほど大きな意味を持っていたなんて。
マイクロトフは必死に言葉を探した。しかし胸を占める熱い感情に、努力は空回りするばかりだ。────そうだ、何を悩む必要があるだろう。
自分の選択が誤っていないことは、ここに友が存在することが証明している。その事実以上に大切なものなどない。
たとえこれから起こり得る騎士同士の戦いがどれほど過酷なものであろうと、彼が横で同じ思いを抱いて戦うならば、乗り越えられぬつらさであろうはずがない。
「カミュー…………おれは────」
精一杯に言葉を振り絞ったとき、彼は横の青年が静かな寝息を立てているのに気づいた。よくよく見ると、優しげな顔立ちに僅かな疲労の影が浮かんでいる。マイクロトフは胸を突かれた。
同盟軍は寄せ集めの軍隊である。ろくろく戦法も知らぬ兵士たちを鍛えるよう軍師に依頼され、主としてその指導にあたっているのは反逆したマチルダ騎士団であった。これまでマイクロトフの勢いに付き合って同様に任務を遂行してきたカミューに疲労が蓄積しても不思議ではない。
それでも敢えて彼は自分を寛がせるために、こうして誘ってくれたのだ。そのいたわりを思うとマイクロトフは切なさでたまらなくなった。
彼はそっとカミューの肩を引き寄せ、自分に持たれ掛けさせた。抵抗なく彼の肩に頬を預け、カミューは穏やかな眠りに漂っている。
心を安らがせる温かさ、命の証の鼓動。
────泣きたいほどに透明な時間。
カミューが傍らに居る限り、何処までも真っ直ぐ進んで行ける。
甘く耳に響く吐息を味わいながら、マイクロトフはゆっくり目を閉じた。
「────あれ、寝ちゃってるね」
少女が小さく言うと、少年がしっ、と諌めた。
「疲れているんだよ、起こさないでおこう」
「でも、こんなところで寝てたら、風邪ひいちゃうんじゃないかな?」
「……もう少し暗くなったら、また呼びに来ればいいよ」
「そうだね、何だか起こすのが可哀想」
ナナミは義弟に笑い掛け、再び目線を戻した。
その目の先には、少年のように互いにもたれ合いながらぐっすり眠っている騎士団長二人。信じ切った表情で安らぎを貪る青年たちは、かつての義弟と親友の少年の姿を懐かしく少女に思い出させた。
「────それじゃ、グリンヒル行きの件は後で話そうね。おやすみなさい、二人とも」
姉弟が小さく囁いて去っていく。
落日に照らされた青年騎士団長たち、その束の間の安息に見る夢は、遠きロックアックスの風景だったのだろうか──────
終幕
らぶらぶえっちなし、ほのぼの平和な青赤。
心洗われるキリリクだったけど、
久々!にほのぼのだったせいか、
ほのぼの度がかなり低い気が(苦笑)
ううむ、すっかり色物に染まってしまったのか……
それはとても悲しい気がします(笑)
ごめんなさい、かずきさん。これが今の限界……