奄美アマミ自由ジユウ民権ミンケン運動ウンドウ年表ネンピョウ (Ver1)
 1870年代ネンダイから80年代ネンダイ日本ニホンは、維新イシン政府セイフによってさまざまな近代化キンダイカ政策セイサクされた時代ジダイであった。もっともそれは、西洋セイヨウをモデルとしたとはいいながらもカタチばかりの、あるいは「富国強兵フコクキョウヘイ」というこどばに象徴ショウチョウされるように、まずは国家コッカありきの近代化キンダイカではあったが。しかし一方イッポウにおいては国会開設コッカイカイセツ憲法ケンポウ制定セイテイをきっかけとした自由民権ジユウミンケン運動ウンドウ全国的ゼンコクテキ展開テンカイされた時代ジダイでもあった。                                       
 南西諸島ナンセイショトウ位置イチする奄美アマミ諸島ショトウ江戸エド時代ジダイ薩摩藩サツマハン支配下シハイカかれ、日本ニホン有数ユウスウのいわゆる黒糖コクトウ生産地セイサンチといわれて、薩摩藩サツマハンによって植民地ショクミンチテキ農業ノウギョウイトナまれた地域チイキである。その支配シハイがいかに過酷カコクなものであったかはオオくの史書シショアキらかにしているところである。しかしそのような奄美アマミ諸島ショトウにおいても本土ホンド自由民権ジユウミンケン運動ウンドウナミせてきたかのようである。その象徴的ショウチョウテキ事件ジケンとしては「家人ケニン解放運動カイホウウンドウ」と「勝手カッテ騒動ソウドウ」をあげることができよう。
 「家人ケニン解放カイホウ運動ウンドウ」とは藩政ハンセイ時代ジダイにおいて、シマ富農フノウソウのもとでいわば債務サイム奴隷ドレイテキ立場タチバかれてきた貧農ヒンノウソウ政府セイフの「解放令カイホウレイ布達フタツ背景ハイケイとしてミズカらの解放カイホウっていこうとした運動ウンドウである。また「勝手カッテ騒動ソウドウ」とは藩政ハンセイ時代ジダイ専売化センバイカかれていた奄美アマミ諸島ショトウ黒糖コクトウを、鹿児島県カゴシマケン一部イチブ商人ショウニン結託ケッタクしてあいかわらずの収奪シュウダツ対象タイショウとしたことにタイして、民衆ミンシュウ自由ジユウ売買バイバイモトめてがった運動ウンドウである。
 この年表ネンピョウシュとして家人ケニン解放カイホウ砂糖サトウ自由ジユウ売買バイバイ運動ウンドウ焦点ショウテンてて作成サクセイしている。そのほかにも様々サマザマないわゆる自由民権ジユウミンケン運動ウンドウとして位置イチづけられる運動ウンドウがあったろうとオモわれるが、それらについては今後コンゴ調査チョウサによってオギナってゆきたい。
2011ネン12ガツ  作成サクセイモリ ヒロシミチ  
西暦セイレキ 和暦ワレキ 月日ガッピ 内容ナイヨウ 出典シュッテン
1865 慶応ケイオウ   薩摩藩サツマハン奄美アマミの4カショ名瀬ナゼ龍郷タツゴウ宇検ウケン瀬戸内セトウチ)に白糖ハクトウ製造セイゾウ工場コウジョウ建設ケンセツ ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト
1866 慶応ケイオウ   グラバー奄美アマミ来島ライトウ? 丸田マルタミナミサト、グラバーにトモナわれて渡英トエイ?(「史伝シデン丸田マルタ南里ナンリ」ではこれを1865ネンのこととしている) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト
1869 明治メイジ   代官ダイカンジョザイバンジョ改称カイショウザイバン伊東イトウセン太夫ダユウショセイ一新イッシン布告フコク ニガ砂糖サトウ喜界町キカイチョウ
1869 明治メイジ   ミチシマサントウ管轄カンカツ役所ヤクショであった「3シマホウ」を「生産セイサンホウ」と改称カイショウ 喜界キカイマチ
1870 明治メイジ   国産コクサン会社カイシャ」を設立セツリツし、「生産セイサンホウ」と合併ガッペイして「保護ホゴ会社カイシャ」とした。まもなくして「生産セイサンカタ会社カイシャ」とショウした。 喜界キカイマチ
1871 明治メイジ   ケン政府セイフ許可キョカないまま、1872ネンミツトウから大阪オオサカ相場ソウバコクダイ金納キンノウとしミツトウノコりの余計ヨケイトウ島民トウミン日用品ニチヨウヒン交換コウカンすることを決定ケッテイ 瀬戸内セトウチマチ沖永良部オキノエラブジマ代官記ダイカンキ
