「……これは何かの冗談かな?」
難しい表情でカミューが問うが、無論マイクロトフにも分かろう筈がない。
「う……ううむ、資金が足りないとは仰っておられたが……よもやここまでとは……」
古びたドラム缶の脇まで近寄ってみた二人は、それぞれ悩みながら首を傾げる。
「あ、でも……湯が入っている。やはりこれに入るらしいね」
しなやかな手を伸ばしてドラム缶の内部を探ったカミューが濡れた手を見せることでマイクロトフの同意を促した。
「しかし凄い。こんな素材を利用しているとは……見事だ。これはちょっとした意識改革を迫られるよ」
ただ単に貧乏故の苦肉の策ではないかと内心呆れていたマイクロトフは、如何にも感心したように呟いている青年に頭を殴られるような気分だった。
どんなことでも柔軟に受け入れるカミュー。意外なほどの素直なものの見方に、改めて彼の豊かな心を認めて打ち震えたのだ。
「しかし……これはどうしたものだろう。二人同時には入れそうにないみたいだけれど……」
そこで今度は愕然とした。
これは千載一遇の好機ではないか。狭っ苦しい一本のドラム缶、これならば密着して湯に浸からない方が不自然というもの。広い湯船の隅からカミューを眺めるのも捨て難いが、違和感なく肌を寄せ合うことには如何にも劣る。
「い、いや、詰めれば大丈夫だ! ほら……意外と太さはあるぞ、カミュー」
両手でドラム缶の縁を握り締めて力説するが、カミューは眉を寄せて考え込んでいる。その視線が己の筋骨逞しい体躯に真っ直ぐにあてられているのに気付いて照れたが、実際は二人で入った場合の隙間等を計算しているのだろうと思い至ると多少落胆した。
「どのみち、もう脱いでしまったしね……仕方が無い、では入ろうか」
「う、うむっ!!」
嬉々とした様子を浮かべまいと必死のマイクロトフだが、知らず綻んでくる口元を止めようがない。が、カミューはなおも考え込んでおり、厳つい親友の珍しく緩み切った顔には気付かぬようだった。
「どうした?」
「これは……どうやって入ったらいいんだろう?」
言われてはたと瞬く。
浴室内にドンと置かれただけのドラム缶。背伸びしたところで到底跨ぐことも叶わないだけの高さがある。縁に手を掛けてよじ登ろうにも、そんな風呂は聞いたことが無い。
───考えねば。
マイクロトフは必死だった。ここで時間を置けばカミューの気が変わりかねない。折角の密着入浴も水泡に帰してしまうのだ。
全身全霊を注いだ思考の果てに、彼は浴室内の備品を思い出した。急いで手にしたのは洗い場用の椅子である。
「これを踏み台にして入るのに違いない!」
「ああ、なるほど……」
日頃よりもはるかに素早く冷静に対処する男に戸惑っているのか、カミューは薄く笑った。
「じゃあ、先に失礼するよ。落ちそうになったら受け止めてくれ」
「何があろうと受け止めてみせるぞ、カミュー!!」
椅子に上がってドラム缶の縁に手を掛けるカミューを見守る心中には、不運にも彼が落下したらしたで、それは胸躍る展開となるかもしれないといった不穏な思考も巡っていた。
慣れない荒業に不安なのか、カミューは幾度か躊躇していたが、やがて意を決したように弾みをつけてドラム缶の縁に乗り上がり、そのまま滑り込んだ。
「な……何だかとても緊張するよ、風呂に入ったという気がしない」
正直な感想を洩らしているが、それはマイクロトフにしても同じことだった。
これから残ったドラム缶の隙間に潜り込む。狭いとはいっても、さすがにつかえることはないだろう。だが、ごく自然の成り行きでカミューに触れることになる筈だ。
夢にまで見た肌と肌の触れ合いが、こんなところで実現しようとは。先ほどまでは貧乏臭いと溜め息をついていたドラム缶が、極上の大理石風呂よりも素晴らしいものに見えてくるから不思議である。
「よ、よし! では……行くぞ、カミュー!!」
「そっと……だぞ、そっと来てくれよ?」
無論、湯を飛び散らせないようにとの注意なのだと分かっているが、一気に血が沸き立つような響きでもあった。
マイクロトフは反動をつけてドラム缶を跨ぐと、カミューが空けた隙間に向かって身を落とした。細心の注意は払ったものの、やはり湯が飛び、カミューの髪を濡らす。
けれどマイクロトフは謝ることも出来なかった。着衣であっても、これほどカミューの間近に寄ることは滅多になかったのだ。
それがいきなり段階を幾つも飛び越えての向かい合っての裸の密着。素晴らしいだろうと想像はしていたが、素晴らしすぎて気が遠くなりそうである。
「や……、やっぱり狭いね」
くすりと笑う青年は無防備すぎる。マイクロトフの想いを理解していないが為に、あまりにも純粋に浮かぶ笑顔。
