───年上の想い人。
数年の交友を経て、漸く心を重ね合わせるようになっておよそ二月。世の理には反していても、満ち足りた至福に包まれた恋人たち。
二人はそう呼んでいい間柄の筈である。
けれど現実は甘い蜜月とはいかない。
歳も位階も上回る伴侶は、巌の如き意地っ張り、更には情緒といったものが微妙に欠落した人物なのである。
二度、三度と深呼吸を繰り返し、挙げ句は挑戦的な眼差しで睨み付けて。
それから彼は低く言った。
「……よし、来い」
全身に臨戦気配を漂わせられては笑って良いものか悩むところだ。カーマイアは神妙に頷きながら軽い礼を払った。
抱き寄せた身体は自身よりも幾分小さいけれど、十分過ぎるほど逞しい。骨張った肩がわなわなと震えているのは、慣れない抱擁に耐える必死の自制であるのだろう。
ゆっくりと顔を傾ければ、きつく閉ざされた瞼が見える。どうせなら、眉間に皺が寄るほど力を入れずに抱擁に応じて欲しいものだと思う。
引き結ばれた唇にくちづけようとしたが、そこで彼は思い切り腕を突っ張り、カーマイアを押し退けた。それから真っ直ぐに瞳を当てて責め立ててきた。
「こんな戸口で何をする気だ! 新妻か、おまえは!」
終に抑え切れず笑い出しながら伴侶を解放する。
「不本意ながら、その呼び名は妥当かもしれませんね。掃除もしたし、風呂の用意も済ませた……夜食が御入り用なら、軽いスープでも作りますが」
「…………」
「でも、その前に」
僅かに身を寄せて甘やかに囁く。
「お帰りなさい、……ミゲル隊長」
赤騎士隊長ミゲルはちらと室内を窺いながら息を吐いた。どうやら部屋の片付けは及第点だったらしい。憮然とした声が呻いた。
「……何でそんなにマメなんだ」
「あなたがマメでないから……、かな」
軽く返して、カーマイアもまた部屋を眺め遣った。
「ここへ戻られるのは週にたかだか一度でしょう? 然して物が多い訳でなし、どうしてあんなに散らかせるのか不思議です」
そのあたりは自身でも不可解なのかもしれない。ミゲルは眉を寄せたまま考え込んだ。
この縁を取り結んでくれたに等しい、今は亡き二人の養い親たち。彼らとグラスランドで暮らした数年、家事は良く手伝っていた。
大雑把そうに見えて意外に綺麗好きだったマイクロトフ、食には殊更煩かったカミュー。二人を満足させた手腕にミゲルが物申す隙などないだろう。
「……まあ、一応礼を言っておく」
騎士隊長は不貞腐れつつ歩き出した。
先ずは壁に剣を立て掛け、続いて手袋をテーブルに投げ、裏返しに脱いだ騎士服と外した装備を無造作にソファに放り捨てる───散らかる過程を目の当りにしても、今更なので非を唱えようとは思わない。ただ、彼が更に脱衣を進めるのには動揺した。
「な……何をしてらっしゃるんです?」
「何って……」
上体を半分程あらわにしたところでミゲルは手を止めた。
「風呂に入るんだよ。支度してくれたんだろう?」
「そうではなくて、何故こんなところで脱がれるんです? 浴室に行かれればいいじゃありませんか」
ああ、と小首を傾げたものの、彼はそのまま衣服を首から引き抜いた。
「別に構わないだろうが。細かいことを気にするなよ」
そこでカーマイアはソファに腰を落として心底からの溜め息をついた。
逸らそうとした目の端を掠めた赤騎士隊長の半裸身。良く鍛えられた筋肉や頑丈そうな骨格に胸を疼かせる己には釈然としない感が残るものの、何しろミゲルは唯一の伴侶と決めた人なのだ。まるでときめかなかったら、それはそれで問題だろう。
