最後の王 extra/3


最後の客が引けて、どれくらい経った頃か。乾いた軋みを立てて、ゆらりと扉が開いた。
入ってきたのは旅姿の男だ。くすんだ色の衣服の腰に、幅広の剣が見え隠れしている。無人の店内を訝しげに見回した末に、カウンターの奥に立つ彼女に気付いた男は、すぐさま申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまん、店じまいの時間だったか」
突然の侵入者に身を固くしていた女将は、陳謝を聞くなり表情を和らげた。
人柄の良し悪しを量る自らの才には絶対の自信を持っている。酔客が屯する酒場を仕切って幾年月、職業がら養われた鑑識眼とでも言うのだろうか、彼女の第一印象は滅多に外れたためしがないのである。
改めて詫びながら出て行こうとする男の背に向けて、短く呼び掛ける。
「旦那、ミューズの街は初めてかい?」
問われた男は振り返り、質問の意味を量りかねた様子で瞬いた。
「いや、これまで何度か来たことがあるが……」
このあたりの店では、営業中か否かを客に知らせる木札を外に下げる習慣がある。それに気付かず踏み込むほど、男は粗忽な人物には見えない。だとしたら理由は一つだ。女将は重ねて問うた。
「外だけど……、「仕舞い」の札に変わってなかった?」
男はひょいと肩を竦めてみせた。ささやかな仕草だったが、それだけで状況は察せられた。カウンター脇を回ってフロアに歩み出た女将は、丁寧に会釈した。
「そいつは悪かったねえ。いつもは常連客が変えていってくれるから、うっかりしてたよ」
「……つまり、今日は新規の客が最後に出て行った、という訳だな」
気にしたふうでもなく、さらりと応じると、男は扉の横に吊り下げられている木札に視線を当てる。
「こいつを外の札と取り替えておけば良いんだな?」
自問気味に呟きながら手を伸ばす彼を、軽く制して女将は言った。
「見たところ、着いたばかりって感じだけど」
「分かるか? 旅人用の厩舎で、「ミューズで一杯やるなら是非この店で」と勧められてな。どちらかと言うと、今日のところは酒より飯を所望していたんだが、ここは料理も美味いという話だったから。だが……惜しかった、また別の日に寄らせて貰う」
「他に行く店の当てはあるの?」
「この時間だしな……、おとなしく宿を探すさ。頼み込めば、何かしら食わせてくれるだろう」
だったら、と女将は微笑んだ。
「うちで食べてお行きよ。残り物くらいしか出せないけど、腹の足しにはなるだろうから」
「しかし……」
男は虚を衝かれたように眉を寄せる。じっと見返す瞳の真摯が、女将の懐かしい記憶を揺り動かした。遠い石の街で、たった一度だけ相対した高貴なる若者を思わせるような、清澄かつ強靭な男の眼差し───
彼女は婀娜っぽくテーブルの一つを指した。
「今夜は飲みたい気分だったから、少し早めに店を閉めたんだよ。行き違いの詫びも兼ねて……良かったら付き合っていって」

 

 

