出陣の日、宵のうちから目が覚めた。
日頃から明けきらぬうちに起き出して鍛錬に勤しむ身だ。染み付いた習慣は、緊張によって更に覚醒に作用したらしい。
出立までは未だかなりの時間を残す。寝台を抜け出して手早く身繕いを済ませたマイクロトフは、愛剣を掴んで部屋を出た。
薄暗い城内は静まり返っている。これより全軍をもって戦地に赴く青騎士団員も、今はまだ穏やかな眠りを貪っているらしい。
青騎士団が拠点を置く東棟に在る幾つかの鍛錬場のうち愛用しているひとつに向かった。彼にとって朝の鍛錬は一日を始めるための大切な儀式である。こうして早くから目覚めたのも、肉体が慣習を怠るなと命じているのかもしれない。そう考えて、出陣の儀が始まる前に普段通りに汗を流すことにしたのだった。
鍛錬場の扉を開くと独特の空気が迎えてくる。その場に身を置くだけで足元から闘気が高まってくるような、それでいて心が澄んでいくような、不可思議な緊張が走るのだ。
鍛錬場の中央に進もうとしたマイクロトフだが、もう一つの扉口に立ち尽くす影に気付いて足を止めた。相手を認めるなり、我知らず口走る。
「カミュー……?」
優美な所作で歩み寄る青年は、マイクロトフの正面で足を止めて微笑んだ。
「早いな、マイクロトフ」
「それはおれの台詞だ」
出立前に顔を見ることは諦めていた。が、喜びよりも驚きが勝るのは日頃のカミューを知っていれば致し方ないことである。
「おまえがこの時間に起きているなど……まやかしかと思ったぞ」
「ご挨拶だね。おまえの騎士団長として初めての出陣だ、多少の無理はするさ」
軽く睨みつける眼差しが、すぐに柔らかく溶けた。
「おまえのことだ、おそらく出陣前だろうが朝の鍛錬を欠かさないだろうと思ってね。どうせならお相手を務めさせていただこうかと」
優雅に剣の柄を握ってみせるカミューに、マイクロトフは呆然と瞬いた。
思いがけない申し出である。互いに多忙の身、常に心から望みながら果たせなかったことが実現する───
震えるような興奮を覚えたが、問わずにはいられなかった。
「だが、カミュー……鍛錬の相手をしてくれるというのは嬉しいが、何故今朝に限ってそんなことを……?」
カミューの艶やかな美貌はいつもと変わらない。けれど纏う気配が何処か違っていた。真摯に見詰め続けていると、やがて諦めたように彼は肩を竦めた。
「分からないかい? 戦場に向かうおまえを見送るのがつらいからさ」
耳慣れない響きに、マイクロトフはゆっくりと瞬きを繰り返す。
「つらい、と……言ったのか?」
「そう」
漸く意を決したように琥珀の瞳が真っ直ぐに見返した。
マイクロトフの率いる青騎士団は国境から僅かにミューズ領を侵害しているハイランド王国軍を撤退させる任を与えられている。穏便に事が成るか、あるいは戦闘に突入するのか、当地に赴くまで状況は予断を許さない。
けれど如何なる場合にも、ひとたび自団を纏めて居城を後にする騎士の気構えは一つだ。
己の最善を尽くすこと、騎士たる誇りを貫くこと。
けれど、その果てに在る結末は予見出来ない。それは二人のどちらが戦地に向かっても同じことである。
マイクロトフはやや低めた声で切り出した。
「騎士団長として戦場に向かおうとも、これまでと何ら変わらない。おれは何があろうと生きて戻るつもりなのだが」
するとカミューは虚を衝かれたように瞬いて苦笑した。
「わたしがおまえの死を恐れているとでも? 残念ながら違うよ」
ますます困惑を深める男に彼はゆっくりと続ける。
「そんな時期はとうに過ぎた。武人を伴侶と決めた以上、戦いに赴くたびに命の心配をしていては身が持たない。今はもう、信じることに専念している」
ならば、とマイクロトフは首を傾げた。
「何がつらいと?」
黒い双眸の追求からカミューはゆっくり視線を逃がし、薄明かりの洩れる小窓へと歩を進めながら答えた。
「わたしもつとめがら、四六時中おまえのことを考えている訳にはいかない。けれど……何かの拍子に胸を過ることは止められない。何を考えているだろう、どうしているだろう───同じ城に在りながら見えない姿を思い描く。おそらく、おまえも同じではないかな」
頷いたマイクロトフが続きを促すと、彼は自嘲気味に笑った。
「だが……戦時下ともなれば別だ。戦地に立ったおまえの心は戦いと、そして如何に部下を生還させるかに占められる。まして、団長としての初陣ならば尚のこと……わたしの過る余地などないだろう。分かってはいるが、やはりつらいな」
そこでカミューは顔を向け、朗らかに微笑んでみせた。
「妬いている、と言ってもいいかもしれない。わたしはおまえの意識を占める戦いそのものを忌んでいる。こうして出陣前に剣でも交わらせれば、多少なりともおまえの意識下に潜んで共に戦地に向かえるのではないかと思ったのさ」
マイクロトフは苦笑せざるを得なかった。
かつては彼も同じことを思ったものだ。戦場は、カミューの心から自身の存在を奪い取る唯一かもしれないと───傍で戦うことの出来ない所属の相違を恨めしく思ったこともある。
けれど、いつしか逆転の発想が生まれた。彼はただ、その一念を胸に故郷の街を旅立つのである。
「……無用の心配だ、カミュー」
歩み寄るなり、両腕を広げてしなやかな体躯を閉じ込める。温みを噛み締めながら切々と告げた。
「おれは常に生きて戻るために死力を尽くす。戻る地におまえが在るからだ。生に執着し続ける限り、おれの心はおまえに繋がれている。それは共に戦っているに等しいのではないだろうか」
───ふと。
腕の中で小さな含み笑いが洩れた。
屈み込んで窺えば、美貌の青年は琥珀を細めて唇を綻ばせていた。
「なるほど」
穏やかで短い、けれど甘い同意。
「意識の転換か……おまえもだいぶ騎士団長らしくなったものだね」
「……それはどういう意味だ」
憮然としたものの、幸福そうな表情に魅入られる。
カミューは何事か口を開き掛けたが、そのままゆっくりと首を振った。
次にマイクロトフを見詰めた瞳はそれまでの儚さを微塵も感じさせない煌めきに満ちていた。
「余計な時間を掛けさせたね。では……、始めようか」
すらりと愛剣を抜いた細身に漲る闘志と決意。さながら、これより戦場に向かうのが彼自身であるかのような───
「……よし。加減無用だぞ、カミュー」
「加減はともあれ、出陣前に怪我をさせるようなヘマはしないさ」
緩やかに明け行く鍛錬場に、剣先の交わる澄んだ音が高らかに響いた。