歳月の遺物


静かな夜だった。
傍らに眠る人を起こさぬよう、ゆっくりと寝台を抜け出す。
窓辺に立ち、この数年ですっかり馴染んだ町並みを見渡せば、静謐の中に沈む街路が遠い故郷に続いているような気がした。

───感傷か。

闇色の瞳を笑ませながら思い、未だ穏やかな寝息の零れる寝台を振り返る。ゆるゆると規則正しく揺れる清潔な上掛けに、ふと思い掛けない情動を掻き立てられた。思わず数歩踏み出したものの、すぐに立ち止まって自嘲の笑みを洩らす。
既に『自制が効かない』で済む歳でもないというのに、何故こうまで渇望には果てがないのだろう。
騎士と呼ばれた頃、死は常に身近に在った。
この世に唯一と決めた人を腕に抱くときはいつでも、今を逃せば次の保証はないといった焦燥が付き纏っていたような気がする。
おそらくは、彼も同じ想いだっただろう。だからこそ、あの若き日々は衝動と刹那に支配され、けれど幸福だったのだ。
そして、今。
季節は巡り、多くの歳月が二人の間を流れていって。
灼熱の恋情は暖かな日溜まりの如き慕情へと質を違えた。溢れる情愛はそのままに、歳を重ねただけの落ち着きを得たと言ってもいい。
それでも時折、こうして駆け抜ける情熱に身を任せそうになるのは想いの深さか、それとも己の変わらぬ性情であるのか。
薄く笑いながら首を振っていると、寝台から柔らかな声が探ってきた。
「……夜更けに何を一人で笑っているんだ」
身じろぎ、寝台に腹這いになった伴侶の口調は不機嫌そうだ。どれほど平穏な暮らしを送っていても、剣士としての本能は健在である。間近の気配に起こされた彼は、薄闇にも艶やかな琥珀色の瞳を瞬かせた。
「いや、すまない」
乱れた黒髪を掻き上げながら素直に詫びて、それから揶揄めいた調子で続ける。
「だが、起きてくれて良かった。あと少し遅ければ、欲望に負けていたところだった」
束の間瞬いた琥珀が、ふいと逸らされた。
「寝入り端に伸し掛かられたら、幾らわたしでも怒るよ、マイクロトフ」
分かっている、と神妙に頷いてから口元を緩めた。
「おれもそれなりに自制を学んだからな」
「……どうだか」
ふわりと笑んだ彼は、今度はやや心配そうな顔を向けてきた。
「眠れないのかい?」
軽く否定を示してから、マイクロトフは昨夜から卓上に置かれたままになっている一通の書状に視線を投げる。
「郷愁……とでも言うのだろうか、昔のことが思い出されてな」
歩み寄って手に取った書状の刻印は羽根と剣をあしらった文様。その旗を掲げて誇らしく戦っていた日々が否応なく蘇る。
「……今ひとつ不本意だよ」
憮然とした口調に寝台を見遣ると、伴侶は苦笑を零していた。
「騎士団からの書状に、おまえは繊細にも物思いに沈んでいる。片やわたしは呑気に熟睡───この十五年、わたしは生活を誤ったかもしれない」
思わずマイクロトフは吹き出した。暫し肩を揺らした後、愛しげに言う。
「それはここがおまえの故郷だからだろう、カミュー」

 

 

大戦を終えたデュナンを離れ、二人が生きる場所に選んだのは、雄大な自然と共存するグラスランドの地であった。
故郷の地に戻ったカミューは、乾いた風に吹かれて日々表情を変えていった。礼節に守られた騎士団に身を置いていた頃とは別人のように、大胆でおおらかな振舞いに走るようになったのだ。
それまでの立場が逆転したかの如く、はらはらと伴侶の姿を見守らねばならなくなったが、そんな毎日もまた新鮮で、刺激的だったことは否めない。
街から街へ、集落から集落へ───果てなく続く旅の生活。
時折、人助けや魔物退治といった騒動に首を突っ込んでは再び草原に踏み出した。一つ所に落ち着いたのは、この街が初めてだったのだ。
だから追跡は叶ったのだろう。長期滞在を決め込んだ宿屋にデュナンからの書状が届いたときには呆れながらも感心したものだ。
マチルダ騎士団はデュナン大戦時にひとたび瓦解し、マイクロトフらの許で再興に至った。届いた書状は、その再興から十五年を経た祝賀式典への参席を求めたものであった。
懐かしい部下の手跡は恨み節めいたものも伝えている。騎士団再興十年目の祝賀の折にも、彼らは二人の行方を追って果たせなかったらしい。今度こそ是非にも帰還を、そう促す文面には切実な願いが溢れていた。
あの頃、騎士団長としてデュナン大戦に臨んだが、既に位階も離れて久しい身だ。どうしたものかと悩んでいると、すかさずカミューは微笑んだ。

表立ってではなく、こっそりと覗きに行こう。
我らの愛した騎士団が、変わらぬ信念を掲げて民を護っているのを我が目で確かめるのも悪くない。
今も忘れず慕ってくれる部下たちには悪いが、一般人として式典を見守ったと後で伝えることにしよう。

