このところ続いた平穏にジョウストン新・都市同盟軍の兵士たちは退屈を持て余していた。
早々と起き出したところで戦闘の声が掛かる訳でもない。けれど平時にこそ慣れないのが戦士たる所以か、今日も今日とて早朝からレストランに足を踏み入れてしまう、くされ縁の傭兵たちである。
この時間帯に席を埋めているのは既に馴染みの連中ばかりだ。代わり映えのない顔ぶれを見遣った後、つまらなそうに首を振ったビクトールだが、そこでふと瞬いた。
テラスの片隅に座る優美な人物。
相棒フリックの脇腹を突いたところ、同意見であったらしい。店の従業員に注文を済ませ、二人は早速テーブルを目指すことにした。
「よお、カミュー。おまえが朝のレストランに居るなんざ、珍しいじゃねえか」
「天気が荒れなきゃいいけれどな」
軽口を叩きながら椅子を引いたものの、ゆるりと上がった顔に漂う陰欝に気付くなり顔を見合わせる。
赤騎士団長カミューは端正にして柔和な青年だ。日頃から穏やかな笑みを絶やさず、戦乱に荒みがちの仲間の心を柔らげる清涼剤の役割を果たしている。
だが今朝は、その仄白い顔いっぱいに疲労が浮かんでいた。彼の朝寝の慣習は同盟軍内でも知られているが、不慣れな早起きに成功したがゆえの憔悴にしては度が過ぎているようだった。
「ど、……どうしたよ。朝っぱらから辛気臭ェ顔して……」
唸ったビクトールが視線を落としたテーブルには紅茶のカップと小さなプリンが一つ、ちんまりと置かれている。食欲不振といった現象にはあまり縁のない男のこと、洩れた疑問は傍らのフリックを嘆息させた。
「プリン一つじゃ足らねーだろうが。もしかして、金に困ってるのか?」
儚げに瞑目したカミューがひっそりと返す。
「いえ、朝食代に困窮して節約している訳では……。喉を通りそうになかったので、取り敢えず紅茶だけ頼んだのです。でも……ハイ・ヨー殿が、『食べなきゃ駄目よー』と仰って……」
「食欲がないのか」
相棒よりも多少は気の回るフリックが、喉を通り易い嗜好品を差し入れた料理人の気遣いを汲み取って眉を顰た。
赤騎士団長のなめらかな頬には窶れのようなものが浮かび、目許は落ち窪んで薄い隈に縁取られている。普段の凛然とした青年を知る人間なら、何とかしてやりたいと思わずにはいられない姿なのだ。
たちまち善意を掻き立てられた傭兵たちは左右から身を乗り出した。
「無理してでも食わないと体力が持たないぞ。スープとか雑炊とか、他にも食えそうなものはないのか?」
「ホウアンのところへ行け、食が落ちるのは病の前触れかもしれねえからよ」
「いいえ、わたしは……」
弱く遮ろうとする青年をよそに、更に二人は考え込む。
「どうしたんだろうな。このところ戦闘もなかったし、疲れが溜まった訳でもなさそうなのに……」
「マイクロトフの奴に付き合って無茶な訓練が過ぎたんじゃねえか?」
他に思い当たる節があるでなし、何気なく赤騎士団長の相棒の名を口にしたビクトールだったのだが。
刹那、カミューは痛ましく顔を歪めて嗚咽を噛んだ。堪らずといった様子で震え出す肩に仰天した傭兵たちは椅子から腰を浮かせた。
「マイクロトフが原因なのか?」
「あいつと何かあったのか?」
追求は、だがカミューにとって耐え難い苦痛であったらしい。口元を押さえ、ますます悄然と項垂れていく姿に困惑が深まっていく。
元マチルダの騎士団長らは友情を超越した深い関係に在る。表立って明かされた訳ではないが、見詰める目と目、交わす微笑みを見ていれば親密は瞭然だ。
ただ、たとえ道徳的にはどうあれ、騎士団長らの人間的魅力に何ら損なわれるものはない。斯くて二人の仲は一部の同盟軍兵士の間では暗黙の了解となっている。くされ縁の傭兵たちも、当然のように理解者組に位置する人間であった。
仲違い、心変わり、あるいは俗なところで『最近太ったな』などと揶揄されての絶食か。
およそ一般的な恋人同士が陥りそうな事態を想定して青年の失意の理由を探ろうと試みた男たちであったが、詳細は当事者から明かされることとなった。
「カミュー!」
店内とテラスを分ける扉の前に立った青騎士団長。
傭兵たちの痛心をよそに明るい声音で叫ぶなり、ズンズンと大股でテーブルに近づいてくる。呼び声に身を硬くしたカミューに気付いたフリックが庇おうとばかりに向き直った途端。
