伝えない言葉


好きだった。
生きる姿勢、靱き眼差し。いつの日も揺らぐことなく己が誇りだけを見詰めるおまえが、ずっとずっと好きだった。
汚れなき光に生きるおまえの、選ばれた唯一になりたかった───

 

 

 

SIDE.C

「……決めようと思う」
不意にもたらされた呟きに、カミューは一瞬動きを止めた。
壮絶なるデュナン大戦後のロックアックス城の一室。互いの悲願であったマチルダ騎士団の再興はほぼ順調に果たされ、瓦解した秩序は更なる強さをもって命を蘇らせようとしている。
一日の任をすべて終えた後は、いずれかの部屋を訪れて束の間の語らいを持つことが習慣化していた二人だ。今宵カミューの部屋を訪れた男はひどく落ち着かない様子を見せていたが、やがて口を衝いた言葉はカミューの思考を凍らせるものだった。
「決める、って……?」
「だから、その人を妻に迎えようと思うのだ」
目を合わせぬよう俯いているのは揶揄を恐れてか、あるいは照れた顔を見せたくないがためか。
両手でグラスを弄びながらの告白は、配下の騎士に見合いを勧められたというところから始まった。若くして騎士団の最高位に在る男から見れば、殆どの要人は年長者である。無下に断るのも躊躇われて、そのうちの一人に会ってみたのだと。
カミューは最初、苦笑混じりにその顛末を聞いていた。
色事には殊更不器用な親友、マイクロトフ。見合いの席での遣り取りには笑いを禁じ得なかったし、殆ど失態と言ってもいい様々に逐一茶々を入れながら聞くことが出来た。
だから、最後に洩れた一言に構えることを怠ったのだ。口を噤んだカミューを困ったように一瞥するなり、マイクロトフは溜め息をついた。
「……そんなに呆れることはないだろう? 彼女はとても慎ましやかで温かな人だ。おれのことも十分に理解してくれているし、何ら不足のない、素晴らしい相手だ」
訥々と語る男の声が、喉元まで込み上げた感情を抑え込む。カミューは大仰に肩を竦めてみせて、どっかりとソファに沈んだ。
「驚いただけだよ、……おまえがレディと付き合っているのも知らなかったし」
「見合いをしたのは、ごく最近のことなんだ。騎士団も落ち着いてきたことだし、この辺で身を固めるのも悪くないかと思って……。どうだろう、カミュー?」
「何故わたしに聞くんだ」
叫び出しそうな情念を堪え、カミューは艶やかに笑って見せた。彼にとっては容易いことだった───涙を笑みに変えることなど。
「決めたのだろう? 勿論、祝福するさ。それにしても……よもやおまえに先を越されるとはね。やられたよ、マイクロトフ」
「……そんなことで争ってどうする」
マイクロトフはほっと肩の力を抜いたようだった。それからふと表情を改めて、真っ直ぐにカミューを見た。
「おれには良く分からないのだが、色々と準備というものがあるらしい。式は来月になる」
来月、と小さくカミューは復唱した。
「これでおまえも一家の主か……感慨深くて涙が出そうだよ」
「どういう意味だ」
くす、と笑ったマイクロトフは壁際に設えられた大時計を窺った。そしてゆったりと立ち上がる。
「そろそろ休もう、遅くまですまなかった」
部屋を出て行くマイクロトフの真っ直ぐな背を見送りながら、カミューはそっと瞑目した。

 

 

 

 

 

回廊を自室へと歩んでいたとき、背後から呼び止められた。見遣れば精悍な顔がひたと己を見詰めながら歩み寄ってくる。目前に立ち止まった友が差し出したのは純白の封書だった。
「おれたちの間で今更こんな他人行儀な真似などと思っていたが……慣習なのだと非難されてしまった。遅れてすまない、式の日取りだ」
封を空けて取り出した書面には明後日の日付が記されていた。薄く笑みを洩らし、カミューはゆっくりと首を振った。
「すまない、マイクロトフ……どうやらわたしは参席出来ないようだ」
「何?」
心から驚いたように男は目を見開いた。淡い琥珀がふいと逸れ、回廊から見える緑を窺う。
「この日……すでにわたしはロックアックスにいない」
「何だと?」
流れる風に薄い茶の髪を梳かれ、カミューは小さく微笑んだ。
「グラスランドへ帰るんだ。もう……赤騎士団における引継ぎは終わった。出立は明日の朝になる」
突然の告白にマイクロトフはただただ茫然としているようだった。満足に言葉も出ない男をちらと一瞥し、からかうように付け加える。
「この前の仕返しになったかな? でも……もっと早く教えてくれれば出立をずらしたのに。彼の地に向かう隊商の警護を引き受けてしまったから、生憎変更は出来ないんだ」
長年に渡る交友から、わざわざ日付を告げずとも互いの華燭の典に参席するのは当たり前───マイクロトフらしい思考だった。
「騎士団を……去る、と……?」
「そうだ。ずっと考えていたのだけれど……先日、漸く決心がついてね。騎士団も立ち直った今、もうこの地でわたしが為すべきことはない」
「そんなことは───」
言い掛ける男に構わず、今度は冗談めかした調子で続けた。
「おまえを見習ってグラスランドで素敵なレディを探すことにするよ。この街で一人を選べば、他のレディに恨まれる羽目に陥りそうだからね」
何を、と思わず苦笑した男は、改めて何事か言おうと口を開き掛けた。それを遮るように首を振り、カミューは重々しく言った。
「……決めたんだよ、マイクロトフ」
如何なるときにも決意した互いを曲げることなど叶わない、それをマイクロトフは知っている。誰よりも近しく生きてきただけに、引き止めることの虚しさを熟知している筈だ。
予想通り、彼は幾度も唇を噛み、失意と寂寥、憤りや自責といった様々を浮かべ、最後に頑なに首を振った。
「……また、……会えるな……?」
そうだね、とカミューは笑む。
「故郷で人生の伴侶を得たら、そのときはおまえにもお披露目するよ。騎士団を───わたしたちが出会い、共に生きてきた騎士団を立派に導いてくれ、マイクロトフ」
最後に真摯に言い切った彼に、マイクロトフは何処か寂しげに頷いた。