有り合わせの食材を使った急拵えの肴であったが、並べられた皿に男は感嘆の息を洩らした。次いで、グラスと一緒に女将が持ち寄った酒瓶に目を止めて唖然とする。
「そいつは……またえらく値の張る品じゃないか。懐具合が心配になってきたぞ」
「しみったれたこと、言って欲しくないねえ。誘ったのはこっちだ、ワインは奢りにしておくよ」
ほう、と安堵とも感心ともつかぬ溜め息をついて、男は向かいに腰を下ろした女将を見詰めながら口を開いた。
「あんたは一人で店を切り盛りしているのか?」
「まあね。前にマチルダでやってた店では、妹分みたいな娘が手伝ってくれていたんだけど、こっちに移ってきてからはずっと一人。忙しいけど、馴染みの面々があれこれと手を貸してくれるし、それなりに何とかなってるよ」
グラスに注がれる深緋を凝視したまま、男は躊躇した面持ちで言葉を挟む。
「……そうではなくて。こんな時間に見知らぬ男を店に入れるのは危なくないか?」
女将はきょとんと瞬いて、それから吹き出した。
「経験上、悪事を企んでる奴は、わざわざそんなことを口にしないねえ。旦那は悪い人じゃないってのが、あたしの直感だけど?」
それを聞くと、男は苦笑してグラスを手にした。
「そうきっぱり安全・無害と見做されるのも、男としては複雑だが……まあ、褒め言葉と受け取っておくか。美人で慈悲深い、勇ましい女将に乾杯だ」
「ミューズ市にようこそ」
合わせた硝子が澄んだ音を立てる。男は喉を鳴らして最初の一杯を飲み干して、しみじみとした調子で唸った。
「これほどの酒は久々だ。いつもこんな上物で晩酌しているのか?」
まさか、と女将はグラスを弄ぶ。
「今日は特別だよ。今、街に来てる知り合いからの土産の品でね。当人は顔を出す時間が取れないみたいで、昼のうちに代理の人が持って来てくれたの」
「奇遇だな。おれも、この街に知人が来ている」
男は肴の皿に手を付けながら目を細めた。
「旅の途中で噂を聞いて……たまたま近くに居たんで、つい足が向いてな」
「噂……って言うと、ひょっとして都市同盟関係?」
現在、デュナンの地には大同盟が締結されようとしている。五つの都市国と一騎士団領の代表が、このミューズ市に逗留中なのだ。
各国の指導者が一堂に会すとあって、供廻りの数も相当なものである。街の宿屋の多くは、そんな一行の宿舎に割り当てられていた。女将が男に食事を勧めたのは、空いた宿を見付けられずに難儀した挙げ句、結局は野宿に落ち着かざるを得ないのではないかと案じたためでもあったのだ。
女将の何気ない問い掛けに、男は逆に聞き返してきた。
「あんたの知り合いとやらは、同盟絡みで来ているのか? こんな高価な酒を土産に寄越すとは、かなりの人物らしいが」
そう、と彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「何時の間にか、えらく出世したもんさ。出向けば会う時間を作ってくれそうだけど、街を散策する暇もないほど忙しいところを煩わせるのも気が引けるし……。あたしを覚えていてくれて、こうやってわざわざ酒を差し入れてくれたんだもの、それで充分」
男は一瞬、押し黙った。グラスに足された酒で舌先を湿らすようにして、それからゆっくりと女将を窺い見る。
「この料理は変わった味だが……」
「ちょっと面白いだろう? グラスランド産の香草が隠し味になっていてね。手に入りづらい香草だと思っていたら、ミューズは交易が盛んだからかねえ、扱ってる店を見付けたんだよ」
彼女は懐かしげに目を伏せた。
「さっき話した知り合いに教えて貰った献立さ。色男───と、妹分は呼んでいたっけ……確かに、あまり見ないくらいに整った顔かたちをしてて、貴族の子弟みたいに物腰が上品で。それでいて、まるで頓着なく台所仕事に勤しむ坊やで、さ。立場上、もう料理なんてすることもなくなっただろうけど、それはそれで、ちょいと惜しい気もするような……」
ふふ、と含み笑って女将は記憶を辿る。男勝りの妹分と、妙に楽しげに並んで鍋を覗き込んでいた秀麗な青年の姿が、鮮やかに蘇るようだった。
聞き入っていた男が、不意に言葉を挟んだ。
「以前はマチルダで店をやっていた、……と言ったか?」
「ロックアックス。あたしは元々こっちの出でね、向こうに居たのは……どれくらいになるかねえ。色々あったけど、今じゃ、どれも感慨深い思い出さ」
男は黙して俯いたが、次に顔を上げたとき、それまで以上の親愛の気配が穏やかな双眸に昇っていた。
「……おれにとっても、今日は感慨深い日になりそうだ」
彼はそんなふうに切り出した。
「何年も前、ほんの行き掛かりで、行き場をなくした孤児を連れ歩くようになった。剣だの何だのを教えたから、おれとそいつの関係は、一般的には「師」と「弟子」といったものになるんだろう。四、五年あまり、方々を旅して回ったが、決定的な価値観のズレがあって、袂を分かたねばならなかった。それでも……どうしても完全に見放すことが出来なくて、結局、最後にもう一度だけ手を貸した。おかしなものだな……、どちらかと言えば自分を、人に深入りしない質だと思っていたんだが」
唐突に語り出された身の上話に戸惑ったが、押し込めていた心情を吐露する客は珍しくない。男の言葉が途切れた拍子に、ポツと合いの手を入れる女将だった。
「何年も一緒に居れば、情も沸くってものさ。旦那はその子の親代わりみたいなものだったんだろう?」
「そこまで歳の開きはなかったつもりだが」
渋い顔でぼやいて、男は手酌でグラスを満たす。揺れる暗い緋色に見入りながら、彼は続けた。
「まあ、心情的には近かったかもしれない。おれの意識の中では、あいつはずっと、出会った頃の少年のままだったから」
でも、と指先でグラスの縁をなぞる。
「子供ってのは、知らぬうちに育つものなんだな。おれと離れていた間に、そいつは運命的な相手に出会った。おれが何年かけても与えてやれなかったものを、ごく短い間に、その相手から得て……それで考え方を変えたんだ。あれには驚いた。「劇的な変化」とは、ああいうのを言うんだろう」
「何を得て変わったって?」
「言葉にするのは難しい。そうだな……強いて言うなら、「生きているのも悪くない」と思う気持ち、かな」
怪訝そうな表情に気付いたのか、男は思案しながら補足した。
「生きて、幸せでありたい───それは人の根幹となる欲求だ。故あって、そうした情動を損なった奴だったんだ。実のところ、立ち直りを見届けないまま別れてきた。良い人間が大勢、あいつを支えようとしてくれていたからな、安心して任せてきたんだ」
そうして男は乾杯の仕草を取った。
「もう、おれの助けは要らない……そう考えると、少しばかり寂しいような気もするが」
「完全に父親の心境としか聞こえないねえ」
揶揄すると、男は失笑して頭を掻いた。その様相を好ましく思いつつ、追想せずにはいられぬ女将だった。
───あの青年もそうだった。道に迷い、自らを破滅へと落とし入れようとしていた。
けれど彼は、彼を心から愛おしむ者たちの手によって瀬戸際の縁から引き上げられた。そして今では自らの人生を、まったく目覚しいほどの力強さで歩んでいる。
彼と、その伴侶たる今ひとりは、皇王制が廃された後、騎士団領と名を変えたマチルダの指導者として、此度、ジョウストン都市同盟の締結に臨もうとしている───