寝室では釦一つ外しても大騒ぎして願望を遂げさせてくれない男は、このあたり、非常に機微に疎い。亡き赤騎士団長への報われぬ片恋に長く苦悩した身であるのだから、もう少し情緒面で豊かになってくれていても良さそうなものを。
沈黙を厭ったのか、脱いだ赤い上衣を肩に引っ掛けたミゲルが覗き込んできた。
「……分かった。脱ぎ散らかさないよう、心掛ければいいんだろう?」
寧ろ、健康な──しかも一応は恋人である──成人男子が横にいるのを忘れたような大胆な脱ぎっぷりを改めて欲しいが、要求したところで受け入れられるとも思えない。
それに、彼の方から譲歩する気配を見せたのも意外だった。これはかつてカミューが授けてくれた恋愛術の一つ、『くどくどしく文句を言うよりも、無言で目を逸らす方が相手の自責を突くこともある』といった項目に該当したのかもしれない。
取り敢えず身体の熱が抜き差しならない状況に陥る前にミゲルを浴室へ追い立ててしまおうと向き直ったが、そこでふと息を飲んだ。赤騎士隊長の左肩口から右腹部へ向けて斜めに走る薄赤い跡に気付いたのだ。
思わず凝視していると、ミゲルは微苦笑した。
「……前に話しただろう? 初陣の記念ってやつだ」
確かに話には聞いていた。
正騎士に叙位されて最初の戦で受けた傷。幾日も生死の境をさ迷ったと、彼は笑い混じりに語ったものだ。
騎士団内にて『暴れ馬』と称されているミゲルだが、寝室での暴れ方も尋常ではない。逃げ回る男の肌をじっくり鑑賞する暇などあろう筈もなく、まともに目にしたのは初めてだった。
無言のまま傷跡に見入っていると、笑い含みの声が揶揄した。
「まじまじと見る程のものでもないだろうが。傷物が嫌なら、返品にも応じるぜ?」
たまらず苦笑して切り返す。
「まだ頂戴していないものをお返しするのは不可能ですよ。カミューを庇った傷ですね?」
ミゲルはソファの肘掛けに座り込んで頷き、記憶を手繰るように傷に指を伝わせた。
「随分薄くなったが、完全には消えないだろうな。あと少し深いか、攻撃の軌道が違っていたら、おれは今ここにいなかった」
十数年を経てなお残る傷の大きさは当時の過酷を物語る。生きて目前に在る、それは彼が大いなる運気に守られている証のようにも思われた。
「……痛かったでしょうね」
さあな、と笑いながらミゲルは首を振る。
「何しろ死に掛けてる最中だ、痛いも何もあったもんじゃない。ああ、でも……心とやらは痛んだ気がする」
「心?」
「死んだらあの人に会えなくなる、ってな」
細められた眼差しに遠い恋慕を認め、胸を衝かれた。
刃の前に身を踊らせ、愛する人を護ろうと試みた───マイクロトフが貫き通した想いが、ミゲルにも等しく息衝いていたのだと改めて思い知らされるようだった。
「……名誉の傷、といったところですか」
小さく独りごちた途端、だが彼は顔をしかめた。
「冗談じゃない、何が名誉なものか。部下として当然のつとめを果たした筈なのに、あの人は十九日間もおれを無視し続けたんだぞ? 執務室の床を磨かされた方がまだマシだった。おれにとっては忌まわしい傷でしかない」
それから幾分語調を緩め、剣を振り回す仕種を見せる。
「こうして攻撃を払い除けて……返し際に敵を倒す。今なら出来ることが、あの頃は難しかった。見合うだけの力がなけりゃ、大事な人を護るなんて夢の夢だ。そいつを痛感したからな、死に掛けたのも満更無駄じゃなかったかもしれない」
だがやはり忌むべき傷だ、そう繰り返した赤騎士隊長を見詰めつつ、カーマイアは静かに微笑んだ。