 

 

 

 

その日の夕刻。
カミューは騎士服を脱ぎ捨てて有り触れた衣に身を包み、慣れ親しんだ街をゆっくりと散策していた。
深くフードを下げて顔を隠しているのは、己を見検められないため。この街ではあまりに知られすぎている身だからだ。今は誰にも邪魔されず、騎士団長としてではなく、ただ一人の人間としてすべてに別れを告げたかった。

 

禁忌なのだと幾度我が身を諌めても、想いだけは殺せなかった。ただ澱のように積もる痛みが、やがて来る日のために強く在るようにと常に胸で叫んでいた。
その訪れは突然で、けれど逃れることは出来なかった。別の道を歩き始める男の傍らに在るべきは、もう自分ではない。ならば自分も新たな道を進まねばならないのだ。

 

彼と隣り合って歩いた石畳、並んで街を見下ろした高台。騎士団の未来を論じ合いながら酒を酌み交わした酒場、酔い潰れた彼を介抱した街角。
二度と見ることのない風景のひとつひとつを慈しみを込めて眺め遣り、胸の中で噛み締める。いつかこの痛みが優しい思い出となるよう祈りながら。
ふと巡らせた瞳に路地で遊ぶ数人の子供たちが映った。楽しげな表情には陰りがない。戦を体験しながら強く生き抜いてきた命は未来への希望に溢れている。
少し考えて、カミューは歩を進めた。気づいた子供たちは穢れなき明るい瞳で彼を迎えた。
「君たち、頼みがあるのだけれど───」

 

 

 

 

そして同日深夜、人々に告げた出立の朝を待たずして、カミューは一人ロックアックスから去った。

 

 

 

 

 

 

SIDE.M

荘厳な鐘が鳴り響いている。
妻となる乙女は一生大切に慈しむことが出来る、申し分のない人だった。同じ建物の別の一室で、乙女は心を弾ませながら未来への夢を紡いでいるに違いない。
与えられた部屋で独り定められた刻を待つ男は、幾度も扉を見遣った。さながら気紛れな猫のように思いがけず顔を覗かせてきた彼が、今度も同様にひょっこり現れるのではないかと期しながら。
「……未練、だな」
マイクロトフは低く呟いた。
わざわざ偽りの出立を告げて、人知れず街を去った友。
心を尽くした見送りの儀を構えていた赤騎士団員はもとより、他団の騎士でさえ鮮やかな肩透かしに嘆くことさえ出来なかった。
だが、とマイクロトフは思う。
そういう男だった。
常に超然としていながら、思いがけぬほどの情を秘めたカミューは、周囲の哀惜を目の当たりにしたくなかったのだろう。あんな直前になって、その辺を見回りに行くかのようなあっさりとした調子で自分に別れを告げたことからしても、それは明らかだ。
もっと早く打ち明けられていたら、確かに自分は止めただろう。たとえ受け入れられずとも、言葉を尽くして、精一杯の思いを込めて遺留を望んでしまったに違いない。
だから彼は正しい。この上もなく彼らしい引き際だったのだとマイクロトフは思った。

 

 

マチルダ騎士団領中に祝福される式典に臨む男は、騎士の正装である団長衣に包まれている。ただ、聖なる婚姻の儀に臨むにあたって些かの汚濁も許されぬとあり、新たに設えられた真新しい装束であった。
極上の布は未だ戦いを知らない。
カミューと並んで駆け抜けた戦火を知らない。
共に流した誇り高き血も、互いを呼んだ声も知らない。
マイクロトフは嘲った。これから先、握り締めた愛剣と、そして胸のうちにある記憶、ただそれだけが彼の存在を留めることになるのだろう。
カミューは思い出となる。騎士団の歴史に名を刻まれ、決して消えぬ輝きとなって語り継がれる。
───そして、こうして別離を惜しむ己の心の中でも。