 

 

男は出された料理を綺麗に平らげて、最後に味わうようにグラスを干した。そうして少しの間、余韻を楽しんでから懐を探り始めた。
「さすが「ミューズで一押しの酒場」と勧められるだけのことはある。料理もワインも最高だった。勘定だが……これで足りるか?」
テーブルに置かれた額に女将は目を丸くした。
「酒は奢りと言ったろう? 相場ってものがあるよ。残り物と有り合せしか出してないんだ、これじゃあ多すぎる」
「では、気持ちと思って取っておいてくれ。本当に良い時間を過ごさせて貰ったからな」
そう言って、脇の椅子に立て掛けてあった剣を取り上げる男の横顔へと、女将は慌てて呼び掛ける。
「街門から東の、奥まったところにある宿なら、何とか空きが残ってると思うけど」
ありがとう、と男は低く言って眦を緩めた。
「だが、もう必要なくなった。このまま街を出る」
「知り合いに会いに来たんじゃなかったの?」
すると彼は、何処か遠い眼差しで空を仰いだ。
「……久しぶりに元・弟子の顔でも拝んで、酒の一杯も奢らせようかと目論んでいたが、こんな偶然もあるんだな。どうやら期せず、目的の半分は遂げてしまったようだ。欲張らずに、もう一方は次の機会を待つことにする」
「旦那……?」
はっとして目を瞠る女将に、男は曖昧な首肯ひとつを返して視線を注ぐ。
「女将、あんたの言う通りだ。おれはあいつに父親めいた感情を抱いていたんだと思う。優しげな容貌に似ず、強情で、扱いづらい弟子だったが……昔も今も、幸せを願わずにはいられない」
「……分かるよ」
冬が忍び寄る静かな夜、自らの眼前で肩を震わせていた青年を過らせつつ、女将は相槌を打つ。
あのとき彼女には、復讐と恋情の狭間で苦悩する青年をどうすれば救えるのか、皆目わからなかった。
それでも願った。彼の苦しみが僅かばかりでも失われるように───より良き道を見出せるように、と。
回想する女将を見て、男は微かに笑ったようだった。
「出来れば、あんたの方から訪ねてやってくれ。でないと、そのうち相棒と一緒に窓から抜け出して来そうだ」
「……そして後から、真っ青になったマチルダ騎士が追い掛けて来る……?」
核心へと水を向けてみたものの、けれど男は答えぬままに片手を挙げた。
「無事に会えた際には、宜しく言っておいてくれるとありがたい」
「それは勿論だけど……あんたが何処へ向かったか、せめてそれくらいは教えてやりたい気がするねえ」
そうだな、と男は───「二刀要らず」の通り名を持つ剣士は朗らかに言い放った。
「おれの剣が必要とされる地へ。ここ、デュナン辺りがそうならないよう、しっかり働けと伝えてくれ」
広く頼もしい後ろ背が扉の向こうに消えてゆくのを見守りながら、女将は静かに頷いた。
男の言葉は遵守されるだろう。マチルダのみならず、同盟の名に結ばれる国すべての民が平穏に暮らす日常を築き上げ、護ってゆくために、彼らはその生涯を捧げるに違いない。ふたり手を携えて、いつまでも、ずっと。

 

最後に今いちどグラスを満たして空になった酒瓶を、指先で軽く弾いて独りごちる。
「……それじゃ、二人が迎賓館を脱け出す前に、会いに行くとするかねえ」
異邦の剣士と元・皇王。マチルダの新たなる指導者となった若き友人たちを脳裏に浮かべながら、彼女は祝福の杯を傾けた。

 


お助けキャラのその後でした。
互いに名乗り合うでもない、
でも赤(とプリンス)に関わったという一点で
ちょっとだけ人生が重なったオトナな男女。
そんな雰囲気が出せていたら、と思いまっす。

 

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