濡れた髪を掻き上げようとした手がマイクロトフの腹部から胸元をかすめ、耐え難いほどの疼きを掻き立てる。
「しかし……普段はいったいどうしているのだろうね、ドラム缶ひとつで城中の人間をまかなっているのだろうか」
もっともらしいカミューの問いであるが、マイクロトフはそれより間近に感じる吐息の方が気になってたまらない。それでもかろうじて返したのは怪訝に思われないための配慮である。
「一列に並んで、順番に入るのではないか? 一人あたま数分なら、昼夜を問わず回転すれば何とか……」
「……忙しないね、気疲れしそうじゃないか」
ううむ、とマイクロトフは考え込んだ。
「もしかすると、他にも風呂があるのかもしれない……後でテツ殿にお伺いしてみよう」
「そうだね、幾らなんでもこれでは疲労も取れないよ」
くすりと笑ったカミューだったが、そこでふと笑顔が消えた。よもや己の欲望に気付かれたかとマイクロトフは青ざめたが、次に洩れた声にぎくりとする。
「……熱い」
「もう?! ま、まだ十分に温まってはいないのではないか?」
言いながらカミューの肩に触れてみる。このさり気無さは我ながら見事だとマイクロトフは思った。
「いや……身体はまだなのだけれど、足が……」
困惑したように眉を寄せるカミュー。そこでマイクロトフは気づいた。
湯は適温である。が、金属であるが故にドラム缶自体はそれよりも温度が高いのだ。身体は缶に触れないように気を配ることが出来る。けれど、足の裏だけは如何ともし難いのである。
マイクロトフ自身はさして苦痛には思わないが、何処までも優しげなカミューは足の裏までも繊細に出来ているらしい。
「耐え切れないほど熱いか?」
おずおずと問うてみると、カミューは小さく笑った。
「ここで出たら湯冷めしそうなんだけれどね……少しつらいかな」
マイクロトフとて、折角の密着をここで中断するのはつらい。欲望の助力を仰いで普段より数倍も激しく回転する思考が、やがて妙案を捻り出す。
「カミュー、おれに掴まれ!」
「え?」
「こう……おれの首に腕を回して、だな……足を浮かせればいい!」
これはまた我ながら見事な策であった。想い人を手助けしつつ、同時に抱擁が味わえる。しかも互いに全裸なのだ。いずれ訪れる──ことを願っている──甘い夜の予行演習として、これほど有効かつ画期的な手段があろうか。
「でも……」
さすがにカミューも躊躇しているようだった。幾ら気の置けない親友であろうと、裸で同性と抱き合うのに大乗り気になる男はそうはいない。
しかし、マイクロトフの真剣きわまりない誘いに応じずにいるのは誠実ではないと結論づけたらしい。彼はそろそろと両腕を伸ばしてきた。
「そ、それじゃ……すまないけれど頼むよ」
恋人同士のようにひしとしがみつき、浮力で足を浮かせたカミューに感涙で咽びそうになる。ここで腰を抱き寄せたらまずいだろうか、いや、やはり少々先走りすぎであるような気がする、けれどこのままでは今ひとつ安定が悪いし、ここは何気なさを装って抱き締めてしまうべきか───云々。
マイクロトフは夢見心地だった。
揺れる湯の中、きつく己に縋りつく愛しい人。耳元に感じる息遣い、触れ合う胸元が醸す鼓動の高鳴り。
重なるカミューの上体は思っていた以上になめらかで優しい。視線に映る背中から腰へと続く線は水に揺らされているのが惜しいほどに魅惑的である───ここがドラム缶内部であることを忘れるほどに。
知らず、想いが溢れ出ていた。
「好きだ、カミュー……」
途端にカミューはぴくりと身を震わせた。
「な、何だい、こんなときに……」
「い、いや……その……」
自らの取る体勢からか、さすがに今度は以前のように『今時凄い』と感心することもなく、彼は言葉を探しているようだった。
そんな恥じらいを愛しく思うマイクロトフだったのだが、次の刹那、ぎくりとした。
想いを溢れさせたのは唇ばかりではなかったのだ。かろうじてカミューに触れていない下腹部までが一緒になって情熱を主張し始めていたのである。
───まずい。
これは非常にまずい事態である。
いや、実のところこれまで辛抱していたことが奇跡であるとも言えるのだが、ここまで黙っていたのなら最後まで黙っていて欲しかった───と、彼は心底思った。
しっかりと反応してしまった欲望は、願い虚しくやがてカミューの腹部に到達してしまった。
え、と耳元に小さな声がした気がする。離れようと考えたのか、一瞬回った腕の力が緩んだ。が、そうしたことで逆に体勢が傾き、カミューはしっかりとマイクロトフ自身に触れる羽目に陥ってしまったのだった。
「マイクロトフ……、あの……」