マイクロトフは左手をしっかと胸に当てがい、指先までピンと伸ばした右手を高々と空に掲げた。
「おお、カミュー……我が最高の友にして最愛なる心の伴侶よ。こんなところに居たのか、探したぞ」
芝居がかった口調で言うなり、その場でくるりと一回転する。そのままカミューの椅子の横に片膝を折るに至って、傭兵たちはおろか、テラスに陣取っていた人間すべてが固まった。
周囲の凍りつく眼差しも何のその、思わずといった様子で椅子ごと退ったカミューの手を取り、青騎士団長は唇を寄せた。
「空は蒼く遠く澄み渡り、鳥たちが可憐な唄を囀っている。清々しい朝だな、カミュー。だが、おれの心はほんの少しだけ陰っているぞ。一日の始まりにおまえの安らいだ寝顔を見る、それは何にもまして満ち足りた喜びであるというのに、今朝は果たせなかったではないか。黙ってベッドを抜け出すなど……恥じらうおまえも愛おしいが、独り残された心地は堪らなく切なく、狂おしかった……」
ぱっくりと口を開いて注目していたテラスの一同のうち、最初に我を取り戻したのは不屈の男・ビクトールだった。
「マイクロトフ、おまえ……どうかしたのか?」
「どうか……、とはどういう意味でしょうか、我が友ビクトール殿?」
相変わらず赤騎士団長の手を握り締めたまま、にっこりとマイクロトフは問い返す。その間にもカミューの戦慄きは募り、顔色は失せていくばかりである。
「いや、何か変なものを食ったとか……」
付け加えられた小声に青騎士団長は朗らかに笑い出した。
「食事はこれからです、友よ。どうぞ御一緒させてください。心許した友たちと同じテーブルで取る朝食……これもまた素晴らしき一日の始まり。輝ける朝を迎えた喜びを、共に分かち合おうではありませんか」
漸く手を離して立ち上がると、空いた椅子に腰を落とす。
その座り方もマイクロトフらしくない、妙に勿体振ったものだった。騎士服の懐から布を出して軽く座面を払い清め、それからゆったりと座して足を組む。椅子からずり落ち掛けて見えるほど寛ぎ切った姿勢は、いつも直角に背を伸ばして座る男とは別人のようだ。
次に彼は、他の客の料理を運んできた店員を肩越しに見遣り、片手を挙げてパチリと指を鳴らした。
「ああ、君。注文を受けて貰いたいのだが、構わないだろうか?」
「……『君』?」
唖然としたままフリックが呟く。呼ばれた店員は一瞬硬直して立ち竦んだものの、そこは職業意識が勝ったのか、慌てて寄ってきた。
「お、おはようございます、マイクロトフさん。何になさいますか?」
ふむ、と胸に手を当てて考え込んだ男が目を閉じて譫言のように唱え始める。
「……今朝は『甘辛煮』の気分だな。昨夜の甘い余韻、そして開いた瞳に想い人を映すことが叶わなかった仄かな痛み……うむ、甘味と辛味の混濁した心地、正に『甘辛煮』に相応しき朝だ」
そこで彼は真向から傭兵たちを見据えた。
「そうは思われませんか、友たちよ?」
「あ、ああ……」
「まあ……そう、そんなものかもな」
壊れたように同意を示す男たちから店員に視線を戻し、マイクロトフは大きく頷いた。
「おお、何たる迂闊! 野菜も忘れずに取らねばいかん。心優しきカミューは、日頃からおれの健康をたいそう気遣ってくれているのだ。そんな友を案じさせるのは騎士の恥───という訳で、グリーンサラダも付けて欲しい。ライスは大盛、それから先に茶を頼む」
「お、お茶、先ずはお茶ですね……」
強張った笑顔を浮かべようと努める店員は、更なる注文に脂汗を滲ませた。
「そう、バラの花が薫る茶が好ましい。一日の幕開けには心を華やぎで満たす芳香を欠かせない。君、どうかカップは四つ持ってきてくれたまえ」
そこで弱々しくカミューが呟いた。
「……わたしは自分の分があるから……」
するとマイクロトフは立てた人差し指を顔の前に揺らして ちちち、と舌を鳴らした。
「ノン、ノン、何を言うのだ。遠慮など無用だぞ、カミュー。芳しい茶の風雅を共に楽しむ……これぞ、仲間との至高のひとときではないか」
傭兵たちは、赤騎士団長の憔悴の理由を目の当りにして震えを止められずにいた。
見たくないのに目を逸らせない、聞きたくないのに耳に飛び込んでくる。素朴かつ生真面目な筈の青騎士団長には到底似合わぬ言動の数々───これには嫌というほど心当たりがあった。
店員が転げるように去った後、再び寛ぎ姿勢で座り直したマイクロトフの横顔を窺いつつ、恐々とフリックが問う。
