日没が馬の脚を止めた。距離を稼ぐ努力はしたものの、見渡す限り民家の影はない。
グラスランドは広い。遥か遠く視界の先で、今まさに紅の輝きが地平に吸い込まれようとしている。草の群れの中に佇む一騎と落日、両者を隔てるものは皆無だった。
───今夜も野宿だ。
小さく息をついて、ゲオルグ・プライムは馬から下りた。次いで倣おうとする少年を横目で見遣る。
相当に消耗しているだろうに、泣き言ひとつ口にしない。音も立てずに地に降り立った体躯はひどく細く、だがすんなりと優美だ。ゲオルグが向ける促しの視線に、少年はのろのろと馬から離れ、草の上に置かれた荷包みの脇に腰を落とした。
馬に水を与えた後、自らも同様に地に座り込んだゲオルグは、上着を脱いで、ひょいと少年の肩に投げ与えた。
この時期、草原の夜は冷える。だが、火は起こせない。最初の夜、年若い連れが激しい恐慌に陥るのを見て、以来、控えているのだ。
ゲオルグ・プライム───卓越した剣腕を誇る、恐れ知らずの「二刀要らず」と人は呼ぶ。夜陰に紛れて襲い来る獣や魔物は多いが、ゲオルグには然したる脅威にならない。そんな彼が、今、ささやかではあるが、恐れを覚え始めている。
荷袋を探り、最後の干し肉を取り出した。杯状になった水筒の蓋に入れて、これまた残り少なくなった水を注ぐ。少しでも水を含ませ、柔らかくするための作業であった。干し肉は携帯には便利だが、消化が悪い。そのままでは連れの少年には与えられないのである。
ここまでの数日、食にはたいそう苦労した。今の事態を予期していなかったゲオルグには、一般的な携行食、それも当座の分ほどの持ち合わせしかなかった。
火が使えないから鳥獣は獲れない。木の実や果実を求めても、眼前に広がるのは広大な草の海のみ。やむなく手持ちの品を与えてみたが、連れは受け付けなかった。
とは言え、たとえ豪華で温かな料理であっても同じだったに違いない。少年の身体は──あるいは心も──生存への本能の大半を失い掛けていたから。
口にしても吐いてしまう。嘔吐という行為自体が体力を削るのは分かっていたが、断食よりは幾らかマシだ。何十分の一かは胃の腑に留まり、滋養になるだろうとゲオルグは考えたのだった。
食を取れないだけでなく、少年は発熱にも苦しめられていた。
聞いたことにのみ、壊れた人形のように応じる彼から、ゲオルグは大まかな事情を察していた。小さな体躯に潜んだ魔性、絶大なる力の攻撃魔法の存在を。
生まれ持った紋章が、不自然なかたちで覚醒した。荒れ狂う炎が制御を拒み、少年の体内を駆け巡っているのだと。
時に鎮まり、ふとした拍子に吠え猛る凶暴な魔性。いつ暴発するかも分からぬ脅威を、少年の自制が必死に押し止めている。発熱は、そうした目に見えぬ苦闘の現れなのだろう。
本当は、一刻も早くこの地を離れるつもりでいた。同じ風、草の匂いが届かぬ彼方へ───少年が目にした光景を、忘れられぬまでも、薄められる新天地へ。
だが、思うようにはいかないものだ。
こんな半病人を馬で長時間に渡って揺らし続ける訳にもいかず、いっかな前進は思うに任せない。休ませ、体調を整えさせようにも、集落に行き当たらないのではお手上げだ。
このままではまずい。非常にまずい。
長引けば衰弱死、あるいは火魔法で自身ごとあの世行きだ───そんな懸念が、ゲオルグの気を塞いでいるのである。
「……ほら」
水筒の蓋を差し出すと、少年は従順に受け取った。すぐに口にするでもなく、じっと水中の干し肉を見詰めている。
「そいつで最後だ。しっかり噛んで味わうんだぞ」
言いながら、自らのために残した僅かな肉を口に放り込んだ。それから、両手で杯を包んで動かない少年に向けて軽く呼び掛ける。
「明日、頑張れば何処ぞの村に行き着けるだろう。少し休んで、食料を補充して……東へ行くぞ。山を越えればティント領だ。知っているか? デュナン湖周辺諸国のひとつ、鉱山で有名な王国だ」
聞いているのかいないのか、少年の反応は薄い。言葉を切って少しして、申し訳程度の首肯が返った。ゲオルグは何気ない調子で続けた。
「確かクロムとかいう村があった。そこまで行けば、色々と変わったものが拝めるぞ。ここらとは少し違うが、デュナンの飯も悪くない。そうだな……、ケーキはどうだ? 甘くて美味いぞ」
口にした途端、腹が鳴りそうになった。この話題は失敗だったとゲオルグは嘆息した。
