昼過ぎから降り出した雨が、あたりを鈍色に揺らめかしている。
ふと、執務椅子を回して窓の外を見遣ったカミューは、物憂げな吐息をひとつ零して立ち上がった。
気付いた副長が即座にクロゼットから防水コートを取り上げ、丁重に捧げ持つ。忠実なる部下の面差しに痛みを認めたカミューは、静かなる笑みで男の気遣いを慰労してからゆっくりと歩き出した。
日頃から静寂に護られた騎士の城。けれど今日は、哀惜の沈黙が舞い降りているかのようだ。
城の外れ、普段は近寄るものもない東棟の最裏手に近づくにつれて、すれ違う騎士らの悲嘆が顕著となる。その多くは青騎士であったが、中には自団の騎士も在った。
つとめを怠っていると錯誤されては、そう考えたのか、赤騎士らは突然行き合った騎士団長に狼狽えて礼を払う。が、それらにもカミューは穏やかな笑みを返すにとどめた。
戸外へと続く最後の扉に辿り着いたところで副長の心遣いを身に纏う。
張り番騎士が紅く染まった瞳を伏せながら開け放った重い扉の向こう、雨に霞む視界の先に立ち尽くす大柄な影。
握り締めた愛剣を鞘に納めもせず、針のように降り注ぐ雫に身を曝していた男が、近寄るカミューの気配に気付くなり僅かに目を細めた。
青騎士団・第一隊長マイクロトフ───部下を斬った男の表情は、けぶる雨に歪められて判別することが出来なかった。
ここ、マチルダ領の法は『礼』と『義』を信条としている。
それは周辺騎士領主らの手で騎士団が築かれ、近隣の村々を統合して騎士団領を呼称するようになった今も貫かれている民の訓戒だ。歳月を経て若干の修正は入ったが、理念や価値観に大きな差異はない。
この法には武人が統治者であるという理由からか、殺人に関して殊に詳細なる記述があった。武力を持った者が悪戯に命を摘み取ることがないようにと配慮された結果なのであろう。
刑罰の比重は罪状等によって細かく区分されているが、ひとつだけ、理由の如何に関わらず重罪と認識される罪があった。
礼節を重んじる民にとって尊属殺人は非道の極み、許し難き大罪なのだ。血が濃い相手への殺人であるほど罪は重く、中でも対象が親である場合には殆どが最低でも終生牢に繋がれるという贖罪が待っている。
更に、領内の民の指針となるべき騎士たちには騎士団独自の訓戒として即刻死罪がさだめられていた。
長く抵触する罪人が生じなかったこともあり、忘れられた条項でしかなかったこの法を久々に行使せねばならなかったマチルダ騎士団。
罪人として刑の執行を受けたのは、マイクロトフの与る部隊に所属する若い青騎士であった。
「……おれは無力だった」
ポツリと呟いたマイクロトフを見詰めながらカミューは静かに首を振る。
「それを言うなら、わたしや青騎士団長殿も同じだよ」
さだめられた訓戒に修正を入れるには時間が掛かる。歴代の騎士団長は誠実にこれを果たしてきたけれど、自然、優先順位は決まるものだ。
カミューとてその条項は承知していたけれど、いざ行使される事態になるまで切迫を感じたことはなかった。マイクロトフが無力を嘆くなら、それは自身にも同様である。
青騎士が捕縛されたのは先週のことだ。
亡くなった実父の葬儀を終えた足で若者は騎士団法議会に出頭し、父殺しを告白した。
驚いたのは法議会の文官たちである。騎士団で尊属殺人が起きた例は少なく、慌てて条項を確認した上で若者が死罪に相当することを把握した。
報告を受けた白騎士団長ゴルドーは即座に刑の執行を青騎士団長に命じたが、偶然居合わせたカミューの取り成しもあって、期限付きではあるが猶予を与えた。
自団長から次第を伝えられたマイクロトフの衝撃は大きかった。
部隊長として、問題の青騎士の性情は十分に理解しているつもりだ。故なく親を殺めるような男ではない、そう信じて青騎士から事情を聞き出そうと試みた。
しかし、若者は殺人の事実のみを繰り返すばかりで、刑を逃れようという気配は微塵もない。ただ詫び、己の不徳を恥じるばかりで埒があかなかった。
青騎士団の上層部が交代で説得に苦慮している頃、カミューは赤騎士団の諜報能力を駆使して大まかな事情を繋ぎ合わせた。
青騎士の父は長く病みついていた。治癒の見込みのない重病で、治療に要する金銭は無論のこと、家族の精神的な重圧は計り知れないものであったと。
看病に心身を削る母や妹が交互に倒れ、それを目の当りにする父の嘆きは大きく、幾度となく安息を得たいと口にしていたのだと。
それでも苦闘は続き、病魔が最後の嵐を全身に吹き荒れさせているところへ息子は見舞いに訪れたのだ。痩せさらばえた実父の七転八倒の苦悶を目にした青騎士が剣を握るまでの葛藤を、ただ条項の一節のみで裁くことが出来ようか。
カミューが伝えた事情に基づき、青騎士団は必死の助命を開始した。
しかし、例外を認めては訓戒が意味を為さない。まして事が起きてしまった今、直ちに条項を削除することは出来ないというのが法議会の意見だった。それは即ち、騎士を特別扱いしていると民に見做されてしまうからだ。
