After 10 years


 遠い風が頬を撫でて通り過ぎていった。
 この季節、北の地には西からの風が吹く。煽られた砂塵が整然とした街並みを僅かに浸食する時期でもあった。
 眼下の風景は常と変わらず厳かなものであるが、乾いた風に抱かれて少しだけ侘しげに見える。それが己の心情のもたらす差異なのだと気づいたのはいつのことだっただろう。
 城に近い見晴らし台から故郷の街を見下ろす男の眼差しには、たったひとつの面影が密やかに揺れていた。一瞬たりとも忘れ得ぬ、生涯唯一の存在が。
 この地を束ねる騎士団の最高指導者として人々の絶大なる信頼と尊崇を一身に受けながら、歳を重ねるごとに次第に周囲との交情から距離を置くようになった男。今なお誇り在るつとめに身を捧げ、その誠実を讃えられながら孤独に身を委ねようとする騎士団長。
 穏やかな夜の瞳がゆっくりと手にした品を一瞥する。目の醒めるような艶やかな真紅の布に丁寧に包まれたそれを愛しげに撫で、やがて僅かに布をずらす。現れた剣の柄に唇を寄せ、徐に瞑目した。
「何処にいる、カミュー……?」
 独言のように呟けど、いらえがあろう筈もなく、ただ静かに過ぎ行く風が囁きの如く耳を掠めるのみ。
 ここからの眺めをこよなく愛していた人。彼の想いを手繰るために同じ場所へ足を運ぶようになった年月は終に両手を越えた。何程心で呼び掛けようと、其処にはただ彼の好んだ風が吹き抜けるばかりだった。

 

 

 今からおよそ十年前になる。
 激烈だった大戦の傷がようやく癒え始めたデュナンの地を、今度は西から上がった戦火が脅かした。狭い土地に並び立つ多くの国家や民族が繰り広げてきた紛争は、容易く平穏をもたらさなかったのである。
 過去に幾度となくジョウストン都市同盟領より侵攻を受けてきた西方グラスランド。数々の部族によって成り立つ彼の地の民が他国との戦に疲弊した新国家に攻め込んできたとき、生まれて間もなきデュナン新国は絶対の窮地に曝されるところであった。
 男もまた、自らが統治するマチルダ騎士団を纏め、彼の地に在る人を思って心を痛めながらデュナンの全権を与る宰相からの出陣の命を待っていた。
 けれど。
 終に命は下されなかった。
 国境を破って侵入したグラスランド部族の民はティント市軍の激烈な抵抗に遭い、目的を果たさずして草原に戻っていったのである。
 略式ながらの和睦が取り結ばれたという報のみが騎士団に届き、対グラスランド戦は呆気なく終結を迎えた。戦うことを義務づけられた身でありつつも、戦の悲惨さを誰よりも痛む男は戦火が拡大しなかったことを素直に喜び、再び平和なる国作りに尽力を惜しまなかった。
 そんな矢先のことだった。
 遥かティントの地から珍しい客が訪れた。デュナン大戦時には宿星の繋ぐ同志として共に戦った男、かつては灯竜山の盗賊として名を馳せ、今は同市の市軍長として新国家を守る闘士ギジムである。
 彼がグラスランド戦で多大なる功績を挙げたのは耳にしていた。懐かしさも手伝って国賓級の持て成しを果たそうとする男に、だがギジムはひどく言葉少なだった。
 豪放磊落だった男の豹変の理由は、やがて手渡された品によって明かされた。俯きがちに、そして幾度も躊躇しながらギジムは語ったのだ。


『知っての通り、おれはティント市軍長として連中を迎え撃った。そりゃあもう、凄まじい戦いだった。奴さんたちはおれたちが想像もしないような戦法を取りやがるし、決して楽な戦いじゃなかった。グラスランドの方から攻めてくるとは全く予想外だったしな、正に不意を突かれたってところだった。予めシュウの旦那に戦の準備を命じられてなかったら危なかったぜ』

 

 宰相がグラスランドの侵攻を予期していたという初めて聞く事実に驚き、その推察に感嘆を洩らしたのも束の間だった。ギジムは確かに不可解な疑問を投げ掛けてきたのだ。

 

『不思議じゃねえか? 正直言って、新国はグラスランドにまるで警戒を払ってなかった。日々ミューズで忙しく立ち働いてるシュウの旦那が、よくもまあ情報を入手していたもんだとグスタフも感心していたんだけどよ』

 

 そこでいっそう低くなった語調が言った。

 

『……あのとき戦ったグラスランド人が使ってた得物がどうにも気になってな、見てもらおうと思って持ってきたんだ』

 

 ───そして差し出されたのは、鞘を失い、布切れで巻かれたひとふりの剣。

 

『おまえさんなら、この意味が分かるんじゃねえかと思ったんだがよ……』

 