反応を期待している訳ではない。生きたまま死しているような少年を、少しでも現実に繋ぎ止めておくための手段なのだ。暗く静かな草原は、死の世界を思わせる。そこへ溶け込ませまいとする、ゲオルグなりの最善であった。
ふと、少年が水筒の杯を地面に置いた。自発的に動くのは珍しい。おやと窺った目の先で、少年は背を正して口を開いた。
「おじさんは有名な剣士なの?」
「ゲオルグ、だ。教えただろう、ゲオルグ・プライム」
すると少年は束の間瞬き、再度言った。
「……ゲオルグおじさんは、有名な剣士なんですか?」
───やれやれと首を振る。そんな呼び方をされる歳か。確かに十三、四の子供から見れば、充分に「おじさん」かもしれないが。
「何故そんなことを聞く?」
「……あいつらを、あっという間に倒したから」
「そうしたかった訳ではないがな」
少年の村を襲ったマチルダ騎士。女子供まで残らず殺すという残虐行為への憤りはあった。
けれど、最初から討とうとした訳ではない。村で最後の生き残りを救い出すため、そして相手が向かってきたから、剣を抜かざるを得なかったのだ。
「剣を教えてくれると言ったよね」
掠れた呟き。ああ、とゲオルグは少年が片時も離さず傍に置く細身の剣を一瞥する。
「一緒に来るか」と尋ね、「剣を学ぶか」とも問うた。何れの問いにも、少年は弱く頷いた。あんなに虚ろに応じていたのに、覚えていたのかという驚きを少なからず感じたが、次の一節は更にゲオルグの意表を衝いた。
「今から教えて」
「何を言っているんだか……。いいから食え、食ったら寝ろ。足元もふらついているような奴に何が出来る」
「教えてください」
少年は繰り返した。これまで自分から言葉を発しようともしなかった身とは思えぬ執拗さだ。ゲオルグは眉を顰めた。
「今まで誰にも稽古をつけて貰えなかった。でも、教えて貰えば強くなれる。ぼくに、戦い方を教えてください」
「強くなりたいのか。なってどうする」
「あいつらを殺す」
押し殺した一言。やはり、と目を伏せて、ゲオルグは残りの肉を飲み干した。
「仇討ちのための剣は教えられない」
「どうして?」
腰を浮かせた拍子に、脇に置かれた杯が倒れて、水と干し肉が地面に零れ出た。そのまま間近まで這い寄った少年は、熱の昇った瞳でゲオルグを睨み付けた。
「あいつらは、村を───」
「ああ。おまえがそうしたいと思う気持ち、まるで分からぬ訳じゃない。それでも駄目だ。復讐のために振るう剣は、決しておまえのためにならない」
意味を量ろうとしてか、視線を彷徨わせる少年の頭に軽く手を乗せ、言い聞かせるように覗き込む。
「分からないだろうな……今はとても。だがな、おれはおまえよりも長く世の中ってものを見てきた。その上で、自分なりの価値観というものを築いてきたんだ。復讐ってやつは、そう単純なものじゃない。剣の腕を磨いて、逃げた連中を追う? 相手は騎士だぞ、力量が劣れば返り討ちだ」
「絶対に負けないだけ強くなる」
「……奴らにも親兄弟、妻や子供がいるかもしれない。今度はおまえが、その人間にとっての「仇」になるんだぞ」
少年は唇を噛んで俯いた。細い肩を震わせ、次いで絞るように吐き捨てた。
「だったら、分からないように殺す」
刹那、はっとゲオルグは身を退いた。
淡い月明かりの下でも分かった。小柄な体躯の輪郭が仄かに紅く光っている。風もないのに柔らかな髪が揺れ、幾筋かがゆるゆると宙に舞い始めていた。
そして何より、少年の瞳───聡明そうな琥珀玉の中に、滾る情念が煮えている。なまじ端正で涼やかな面差しであるだけに、その凄まじき憎悪の炎は異質きわまりなく、さしものゲオルグをも怯ませた。
「殺して、燃やす」
何かに引かれるように右手を掲げる少年。幼さを残す声には、しわがれた怨嗟が渦巻いていた。
「ぼくにはその力がある。死体がなければ、誰にも気付かれない」
そういう問題じゃないと口を挟む隙も与えず、絶叫が迸る。
「最初は腕、それから足! 簡単には楽にさせない、苦しみ抜いて死ねばいい!」
村の惨状がゲオルグの脳裏に過った。中には、手足が主と遠く離れた亡骸もあった───
「……マチルダの王も殺す」
低い、篭った呻き。
「王だけは、生きたまま燃やしてやる! 王も、王の家族もみんな! 何があっても、何年かかっても、マチルダ王の血を根絶やしにしてやる……!」
「カミュー!」
狂乱に憑かれたように叫び続ける少年の腕を掴み、一気に引き寄せた。火魔法の暴発を憂慮するいとまもなかった。
胸の中にしっかと抱き込み、病的な呼吸を繰り返しす背を撫で擦る。恐ろしいほど高まった体温、細い身体は瘧のように震えていた。