書状の様子から、一度戻れば過度な歓待を受けかねないと躊躇していたマイクロトフも、そこで納得して同意した。
何よりカミューの言う通り、見たかったのだ。自身らが命を賭して勝ち取った平穏が温かにマチルダ領に降り注ぐ、その様を。
斯くて明後日にはデュナンに向けて出立することを決めた二人だが、故国からの書状は自身が思う以上にマイクロトフの感慨を揺さぶっていたようだ。

 

 

「それにしても」
ふとカミューが切り出した。
「十五年か……何時の間にかそんなに経っていたとはね」
「そうだな、ロックアックスを出たのはついこの間のような気がしていたが。随分と歳を取ったものだ」
言いさして、設えてある鏡台をちらと覗き込む。淡い月明りに朧げな像を結ぶ鏡の奥、愉快そうに半身を起こして座り込むカミューが見えた。
「案じなくても、そう容貌は変わっていないさ」
くすくすと笑われて嘆息する。
「おれが昔から老け顔だったという意味ではないだろうな?」
「それは被害妄想というものだよ」
肩を震わせ、立てた膝に顔を伏せるカミューに、あながち的は外していないようだと唇を噛む。
それから忍び笑っている伴侶を鏡の中で観察したマイクロトフは微かな感嘆を覚えた。
端正な容姿で名を馳せたマチルダの元・赤騎士団長。
世に、美しさとは若さに起因するところが大きいと聞く。華やかなりし容貌も、歳を重ねるごとに色褪せていくものだとも。
けれど、どうだ。
日頃顔を付き合わせているためか、これといって意識したことはなかったが、カミューの容姿は衰えを知らない。歳月によって失われるものの代わりに、何か別の魅惑を得ているかの如くマイクロトフを惹きつけてやまないのだ。
「……おまえは相変わらず綺麗だな」
独言じみた呟きを洩らすと、鏡の中でカミューが驚いたようにこちらを見た。瞬きを繰り返す瞳が妙に幼く見える。
やがて彼は、何より慕わしい笑みを浮かべた。
「そういうのを何と言うか知っているかい、マイクロトフ?」
薄茶の髪を掻き上げて静かに続ける。
「……『惚れた欲目』と言うのさ」
「───惚れているのは事実だが、欲目ではない」
生真面目に訂正したマイクロトフは、再び鏡を覗き込んだ。
不惑の歳を越えた自身が真っ直ぐに見詰めている。無言で己を睨み付けている姿が可笑しかったのか、カミューが言った。
「わたしも欲目ではないが……、おまえは良い感じに歳を取っていると思うよ。外見は落ち着き払った勇猛な剣士殿以外の何ものでもない」
「……それは褒めているのか?」
「勿論」
肩を竦めたカミューだが、未だ真剣に鏡に向き合っているのを怪訝に思ったようだ。今度はやや静かな声で訊く。
「どうした?」
いや、と軽く首を振る。
「……皺が」
「皺?」
振り返りながら、唇を綻ばせた。
「久しぶりに真剣に鏡を見たが……、随分と皺が増えていると思ってな」

 

───笑い皺が。
そう続けると、束の間カミューは呆け、それから笑み崩れた。
「そう言えば、代わりに眉間の皺は目立たなくなったかもしれないな。それが歳月というものさ、マイクロトフ」

 

 

騎士団を離れてカミューと二人、気儘で自由な日々を送った十五年。
己を縛る責務が刻んだ眉間の皺が満ち足りた平穏によって薄れ、伴侶との心弾む旅路が目許に微笑みの跡を遺す。
二人の間に流れ行く刻は、斯くもささやかで可憐な変化をもたらしたのか───

 

 

「……やはり、騎士団の祝賀式典は遠目からこっそり見守ることにしよう」
感慨に耽るマイクロトフに揶揄めいた声が囁いた。
「勇猛の誉れ高き元・青騎士団長殿が、いとも優しげな四十男に変貌している。これなら、騎士たちに見顕されることもないだろうからね」
そこで耐え兼ねたといった様子で丸めた膝を抱えて笑い出す。暫し途方に暮れながら見詰めていたマイクロトフだが、やがて意を決して歩み寄った。

 

幾つになっても、伴侶を揶揄うことを無上の喜びとしている想い人。
変わらぬ自身を曝す今のカミューに対してならば、己も遠い日々と同じに振舞っても許されるのではないだろうか?

 

肩に触れた掌の温もりに、笑みを納めて見上げる瞳が艶やかに輝いている。
刻を超えて心を揺さぶり続ける魅惑を手に入れるため、マイクロトフはゆっくりと唇を寄せた。

 


難しいとは思っていたけど、40代・青赤。
やっぱ赤がイマイチ想像不可能。
お肌のツヤと身体の線にさえ気をつければ
いつまでも綺麗さ、赤v
(……だが、これが難しい……)

でもまー、年取ってからの方が
若い頃より綺麗な女優さんもいるし、
そんなあたりで。(←どんなだ)

 

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