───愛しているよ、マイクロトフ。
慕わしき人が夢見るように言った。
おれもだ───
おれも、心からおまえただ一人を想っている。
情熱を込めて返すなり、
熔けるような熱を帯びた琥珀が緩やかに瞬いた。
至福、あるいは歓喜といったものが彼を過ぎり、
濡れた唇が忍びやかに開く。
嬉しいよ、マイクロトフ。
ならば……───
語尾を聞き取り損ねて眉を寄せる。
何?
何と言ったのだ、カミュー?
美貌の想い人は芳しき蟲惑を纏い、
しなやかな手を差し伸べた。
───ならば、わたしの刃で死んでくれ。
沈黙の祈り
「…………!!」
能う限りの勢いで身を跳ね起こした男は、暫し己の動悸の速度についていけず、喘ぎながら呼吸を整えようと務めた。
冷たい汗が幾筋も伝い落ち、乱れた寝具に染みを作る。吐き気を伴う焦燥は、切り裂く刃の如く身を苛み、続いて我が身の横を見下ろした黒い瞳には切実なる祈りがあった。
目線の先で生じた物憂げな身じろぎ。続いて洩れる優しい声に息が詰まる。
「……どうした? 夢でも見たのかい?」
突然促された覚醒にやや怪訝そうに、けれど心から案じる口調で彼は問う。その温かさに胸を突かれ、仰向いた細身に被さった。
「マイクロトフ?」
「良かった……夢だったのだな」
交わした情熱の余韻も遠く、今はただ静かなばかりの赤騎士団長。心の伴侶をしっかりと腕に納めて幾度も安堵の息をつく。
「悪い夢だったのかい?」
宥めるように黒髪に埋まる指先。剣を握れば他者の追随を許さぬ無類の技を駆使する掌が、いたわりを込めて髪を梳いた。
重ねた肌の確かさをなお得ようと、マイクロトフは開かれた唇に己のそれを重ねる。闇の中で絡み合う熱が互いを貪り、やがて再びの炎となるまで。
「あっ……」
未だ情交に解けた体内に押し入ると、苦痛とも愉悦とも取れる吐息が洩れる。幻のように掠めた忌まわしい微笑みを消さんと殊更に荒々しく突き上げると、伸ばされた手が責めるように肩口に爪を立てた。
「……っ、マイクロトフ───どう、したんだ……」
忙しない律動の最中に切れ切れに昇る懸念。それすらもくちづけで塞いでマイクロトフは首を振る。
やがて儚い悲鳴と共に頂点を極めたカミューを知り、自らにも解放を許す。疲れ果てたように虚ろな視線を泳がせる白い貌に、だがマイクロトフを恐れさせた冷然など皆無だった。
「わたしがおまえを……?」
唐突に駆り立てられた情欲が去って後、マイクロトフは抱き寄せたカミューから当然の如き詰問を受けた。胸を走った朧げなる不安に苛まれて、今宵二度目の肌を求めた男としては、告白せざるを得ない。
事の前後は勿論、状況の流れもなかった。ただ、脳裏に焼き付いた恐ろしい一幕だけを躊躇いがちに打ち明けると、カミューは静かに思案した上で口を開いた。
「……疲れているんだよ。無理もない、此度は新同盟軍のみならず、我らにとっても特別の戦いだったのだから……」
───ロックアックス攻め。
剣の道を志してより、長きに渡って己の誇りの住処だったマチルダ騎士団。
保身に走り、戦わずして敵国に屈しようとする騎士団を捨てて新同盟軍に参加して幾月、いつかは訪れる戦いと覚悟していたのは事実だ。
マチルダ領内における戦い、更にはロックアックス城に侵入しての戦い。其処に生きた記憶を持つものたちにとって、何一つ迷いがなかったかと言えば嘘になる。
対峙するのは、いつか何処かですれ違ったかもしれない、かつての盟友。同じ薫陶の許に誇らしく集った筈の仲間たち。
たもとを分かち、今は別の主君に剣を捧ぐとも、憎悪だけで立ち向かえなかったのは確かなのだ。
その上、新同盟軍はこの戦いに多くの犠牲を払った。
敵国ハイランド王国を離反して新同盟軍の一翼を担ったキバ将軍、そして全兵士の指導者である少年の義姉さえもが勝利の影に命を落としたのである。
最後の戦いを前に指導者は倒れた。度重なる戦いへの疲弊もさることながら、身近な存在の喪失が少年を引き裂いたのだろう。
少年の本復を待たずば決戦に臨めよう筈もない。軍師が一同に休息を命じ、現在に至るのであった。
「だが……嫌な夢だった。夢は未来を告げるとも言うだろう?」
「すると、わたしがおまえを殺さなければならないと?」
カミューはくすりと笑って男の頬を撫でた。
「夢の分析にはこういうのもあるよ、マイクロトフ。当事者の恐れがかたちになるのだともされている」
「恐れ……?」
そう、と頷いてカミューは表情を改めた。
「たとえば……あの離反の際、わたしがロックアックスに残ったとしたら、その夢は現実のものとなったかもしれない」
───そうなのだろうか。
これほど想い合っていても、理想の違い、信念の差異は死闘によってしか解決策を見出せなかっただろうか。
「それで、おまえはどうしたんだい? わたしと戦ったのか?」
マイクロトフの深い思案をよそに、揶揄するような口調が聞く。改めて思い返しても、夢の続きは断崖の如く削り取られていた。
「驚いた瞬間に目が覚めた……」
ふうん、と心此処に在らずといった様子で応じるなり、カミューは琥珀を煌めかせた。
「どうだっただろうね、わたしたちが敵として向き合ったなら? おまえはわたしを斬ったかい?」
刹那、マイクロトフは眉を寄せた。
「おまえは……、そういう物騒な例えを平気で持ち出すのだな。考えたくもない。夢だと分かっていても、未だに心底胸が冷える」
「でも」
珍しくカミューは固執するように言い募った。
「考えてみてくれ。わたしたちが敵として対峙せねばならなくなったら……そのときにはどうする?」
「───ならば、おまえから先に答えろ」
途方に暮れた男の逆襲にカミューはうっすらと微笑んだ。
「まずは説得を考える。けれどひとたび剣を取ったからには、おまえの信念は曲げられそうにない。生憎、わたしも容易に意志を曲げることはないだろうから、結局は戦いになるだろう」
「カミュー……」
あまりといえばあまりな理性本位の結論がマイクロトフを脱力させた。愛しいばかりの青年ではあるが、そこに僅かも躊躇を入れないとは腹立たしくもある。
「けれど……実際はそこまで信念が行き違うということは有り得ない。その前に対処する自信がわたしにはある。という訳で、この仮定は成り立たなくなる」
笑い含みの追加に、今度こそマイクロトフは苦笑した。
───その通りだ。
常に傍らに在り、想いを育む二人にとって、そこまで価値観が隔たるなど考えられない。またしても美貌の恋人に手玉に取られた迂闊を恨んで、彼をきつく引き寄せる。指先で淫らな悪戯を仕掛けると、カミューは潤んだ息を弾ませながら身を仰け反らせた。
「けれど……覚えて……いてくれ、マイクロトフ……」
快楽に溺れた声が、それでも強い意志を秘めて呟いた。
「もし、そうして向かい合う日が来て……互いに信念を譲れなくば、そのときは───」
カミューはきつく男を抱き締めた。
「わたしは迷わない。おまえも迷わず斬ってくれ───」