「殺してやる。ぼくが、ぜんぶ殺して、仇を───」
「分かった、落ち着け、……分かったから」
これほど興奮して喚き立てながら、少年は涙を流さない。それはもう枯れ果ててしまったのかもしれなかった。発作的な爆発が鎮まりゆく間、洩れるのはただ、乾いた喘ぎのみ。
「剣を、教えて」
胸元で響く弱い声に、ゲオルグは瞑目した。
拒むのは容易い。何処か平和な地まで連れ出して、そこで別れてしまえば、奇妙な縁は絶ち切れる。
───だが。
ここで手を離せば、少年は闇に呑まれる。今でさえ、既に踏み込み掛けているのだ。このまま世に放ったが最後、向かう先はひとつしかない。
「お願い、おじさん……」
「……ゲオルグ、だ」
縋り付く子供の熱。こんな状態でなければ、胸に埋まる温みを「愛しさ」と言うのかもしれない。
不意に、少年の頭が傾いだ。はっとするよりも早く、強張った体躯が弛緩する。抱き直してみると、少年は意識を途絶えさせていた。抱えた腕に伝わる熱は尋常を逸していて、終に体力的に危険なところまできたのだと知れた。
───どうすれば。
歯噛みしそうになったとき、彼方に軽やかな蹄音が聞こえた。闇中に目を凝らせば、見慣れぬ生き物が接近してくる。
魔物か、と少年を横たえて剣の柄に手を掛けたが、すぐに力を抜いた。あれはグラスランド産の馬、カラヤと呼ばれる部族が使う独自の騎獣と分かったからだ。
かぽかぽと近付いてきた二頭のうち、片方の馬上から松明を掲げた男が呼んだ。
「おい、そこの。どうした、火も焚かねえで……迷子かい」
気安げな、おおらかな調子である。けれど相手には油断がない。やや後方に控えた一頭の上では、男が半月刀の柄を握っていた。
「カラヤの戦士と見受けるが」
如何にも、と男は頷いて首を傾げる。
「そっちは?」
「ゲオルグ・プライム。旅の者だが、連れが倒れて難儀している」
「……さてなあ。何処かで聞いた名前のような、そうでないような……」
言いながら、男はひょいと馬を下りた。ゲオルグを、そして横たわる少年を交互に松明で映した後、身を屈めて少年の喉首に触れる。たちまち顔が険しくなった。
「えらい熱だ」
「もう幾日もまともに食っていないんだ。村落に行き当たらず、休ませられなかった」
ふん、と鼻を鳴らして男は腕を組む。
「妙な取り合わせだが……この坊主、かどわかしてきたんじゃないだろうな」
「そんな悪党面に見えるか?」
むっつり言うと、男は笑い出した。背後を振り返り、連れを呼ぶ。
「ビッチャム、水を寄越せ。でもって、先に戻って伝えとけ。客二人、坊主は病気だ。何ぞ食い易そうなものを用意しておくように、ってな」
「はい、族長」
短く返して、ビッチャムと呼ばれた男は水筒を投げ遣るや否や、しなやかな獣に鞭を入れて駆け去って行った。
一先ず安堵の息をついて、ゲオルグは受け取った水を少年の口元に流し込んだ。
「助かった。カラヤの族長か、恩にきる」
まあな、と男は含み笑う。
「ちょいと夜駆けと洒落込んだつもりが、遠出が過ぎたか、とんだ土産を拾ったな。いったい何だ、この熱は?」
そこでゲオルグは息を詰めた。
「村に、水か土の魔法の遣い手は居るか? この子は火の紋章持ちだ。まだ制御を学んでいない。心根の強さひとつで今まで暴発を抑えてきたが、これほど弱っては万が一ということもある。封印魔法がなければ、この子を村には入れられない」
カラヤ族長は瞬き、少しして合点がいったふうに頷いた。
「おいおい、危ねえなあ……。そういう大事なことは会ったと同時に言って欲しかったぜ。まあ良い、カラヤの民は攻撃魔法なんぞ恐れない。が……、これも精霊の導き、ってやつだな。魔力の高い爺さんが水の紋章を宿している。呼んでやるさ」
「ありがたい」
天の助けとはこのことだ。ゲオルグは、族長の手を借りて少年を馬上へ抱え上げた。そうする間も、鋭いカラヤ戦士の眼差しは少年に注がれたままだった。
「どうやら相当な訳有り、……らしいな」
疲れ切った声でゲオルグは答える。
「この子の村が皆殺しに遭った」
すっと表情を硬くした男が、何事か思案するように目を細め、最後に、馬の首にぐったりと伏せた少年の、汗で濡れた髪を撫でながら小さく呟いた。
「……えらく可愛い坊主じゃねえか。悪い夢、見てなきゃ良いが」
いいや、と稀代の剣豪は後にしてきた北の地を見遣った。
───無理だろう。
カミューは今、悪夢そのものの上に生をとどめているのだから。