 

 

「マイクロトフ様、少し宜しいでしょうか?」
不意に扉の向こうから掛かった声に、感傷は遮られた。慌てて威儀を正して同意すると、配下の騎士が顔を覗かせた。
「式の前にどうしてもお目通りを、と……」
騎士が言い終える前に、彼を押し退けてわらわらと部屋に飛び込んできたのは数人の幼い子供たちであった。
束の間、訪れる筈も無い人の到来かと心乱したマイクロトフだったが、小さな来訪者たちはそんな彼を取り囲むようにして満面の笑顔を見せた。
「団長様、ご結婚おめでとうございます!」
一人が代表すると、続いて可愛らしい声が次々に上がった。
張り番を勤めていた騎士は困ったように眉を寄せた。相手が子供だっただけに無下に追い返すことも出来なかったのだろう。その優しさと配慮に笑みを送ると、マイクロトフは身を屈めて子供たちに視線を合わせた。
「祝いを言いに来てくれたのか? 感謝するぞ」
ロックアックスで最も大きな聖堂にて行われる式典。騎士団の最高位階者である男の晴れやかな姿を一目見ようと街中の人々が聖堂前に集っている。その人波を敢然と越えてきた小さな勇者たちを迎える男の瞳は柔らかかった。
非難を受けなかったことにほっとしたのか、子供たちは顔を見合わせた。周囲に押されるようなかたちで進んだ一人が差し出したのは、一輪の紅い薔薇だった。
「これ、お祝いです」
「おれに……?」
普通、こうした行為は花嫁に向けられる祝福ではないだろうか。マイクロトフは怪訝に思って眉を寄せたが、そのまま鼻先に揺れる花を受け取った。
「団長様に……って言ってたよ。ねえ?」
一番幼い少年が隣の少年の袖を引く。更に困惑して見詰めると、最年長らしい子供が言った。
「頼まれたんです、ぼくら。団長様の結婚の日に薔薇を一輪届けてくれ、って」
「お代と一緒にお駄賃も貰ったんです」
別の一人が付け加えるのを、少年は紅潮して押し遣っている。けれど、マイクロトフは目前の花にあてた視線を動かすことも叶わなかった。
「誰、が……?」
搾り出すような独言に、子供たちは口々に言い合った。
「わかんない……顔は見えなかったよね」
「旅の人じゃないかな? 優しい声だったよね」
「ぼく、金色っぽい髪の毛を見たよ」
はっとして向き直ったマイクロトフに、その子供は驚いたようだった。
「え、と……自信ないけど……」
「時間は? 夕方だったか?」
掠れた声で問うと、子供たちは急いで頷いた。
マイクロトフは茫然とした。

 

夕陽に照らされると、薄茶の髪は金に透けた。
かつてその気高く優しい色合いに、幾度も息を詰めて見惚れた自分がいた───

 

黙してしまった男を案じたのか、子供の一人が切り出した。
「それから……伝えて欲しい、って頼まれました」
「…………え……?」
「『幸せに』、って」

 

マイクロトフは脆く繊細な花の茎を握り締め、暫し瞠目した。それから顔を上げ、子供たちに誠意溢れる笑顔を与える。
「……よく届けてくれたな。感謝する」
子供たちは一斉に姿勢を正した。ロックアックスの幼年者の憧れの象徴である男のねぎらいに、騎士を真似た礼を取る。
「はい! 花嫁様とお幸せに……団長様!」
口々に祝賀を述べて彼らは部屋を出て行った。
真紅の芳香と共に残された男は、その場で崩れるように膝を折る。

 

 

 

あのとき引き止めていたなら。
そうしたら互いの在り方を変えることが出来ただろうか。
───否。
どうして言えただろう。
誰よりも誇り高く清廉な人を、己の願いで汚すなど出来る筈がなかった。
どれほど近く在ろうと、二人の心は無情に隔てられていた。常に心に正直に生きてきたマイクロトフが生涯で唯一殺した想い、そうせねばならなかった禁忌。彼の信頼、彼の眼差しを失うならばと噤み続けた密やかなる真実。
新たな道を踏み出し、新たな想いを育もうとした。そうして別の絆が生まれれば、いつかは思い出に変えられると信じたから。

 

残された一輪の薔薇に込められた親愛。真紅の花びらが滲んで見えた。
茎を短く削いで、咲き誇る紅を騎士服の胸元に差し入れる。芳しく薫る薔薇を鼓動近くにおさめたマイクロトフは、伝えることが出来なかった言葉を胸の奥で呟いた。

 

 

好きだった。
生きる姿勢、靱き心根。静寂の中に燃える炎を抱いたおまえを、ずっとずっと好きだった。
温かく穏やかな琥珀の瞳、その目に映る唯一で在りたかった───

 

 


すれ違いの極めつけ、
嗚呼・双方向の片思い。
我が家の二人がラブるには
青が突き抜けることが必須と納得。

しかしこれ……
いったいいつの指令だったことか。
遅すぎる、自分(涙)

 

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