1871 明治メイジ   西郷サイゴウからカツラ久武ヒサタケ手紙テガミ商社ショウシャ設立セツリツによる奄美アマミ砂糖サトウ専売センバイ支持シジ ニガ砂糖サトウ名瀬ナゼ中巻チュウカン
1871 明治メイジ   ザイバン石原イシハラ二郎ジロウダイに、30サイになったヒザ下人ゲニン下女ゲジョ身代シンダイトウ1500キン解放カイホウするようにとの指示シジあり。(「瀬戸内セトウチマチ」ではヒザのみが解放カイホウされたとしている) 奄美大島アマミオオシマにおける家人ケニン研究ケンキュウ瀬戸内セトウチマチ瀬戸内セトウチマチ
1871 明治メイジ 12月11日 西郷隆盛サイゴウタカモリカツラ久武ヒサタケアテ手紙テガミで、奄美アマミ砂糖サトウ独占ドクセン販売ハンバイのために商社ショウシャ設立セツリツすることに賛成サンセイする 瀬戸内セトウチマチ
1872 明治メイジ   大山オオヤマ県令ケンレイ大蔵省オオクラショウタイし、砂糖サトウ旧来キュウライドオ独占ドクセン販売ハンバイするための大島オオシマ商社ショウシャ設立セツリツ上申ジョウシン 瀬戸内セトウチマチ
1872 明治メイジ 5月8日 鹿児島県カゴシマケン独占ドクセン商社ショウシャ大島オオシマ商社ショウシャ」を設立セツリツ奄美アマミ全域ゼンイキ商圏ショウケンとする) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト名瀬市ナゼシ中巻チュウカン宇検ウケン部落ブラク郷土誌キョウドシ
1872 明治メイジ 5月24日 大蔵省オオクラショウ大輔ダイスケ井上イノウエカオルメイ鹿児島県カゴシマケンタイし、キュウハンによる奄美アマミ砂糖サトウ専売センバイ方法ホウホウを「当年トウネンカギ従前ジュウゼントオハカ」とすることをミトめた 瀬戸内セトウチマチ
1872 明治メイジ   島民トウミン黒糖コクトウ販売ハンバイの「余沢ヨタクキン」のウチ、40%が商社ショウシャのものになっているのを、全額ゼンガク島民トウミン返却ヘンキャクするようにと請求セイキュウ(これは74ネンまでに島民トウミン要求ヨウキュウドオりとなる) 喜界町キカイチョウ
1872 明治メイジ ナツ ヒトフトサンリョウモトイ俊良トシヨシウエ鹿シカ在番ザイバンジョ検事岩元六ケンジイワモト6右衛門ウエモン付添ツキソう)。二人は大島商社による一手専売の契約書にサインさせられる(5年契約) ニガ砂糖サトウ名瀬ナゼ中巻チュウカン
1872 明治メイジ ガツ 大蔵省オオクラショウ奄美アマミ黒糖コクトウについて、租税ソゼイ現物ゲンブツオサアマった砂糖サトウ自由ジユウ売買バイバイ許可キョカ。これに対し鹿児島県は、租税の現物納ではなく石代納とするようにと申請 ニガ砂糖サトウ喜界キカイマチ
1872 明治メイジ 9月25日 奄美アマミ諸島ショトウ全体ゼンタイとして、砂糖サトウキン=1200モンとするという大山オオヤマ参事サンジからの許可キョカ大島オオシマ商社ショウシャとの契約ケイヤク成立セイリツ 瀬戸内セトウチマチ
1872 明治メイジ 10月2日 人身ジンシン売買バイバイ禁止キンシレイボクヤトエキセイ年季ネンキを1ネンとする。家人ケニン解放カイホウ無償ムショウ解放カイホウであったが、家人ケニン主人シュジンとのアイダ契約ケイヤクわすことにより、家人ケニン奉公人ホウコウニンとすることは可能カノウ 奄美大島アマミオオシマにおける家人ケニン研究ケンキュウ瀬戸内セトウチマチ
1873 明治メイジ 3月10日 大蔵省オオクラショウゼイとしての黒糖コクトウ現物ゲンブツのまま、それ以外イガイ黒糖コクトウ内地ナイチ商人ショウニンとの自由ジユウ売買バイバイ許可キョカ(「喜界キカイマチ」「瀬戸内セトウチマチ」「龍郷タツゴウマチ」はこれを3ガツ10ニチのこととしている)(鹿児島県カゴシマケン従来ジュウライドオりの大島オオシマ商社ショウシャによる一手イッテ販売ハンバイ継続ケイゾク オオ奄美史アマミシ名瀬市ナゼシ中巻チュウカン喜界キカイマチ瀬戸内セトウチマチ龍郷タツゴウマチ
1873 明治メイジ   大蔵省オオクラショウ勧業カンギョウダイゾク青山アオヤマジュンドウ租税ソゼイナカゾク久野ヒサノ謙次郎ケンジロウらにメイじて奄美アマミ諸島ショトウ全域ゼンイキ調査チョウサ 瀬戸内セトウチマチ
1873 明治メイジ   政府セイフ鹿児島県カゴシマケン金銭キンセン流通リュウツウ布告フコク ニガ砂糖サトウ