青騎士団要人たちは、カミューをも交えて抜道を探そうと思案した。
やがて彼らは苦肉の策を捻り出した。件の青騎士を、不始末を理由に騎士団から除名するというものである。
除名の日時を罪の告白よりも前にすれば、彼は一般市民として法と向き合うことになる。問答無用で死罪が適用される騎士として裁かれなければ、彼には情状酌量の余地があるのだ。
青騎士が冷酷な殺人者と捉えられるとは考えにくい。苦しむ父を、ただ楽にしてやりたかったのだという心情を汲まれ、慈悲ある処罰が下る筈だ。たとえ過去の判例等に基づいて終身刑が課せられようと、恩赦にて放免される可能性が残されるのである。
公文書を操作する罪は認めていても青騎士団要人らは躊躇わなかった。白騎士団長ゴルドーも騎士から大罪人を出すことは喜ばしくなかったと見えて、一同を代表したカミューの嘆願を珍しくすんなりと受け入れた。
漸く部下の救命に道が出来たことに安堵しながら牢を訪ねたマイクロトフであったが、青騎士は申し出に首を振り、訓戒通りの死を望んだのである。
何故だと語気も荒く詰め寄るマイクロトフに、彼は静かに涙した。
───皆々様のご助力は心より感謝しております。けれど、画策を量ってまで生き長らえて何になりましょう。
わたしは父を殺しました。けれど、皆様が思われているように父の苦しみを終わらせてやりたいばかりではなかったのです。
騎士団でのつとめを果たし、憩うために家に戻っても、そこは第二の戦場でした。眠る暇もなく憔悴してゆく母や妹を見るにつけ、いつまでこんな日が続くのだろうと途方に暮れていたのです。
あの日、確かに父は殺してくれとわたしに縋りました。恥ずべきことです、わたしは父がそう望んでくれたことに安堵したのです。
たとえわたしは死罪になろうとも、母と妹はゆっくり眠ることが出来るようになる。父も苦しみから解放される……だからわたしは迷いませんでした。
けれど、迷わなかった心こそが大罪に値するような気が致します。ですから、わたしは訓戒に従いたいのです。
ご迷惑をお掛けしたこと、心からお詫び致します。
こんなわたしを救おうとしてくださったこと、死すとも忘れません。
青騎士の決意は固く、マイクロトフのみならず、説得に訪れる青騎士団の面々の如何なるも撥ね除けた。
そうしているうちに期が満ちて、刑の執行と相成ったのだった。
マイクロトフは刑の施行を自ら請け負った。
これは、投獄中に青騎士が張り番の騎士に『出来ることなら隊長に斬っていただきたいものだ』と洩らしたと耳にしたからである。その真意を推し量るべくもなかったが、当人の希望に極力応じたいと考えたのだった。
刑場に、既に遺体はない。
死罪に処された騎士は騎士団の保有する墓地に埋葬されることも許されない。
彼は今頃、他の部隊騎士らの手によって自宅に戻されている筈である。部下には二度目の葬儀を行わねばならない遺族の手助けをするようにと申しつけてあるが、慰めにもなるまい。
出来る事があった筈なのだ───そうまで若者が追い詰められる前に、事情を察してさえいれば。
部下の私生活に関与する慣しはないけれど、何らかの援助を考慮することも出来たかもしれないのに。
何も知らぬまま部下を破滅に走らせてしまった、その悔恨がマイクロトフを責め続けているのである。
やや強まった雨足に、天を仰いで瞑目するマイクロトフの頬は微かに震えていた。
「……涙雨、かもしれないな……何もしてやれなかったおれを責めているかのようだ」
苦しげに洩れた独言の響きにカミューは目を伏せる。
「そうかい? わたしは少し手前勝手な解釈をしているのだけれどね」
怪訝そうに向き直る男の手に在る大剣に視線を当てて静かに言い募った。
「……洗い流そうとしてくれている。ダンスニーについた血も、我らが負う自責の念も。彼は終焉のかたちを自ら選んだ。もし彼が涙しているのなら、それは遺された家族への想いゆえではないだろうか」
虚を衝かれたように瞬いたマイクロトフは、部下を斬った剣を目前に掲げた。剣肌には哀惜の血痕は既になく、ただいつものように厳粛な輝きが水滴を弾くばかりである。
刹那、在りし日の部下の笑顔を過らせて、彼はきつく唇を噛んだ。
「カミュー……あいつは最後に感謝を口にしていた。おれに斬って欲しいと望んだのは、彼の信頼だったのだと思って良いのだろうか?」
「少なくとも、わたしはそう信じるよ」
短く応えたカミューは剣を握る男の手にそっと手を重ねた。
「分かったら、さっさとつとめに戻れ。立ち止まる暇があるなら、己に何が出来るかを模索するんだ。第二の『彼』を出さぬためにも……わたしも共に、誠心誠意つとめよう」
慰撫するように柔らかな笑みを浮かべると、彼はもう片手でカミューの手を包み込んだ。
それから剣を納めて刑場に一礼する。その顔には悲嘆を上回る決意があった。
屋内へと歩き出した二人を見送るかのように、一際強くなった雨が地を叩く。それは踏み止まらず先を望めと励ますかの如き力強い響きであった。