「なあ、マイクロトフ……ヴァンサンやシモーヌと親しくなったのか?」
すると彼は大らかに笑った。
「ヴァンサン・ド・ブール殿、シモーヌ・ベルドリッチ殿。どちらも同じ信念の許、同盟軍に身を投じた友ではありませんか。この城に在る者すべてが心を通わせた大切な人々、何故に突然そのようなことを?」
「いや……何と言うか、その……」
続けられず口籠るうちにカミューが限界を極めてしまったらしい。わなわなとテーブルの上に両手を震わせ、押し殺すように切り出した。
「昨日、マイクロトフはウィン殿に随従して近隣の査察に赴きました。件の御二方も同行なさったらしいのですが……その所為なのか、戻ってからずっとこの調子なのです」
成程、と傭兵たちは同情混じりに頷いていた。
怖いもの知らずの彼らでさえ、今の青騎士団長には怯懦を覚える。よりによって何故彼が正反対の極みとも言える人物らの言動を模倣する気になったのかは不明だが、取り敢えず似合っていないのは確かだ。カミューが困惑を通り越して、果てそうになっているのも已む無しといった事態である。
「わたしには、もう……どう対処すれば良いのか……」
搾り出すように続けた青年を驚いたように見遣ったマイクロトフが、唐突に立ち上がって両手で頭を抱え込んだ。次に音がしそうな勢いで首を振り、最後には膝から崩れ落ちて床に拳を打ち付ける。
「ああ、カミュー! いったいどうしたというのだ、何がおまえを悩ませている? そんな顔をしないでくれ! 打ち沈んだおまえの面差しは胸を裂く氷の刃……そんなおまえを見るだけで、心は割れ鐘の如く悲しみの叫びを打ち鳴らす。どうか笑ってくれ───おれのために。おまえの微笑みは空を行く涼やかな風、清き眼差しは道を照らす一条の光。愛しき笑顔を護るため、身のうちを流れる血の最後の一滴をも惜しまない。カミュー……我が命、我が魂、我が美しき永遠の天使よ」
テラス中に響き渡った言上に悶絶したのは赤騎士団長ばかりではなかった。
周囲の客は無論のこと、バラ風味の紅茶を運んできた店員も──最初から危なっかしい足取りではあったが──よろめき、カップを取り落とした。砕けた陶器の破裂音を上回る絶叫が傭兵たちから迸る。
「ぎゃああああ! 頼む、もう勘弁してくれえ!」
「マイクロトフ! カミューは声も出なさそうだから代わりに言うが、いつものおまえの方がいいぞ、絶対にその方がおまえらしいぞ!」
しかしマイクロトフは踞ったまま怪訝そうに首を傾げた。
「何を言っておられるのです、友よ? おれの何がいつもと違うと? 胸に在るのは騎士の誇りと正義、そしてカミューへの誠の想い……何ら変わりはありません」
断固として言い張る男から苦しげに顔を背けたカミューは、きつく目を閉じ、陸に上げられた魚の様相ながらも辛うじて言った。
「マイクロトフ……確かにどんなおまえであっても、おまえであることには変わりない。でも、……でも───」
そこで終に耐え兼ねたのか、睫毛に苦渋の涙が滲んだ。
「馴染めない……一晩経っても、どうしても……」
今にも卒倒しそうな顔色で呻いた青年の両脇に取り縋った傭兵たちが声高に喚く。
「分かるぞ、カミュー! 苦しいほど良く分かる!」
「何でよりによって、あいつらを見倣うことにしたんだ!」
「す、す、すみません、お茶、お茶の代わり、すぐにお持ちしますから!」
もはやどうにもならない阿鼻叫喚の図。
そんな彼らを救ったのは新・同盟軍の若き指導者、天魁星の輝きを持つ少年の穏やかな声であった。
「あのう……皆さん、落ち着いてください。多分、解決出来ると思いますから……」
盟主ウィンの証言は次の通りだった。
昨日午後、査察に出掛けた折、一行は複数のむささびに包囲された。然して攻撃力の高い魔物ではないが、何しろ数が多かった。そこで特殊な攻撃手法が用いられたのだ。
協力攻撃と呼ばれる連携技の中には、一度の攻撃で複数の敵にダメージを与えられるものがある。少年の呼び掛けに応じたヴァンサンとシモーヌが、何処から出すのかも不明な大量のバラの花弁を飛び散らせて敵を一掃したのだが───
「何だかマイクロトフさんが前に出過ぎているような気はしたんですよね……」
どうやら血気に逸った青騎士団長は、取り零しがあった場合に備えてか、所定の位置よりも魔物に接近していたらしい。結果、彼はむささびと一緒になってバラの花弁に埋もれてしまったのだ。