言い難そうに潜められた声、おずおずと見上げる琥珀の瞳。ここは取り敢えず、何とか誤魔化さねばなるまい、マイクロトフは焦りながら必死に言い募った。
「すっ、すまない! そんなつもりではなかったのだが……いや、どんなつもりと聞かれても困るのだが、あまりに刺激が……いやその、何というか、つまり……」
カミューは頬を染めて思案していたが、やがてふっと力を抜いた。
「そ、そうだね……こうも密着しているのではやむを得ない。男には良くあることさ、気にするな」
───如何なるときも好意的な友。
このままでは永遠にこれまで通りの良き友人の域を出られないのではないか。突然襲われた不安に駆られ、マイクロトフは一気に叫んだ。
「違う、そうではない!」
「マイクロトフ……?」
ぱちぱちと幼げに瞬くカミューを、とうとう彼は力の限りに抱き締めた。
「誰でもこうなる訳ではない、おまえだから!! おまえが好きで、おまえと密着しているからこそ……」
───下半身まで感激してしまうんだ。
最後まで言わなかったのは、口説き文句にはあまり相応しくないのではないかというマイクロトフの本能であった。
ただ呆然とするばかりのカミューから何とか言葉を貰えないものかと息を止め、終いには思い切って唇を寄せてみる。
が、そこで轟いたのは掠れたダミ声であった。
「おめーら、人の風呂で何してやがる〜〜〜!!!」
風呂職人であるテツは、今宵をドラム缶風呂の消毒日と決めていた。見栄えはともかく、衛生面には絶対の注意を払っているのである。
もともとドラム缶風呂は六本あった。極限まで沸かした湯でドラム缶を満たし、十分に消毒をした後に庭に干す。夜のうちに運んでおけば、明日いっぱい陽光に照らされることになるドラム缶の殺菌は完璧だ。そう考えて本日、彼は風呂を早仕舞いにしたのである。
ところが、五本目のドラム缶を運んだところで力尽きてしまった。何しろ六本のドラム缶に水を汲み入れ、熱湯となるまで沸かしてから湯を捨てて運ぶという作業には相当の労働力を要したからだ。他人の手を借りないところがテツのこだわりであり、矜持なのである。
そういう訳で、五本のドラム缶と共に庭で一寝入りしてしまい、戻ってきた彼は驚愕するような光景を目の当たりにしたのであった。
どう考えても一人一缶を割り当てられるべき風呂に仲良く浸かっている大柄な青年男子二人。
おまけに片方が片方の首に縋りつくような格好で、縋られた男は顔を赤らめて鼻息も荒く片割れに唇を突き出しているではないか。
神聖なる風呂を邪な使用目的によって汚された頑固職人の憤りは一気に燃え上がるばかりだった。
「おれの留守中に不届きな連中め!!」
「も、申し訳ありません、決してそのようなつもりでは……」
「もう一度消毒しなきゃならねーじゃねえか、畜生! いいからさっさと出ろー!!!」
「は、はい! ええと……出るときはどうすれば……」
甘い抱擁をさっさと解いたカミューがおろおろと手段を探っている。その端正な美貌と困り果てた様子にテツの怒りは幾分揺らいだようだった。
「ああ、もう……滑るんじゃねえぞ、焦んねーでいいからよ」
歩み寄った風呂職人は片手を差し伸べてカミューのドラム缶脱出に助力した。至極まっとうな性癖を持つ頑固親父にさえ、彼の美貌は心を和らげるものであるらしい。
だが、その分マイクロトフへの攻撃は激化した。テツとしては、逞しい大男が儚げな美青年を毒牙にかけようと風呂に連れ込んだとしか思えなかったのだろう。
───……一割ほど当たっている。
「でかいの!! てめーもとっとと出ろ!!」
「は、はあ……しかし……」
「何してやがる、出ろったら出ろーーー!!!」
───察してください、テツ殿。
マイクロトフは切なく途方に暮れていた。
得体の知れないドラム缶風呂が見せてくれた束の間の夢、それはこんな末路に終わる筈のものではなかったのに。
出ろ出ろと責め立てられてなお、いっこうに引かない下腹部の熱をどうすれば良いのか。
再度消毒すると言っているから、いっそ処理してでも早く出た方がいいのだろうか……などと、あてもなく巡る思考。
少なくとも、ひとつだけ確かなことがある。
あんな状況にあってさえ、カミューは決して彼を拒絶していなかった。これは不幸中に見つけたささやかな僥倖と言ってもいいのではないか───
「てめえ! 出られねえ理由でもあるってのかー!! おれの風呂で抜いたら承知しねえからな、出すなら出てからにしろ!! とにかく上がれーーーー!!!!!」
ドラム缶ひとつがぽっかりと置かれた浴室に響き渡る雄叫びと、青年騎士団長二人のおろおろした陳謝の声。」
新たな戦力を加えることとなった新同盟軍本拠地の夜は至って平和に過ぎていく───
← 前編へ