 

 

 そのときにはもう何も耳に入っていなかった。手にした剣に食い入るように当てられた瞳にも何も映ろうとはしなかった。
 奇しき経緯を旅して届けられたそれは、彼の人の身の一部。変わらず清廉に輝ける細身の刃は男を見詰める慕わしき眼差しに等しく、物言わぬまま静かに手の中で震えていた。
 剣が主人を違える意味───矢も盾も堪らず、狼狽する部下を振り切って久々にミューズへ駆け込んだ彼は、其処で沈痛な面持ちの宰相に迎えられた。いつかはこの日が来るだろうと覚悟していたのか、宰相は感情を交えず、事実だけを淡々と伝えた。
 グラスランドが侵攻を開始する直前に元・赤騎士団長からの書状を受けたこと。戦いを最小限に食い止めたいと切なる願いを抱え、彼の人が力を尽くしていたこと。
 最後に宰相は迷いながら付け加えた。
 彼は自らが果たした役割の一切を闇に葬ることを望んでいた、と。

 

 

 

 

 そうして男は秘められ続けた事実を手に入れた。後に残されたのは悔恨などという言葉では追いつかぬ情念である。
 ロックアックスに戻り、大切に納められていた書状を余さず引き出して、その中に彼の声を聞こうと試みた。交わした遣り取りの最後の文は、読めば込み上げる苦悶に耐えぬものだった。
 はからずも男が得た子へ贈る祝福、限りなきいたわりと慈悲に満ちた穏やかな文。どう返書したかも克明に覚えている。
 それらの合間にも彼は戦っていたのだ。自分が我がことに精一杯であったとき、彼は孤独な戦いに身を削り、それでも自分を思い遣ろうと筆を取り、そして───

 

 

 

 

 

 

「マイクロトフ様、ここにおいででしたか」
 不意に背後から声が呼ぶ。向き直ると、初老の男が息を切らせながら立っていた。傍らに気恥ずかしそうに並ぶ幼い少年を認めた刹那、唇がゆっくりと笑みを佩く。
「散歩がてらに寄ってみたのですが……御邪魔でしたでしょうか?」
「……いや」
 首を振り、そっと剣の包みを元に戻しながら視線を送ると、少年の無垢な瞳が艶やかに輝いた。
「今日は何を学んだのだ?」
 穏やかに問うと、少年は懍として答える。
「歴史と文化と……それから、作文を書きました。『将来の夢』という題です」
「ほう……」
「いや、実に見事なものでした。生憎屋敷に置いてきてしまいましたので、後でご覧になられると宜しゅうございます」
 少年の教育を任されている男は我がことのように誇らしげに語った。
「御子息は父上同様、騎士を目指されるそうで───」

 

 

 過去に幾度も訪れた耐え難き慟哭に苛まれた夜。城下の屋敷の寝室には、それを見守る乙女の絵姿が在った。
 生涯でただ一度の過ち。想い人の面影を宿した、短い間ではあったが妻と呼んだ人。ハイランド流民であった乙女は誠実で心温かな人だったが、慕った男との一夜限りの交情によって授かった命を世に送り出した後、もともとの蒲柳の質が禍して帰らぬ身となってしまったのである。
 生涯をもって為される筈だった罪業への購いは、そうして永劫に置き去りにされた。
 物心つかぬうちから母を失くした赤子と多忙を抱えながら遺されたマイクロトフを案じて、再縁の話は降るように在った。そのいずれをも拒み、人を雇い入れることによって欠落を埋めながらマイクロトフは我が子を育ててきた。
 ときに過労で倒れ掛けながら、我が身に与えられた責務だと信じて今日までやってきたのである。

 

 