特に外傷を受けた訳ではなかったし、同行の面子──盟主ウィンはともかく──とは、あまり親しく会話する関係と言えない。それが禍したようで、誰もその時点ではマイクロトフの変貌に気付かなかったのだ。
『やれやれ良かった』と帰還したものの、朝になってウィンは異変を知らされた。
報をもたらしたのは、青騎士団恒例の早朝訓練に臨んだ悲運な騎士たちであった。彼らの驚愕ぶりときたら、気の毒なほどだった───そうウィンは沈痛な口調で語った。
日頃無骨な騎士団長の突然の変質。
陶酔に浸った珍妙な言動には、さぞ肝が冷えたことだろう。自身らも舐めた恐怖を一足早く味わってしまった青騎士団員に憐憫を覚えずにはいられない一同であった。
「協力攻撃で味方が影響を受けるのは珍しいらしいんですけど……何と言ってもマイクロトフさんとあの二人は両極みたいなものでしょう? 毒気に当てられちゃったんですね、きっと」
くす、と笑う若き指導者。
味方の攻撃を毒気呼ばわりか、そう突っ込みたい心境に駆られた一同だったが、現在のマイクロトフを前に、口に出せる者は皆無だった。
「……と言う訳で、今のマイクロトフさんはステータス異常みたいなものなんです。怖がらなくても大丈夫ですよ」
ウィンはにこやかに締め括った。
異変の内訳を知って胸を撫で下ろす人々の輪の中、唯一、当のマイクロトフだけが立ち尽くしたまま釈然としない顔つきで眉を寄せている。
「我が剣の主人でおられるウィン殿。おれは普段通り振舞っているつもりだったのですが……皆を怯えさせていたと仰せですか? おお、何と忌まわしき運命、呪われた我が身よ。おれの存在が同盟軍に仇為すとは……何よりカミューを苦しめるこの身など、いっそ葬って───」
「はい、『大いなる恵み』」
黙っていたら延々と続きそうな述懐を遮ろうとしたのか、少年はさっさと魔法詠唱を終えていた。
大いなる癒しの力がマイクロトフを包み込む。温かな光が緩やかに引いた後、彼は呆然とした口調でポツと続けた。
「……軽々しく自らを葬るなど、一団を与る身に許される行為ではない」
それから夢から覚めたような面持ちで、腰の引けている仲間たちを見回す。
「心ならずも、皆様方に多大な御不快を与えてしまったようです。申し訳ない」
───事故とは言え、突き詰めて言えばマイクロトフは仲間の言動そのままに振舞っただけである。
にも拘らず、これまた『不快』呼ばわりかと喉元まで出掛かった一同だが、まったくもってその通りなので、やはり何も言えずに微笑むに留まった。
「マイクロトフ、元に戻ってくれたのかい……?」
恐る恐る乗り出したカミューに照れたような笑みが頷く。
「ああ。悪い夢でも見ていたような気分だ。普段よりも多く言葉を発したためか、とても口が疲れているが……心配させてすまなかった、もう大丈夫だぞ」
「マイクロトフ!」
安堵が勝ったのか、衆目も忘れて駆け寄った青年をひしと抱き締め、マイクロトフは幾度も詫びた。
「怖い思いをさせてしまったな……おまえを苦しませるなど未熟なばかりで恥ずかしい。許してくれるか、カミュー?」
「勿論だとも。馴染めるおまえが戻ってきてくれて、わたしは嬉しい」
「もう二度とこんな思いはさせない。我が名と剣、そして誇りに懸けて誓う」
「マイクロトフ……」
ここは本来、大団円に微笑み合う場面であろう。
だが、相変わらず仲間たちは引き攣った表情で騎士団長らを見詰め続けていた。
確かに、煌々しい言葉は出なくなったような気がする。
だが今、目の前で繰り広げられている光景や会話に先程とどれだけの違いがあるだろうか。これまで気付かずにいた事実に気付いてしまった一同の心中は複雑極まりなかった。
しかしそこで、半ば魂の抜け掛けたような傭兵たちを見上げながらウィンが小声で囁いた。
「ぼくには良く分からないけれど……恋って、酔っ払ったり何かに取り憑かれた状態に似たものなんですね」
───そうかもしれない。
少なくとも、そう思えば笑って往なせないこともなかろう。
奇しくも同じ結論に達したテラス内一同は、固く抱き合う二人の騎士団長を囲んで、いつしか祝福の拍手を贈っていた。
いずれデュナンの覇権を勝ち取るジョウストン新・都市同盟軍は、何処までも果てしなく人の好い連中で構成されていたようである。