カミューがミゲルの負傷に胸を痛めたのは分かる。
けれど似た立場に置かれたならば、自らも同じ行動に走っていただろう。
己を捨てても護りたい、それは理性を超えた祈りの衝動なのだから。
「お聞きしても構いませんか?」
低く前置いて切り出してみる。
「もし、おれがミゲル隊長を庇って傷を負ったら……やはり腹を立てられますか?」
「所属が違うだろうが。余程大きな戦いでも起きない限り、赤・青、二騎士団が揃って戦場に立つことなどない」
妙に理路整然と返した後、彼は髪を掻き毟った。
「だが、まあ……仮定で言うなら、カミュー団長みたいに陰険な手は打たないな。張り飛ばしてから絶交だ」
「ぜ、……絶交ですか?」
「当たり前だ。庇うだと? おれの目の届くところで怪我なんぞしてみろ、ただじゃおかない。おれは目の前でカミュー団長に逝かれたんだぞ、あんな思いは一度で十分過ぎるだろうが」
不機嫌丸出しに睨み付ける瞳の奥に潜む痛みに気付き、呆然とする。更にミゲルは揶揄い口調で続けた。
「第一、おまえ如きに庇われる事態になど陥ってたまるか。戦いに置いちゃ、おれの方がずっと経験豊富なんだからな。いざとなったら庇ってやってもいいが……傷を負わないだけの自信はあるぜ?」
───彼は分かっているのだろうか。
何気なく吐いた言葉が強烈な愛の告白に近しいと。
二度と喪失の慟哭を味わいたくない、それは即ち今の彼にとってカーマイアが故・赤騎士団長と同じ重みを持つと白状しているのも同然であると。
そして同時に、カーマイアにも同じ痛みを与えまいと決意しているのだと。
護る毅さと生き抜く毅さ、双方を劣ることなく備えてこそ、共に生きる存在としてミゲルに認められるのだ。
「……あなたと一緒なら本当に男が磨けそうですよ、ミゲル隊長」
ポソと呟くと、赤騎士隊長はたちまち眉を寄せた。顔中に溢れる怪訝には答えず、穏やかに笑みながら背を正す。
「ならば鍛練に勤しみ、経験を積んで……万一の際にも、負傷せずにあなたを護れる騎士となるよう精進します」
するとミゲルは相好を緩めて頷いた。
「妥協案だな、良しとするか」
さて風呂だと明るく宣言しながら浴室に向かう後ろ背を見送ったカーマイアだったが、ふと気付いて小さく呻いた。
「───しまった。そう言えば、まだキスもさせて貰ってなかった……」
本日、ミゲル率いる赤騎士団・第五部隊は同第四部隊と模擬刀を用いた軍事演習を行っている。張り切って訓練に臨んだであろう彼は、カーマイアが湯を終えるのを待たずに眠りに落ちるだろう。
想い人を叩き起こしてまで交情を持ち掛けるなど、性格上出来そうにない。拠って、今宵も宿願を果たすどころか、添い寝に甘んじねばなるまい。次にこの家を訪ねるときには予め城で湯を済ませてくる方が良さそうだ。
取り敢えず彼が風呂から戻ったら、くちづけくらいは賜っておこう。
今日は思い掛けず肌を見せて貰えたし、あの言葉を聞けたのだから、それで満足しておくのが無難な線だ。
相変わらず控え目な進歩ではあるが、少なくとも自制が続くうちは伴侶に振り回される我が身を楽しむべきだろう。
剣士の道を選んだからには明日の命の保障などない。だから悔いを残さぬよう、日々を生きることに努めた───そうマイクロトフは言っていた。次はそのあたりを絡めながら攻めてみるのも良いかもしれない。
無骨ながらも情愛深かった養い親の笑顔を脳裏に過らせ、ソファからずり落ちた伴侶の騎士服を畳み始める。
───零れる溜め息も唯一たる人と共に在る幸福な日常の欠片、そう自らに言い聞かせながら。