「騎士に……なりたいのか?」
 はい、と答えた少年は母譲りの薄茶色の髪と温かな鳶色の瞳を持っている。光の加減では琥珀の宝玉にも見える瞳を覗くたび、切ない懐かしさを掻き立てられた。
「……そうか……」
 幼い頃より大人に囲まれていたためか、あるいは母と甘える存在がないためか。歳の割りには大人びた口調を操り、機微に聡く思い遣りに厚い我が子。そして今、その子が望んでみせた道は更にマイクロトフの感慨を揺さぶった。
「では、わたしはこれで失礼致しましょう。折角の親子水入らずの御邪魔をしてはなりませんからね」
 笑いながら去ろうとする男に丁寧に礼を払い、暫し後ろ姿を見送ったマイクロトフは静かに嘆息した。
 多忙なのは事実だ。騎士団の長としてのつとめ、デュナン新国の要人としての役割に日々追い立てられる身には屋敷に落ち着く暇もない。少年も周囲の教育係たちから諭されているのか、父が禄に顧みてくれぬことを責めはしないが、寂しく思っているのは事実だろう。
 マイクロトフはゆっくりと少年を手招いた。途端に嬉しそうに駆け寄ってくる姿には紛れもない情愛を覚えるし、この子のためなら命も惜しくないと思う。
 それでも───常に燻る痛みが胸の奥底にあった。
「考え事の邪魔になりませんか?」
 おずおずと問う息子に苦笑し、しっかりと肩を抱いて見晴らし台からの展望を見下ろす。
「あまり構ってやれず、いつもすまない」
 ポツリと洩らすと少年は驚いたように目を見張った。
「父上には大事なお役目があるから……ぼくは我慢できます」
「我慢、か」
 くすりと笑って柔らかな髪を掻き回す。その手触りは記憶の中の人とは僅かに異なり、同時にそうして比べてしまう己を嫌悪する。
「おまえが騎士になったら、騎士団長を辞することにしよう。その後は……ただ、父としておまえを見守っていこうと思う」
 瞬く少年を眺め下ろし、目を細める。
「不実な父だった分を取り返さねば、な」
 少年は暫し考え込んでいたが、そのうちに妙に大人びた仕種で首を振って溜め息をついた。この子は時たま、そうして驚くほど彼の人に似通った面を見せる。敏感に空気を察して追求を諦める態度も、思わず息を飲ませる程に慕わしき人を彷彿とさせるのだ。
 少年は父の手にしたものに目を落とした。
「その剣……鞘がないんですか?」
 どうやら目敏く剣であることを確認していたらしい。マイクロトフは弱く頷いた。
「大切な人からの預かりものなのだ。勝手に鞘を作るわけにもいかず、こうして布で包んでいる」
 父の調子に何事か察するところがあったのか、少年は微かに表情を曇らせた。
「大切な人……?」
 ああ、と今度は強く応じてマイクロトフは遠くに視線を投げた。
「誰よりも大切な人だ。なのに傷つけて……遠く隔てられてしまった。だが、信じている。いつかその人がこの剣を取りに戻る日を。その日を生涯待ち続ける」
「………………」
 長い沈黙の後、少年はひどく小さな声で訊いた。
「ぼくや……母上よりも大切な人、なの?」
 やけに幼げな口調にはっとすると、傍らの我が子は今にも泣きそうな不安げな顔で彼を見上げていた。静かに首を振って、宥めるように肩を叩く。
「比べることは出来ない。何故なら……その人はおれ自身でもあるからだ」
「…………?」
「同じ想いを分け、同じ道に価値を見て───ひとつの心を分かち合っていた。おれたちはひとつなのだ。だから、おまえを大切に思うのとは少し違う」
「……よくわかりません」
「おまえにもそういう相手が出来れば分かる。おまえと、おまえの母上が大切だ。だが、その人もおれと同じようにおまえを愛しく思ってくれている」
 でも、と少年は小首を傾げる。
「……お会いしたこともないのに」
「遠い空の下から、おまえの誕生を祝福してくれた。そして今も、常におまえを祝福し続けてくれている」
 マイクロトフは手にした包みを撫で、少し考えてから切り出した。
「……見事騎士に叙位されたら、この剣をおまえに託そう。使ってやってくれるか?」
「持ち主がいらっしゃるのでしょう?」
「錆つかせるよりも使ってもらった方がいい───あいつはそう言いそうだ」
 懐かしげに微笑む男に、少年は束の間躊躇した上でこっくりと頷いた。
「……父上の大切な人なら、ぼくにも大切な人です。受け取りに来られるまで、大事に使わせてもらいます」
「そうしてくれるか。あいつも喜ぶだろう」
 残照の中、一日を終えようとする街を見下ろしたマイクロトフは眼裏に浮かぶ白い美貌に問い掛ける。

 

 

 それでいいだろう?
 そうしてこの剣が誇りの許に振るわれることを、おまえも望んでくれるだろう?

 

 

 おれは追わない、探さない。
 いつか再び、何気ない笑顔を交わしながらおまえと会える日を待ち続ける。命尽きる最後の瞬間まで信じ続ける。

 

 何程の刻が流れようと、何程の痛みに苛まれようと、最後の誠を貫いておれは生きる。おまえからの最後の文にあったように、その名を宿した存在を二人分の想いで育んでいくつもりだ。

 

 

「さあ、そろそろ帰るぞ、───カミュー」
「はい、父上」

 

 

 たとえ何程隔てられようと、いつの日にもおまえを想う。
 ───それがおれの唯一の真実。

 

 

 


昨年のオンリーで配布したコピ本からの再録です。
あんまり数を作れなくて、
「そのうち再録しますから〜」と言い訳。
なのに今頃になって漸く……。

あれで壊れたら男じゃなかろう、と
青に父親の責任を果たしていただきました。
青が信じている限り
赤は何処かで生きている(かもしれない)という
イマイチ救いになっていないっぽい
続編でございました。

 

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