1873 明治メイジ 3月23日 県令ケンレイ大山オオヤマツナリョウは、銅銭ドウセン琉球リュウキュウ通宝ツウホウ)を奄美アマミ諸島ショトウワタす(大島オオシマ:10マンカン徳之島トクノシマ沖永良部オキノエラブジマ喜界島キカイジマ:5万貫マンカン与論ヨロン:1マンカン)。タダ沖永良部オキノエラブではこの5万貫マンカン社倉シャソウ資金シキンれている 和泊ワドマリマチ
1873 明治メイジ 10ガツ 名瀬ナゼヒトモトイシュンリョウフモトジンノボ和泊ワドマリヒト土持ツチモチ政照マサテル保護ホゴ会社カイシャタイする債務サイム軽減ケイゲンならびに年賦ネンプ償還ショウカンのためにジョウ鹿シカ、さらに上京ジョウキョウ西郷サイゴウ斡旋アッセン松方マツカタ正義マサヨシ陳情チンジョウし、租税ソゼイコクダイ金納キンノウ保護ホゴ会社カイシャへの負債フサイ免除メンジョ獲得カクトク(「知名町チナチョウ」では土持ツチモチ着京チャッキョウは5ガツ26ニチのこととしている。保護ホゴ会社カイシャへの負債フサイ免除メンジョケンクワしく記述キジュツしている) ダイ奄美アマミ知名町チナチョウ沖永良部オキノエラブジマ郷土史キョウドシ資料シリョウ
1873 明治メイジ 10月22日 鹿児島県カゴシマケン奄美アマミ金銭キンセン通用ツウヨウ布告フコクタダし、実際ジッサイ流通リュウツウせず) 徳之島トクノシママチ
1873 明治メイジ   商社ショウシャヒトヤクとのアイダ明治メイジ11ネンをもって1とする砂糖サトウ一手イッテ売買バイバイ契約ケイヤク締結テイケツ ダイ奄美アマミ
1874 明治メイジ   大蔵省オオクラショウ黒糖コクトウイシダイ金納キンノウ許可キョカ ニガ砂糖サトウ
1874 明治メイジ   大蔵省オオクラショウ鹿児島県カゴシマケン主張シュチョウミトめ、奄美アマミ黒糖コクトウについてイシダイオサミトめる ニガ砂糖サトウ
1874 明治メイジ   沖永良部オキノエラブジマ商社ショウシャ設立セツリツされる(沖永良部オキノエラブ与論ヨロン商圏ショウケンとして大島オオシマ商社ショウシャから独立ドクリツ 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1874 明治メイジ 2月16日 鹿児島県カゴシマケンケン本土ホンドとはベツに、琉球リュウキュウ通宝ツウホウ奄美アマミ通用ツウヨウせしめるよう政府セイフネガる(大蔵省オオクラショウ不許可フキョカとし、キュウ銅貨ドウカ通用ツウヨウ指令シレイ 徳之島トクノシママチ
1874 明治メイジ 2ガツ 政府セイフは、奄美アマミには銅貨ドウカとして「琉球リュウキュウ通宝ツウホウ流通リュウツウ決定ケッテイ銅貨ドウカ不足フソクにより) ニガ砂糖サトウ
1874 明治メイジ 6月12日 ザイバンショ廃止ハイシし、大島オオシマダイ支庁シチョウ名瀬ナゼに、支庁シチョウカクシマ 宇検ウケン部落ブラク郷土キョウド喜界キカイマチ
1874 明治メイジ 4ガツ 県令ケンレイ大山オオヤマツナリョウヤク全員ゼンイン引揚ヒキアゲ指示シジ西郷サイゴウ政府セイフとのアイダ政局セイキョク緊迫キンパクのため) ニガ砂糖サトウ
1874 明治メイジ 9月14日 大蔵省オオクラショウは1873ネンサカノボって石代コクダイ金納キンノウ許可キョカ決定ケッテイ 瀬戸内セトウチマチ
1874 明治メイジ 9月19日 大蔵卿オオクラキョウ大隈重信オオクマシゲノブ太政大臣ダジョウダイジン三条実美サンジョウサネトミにあてて、「大蔵省オオクラショウ大島オオシマケン設置セッチせんとショウふ」とヒンサル 瀬戸内セトウチマチ
1875 明治メイジ   勝手カッテ売買バイバイ運動ウンドウこる。全島ゼントウ沸騰フットウ ニガ砂糖サトウ
1875 明治メイジ   丸田マルタミナミサト帰郷キキョウ(2ガツゴロ? ミナミサト24サイ ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト
1875 明治メイジ ガツ 喜界島キカイジマ商社ショウシャ設立セツリツ喜界島キカイジマ一円イチエン商圏ショウケンとする)。このコロ徳之島トクノシマ商社ショウシャ設立セツリツか? 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1875 明治メイジ ガツ ヒガシホウ百姓ヒャクショウおよび名瀬ナゼホウ伊津部イツブムラ百姓ヒャクショウ大島オオシマ商社ショウシャとの取引トリヒキ中止チュウシ取引上トリヒキジョウ改善カイゼンモトめる歎願書タンガンショ提出テイシュツ 瀬戸内セトウチマチ
1875 明治メイジ ガツ 金銭キンセンツウユウレイ奄美アマミ貨幣カヘイ流通リュウツウハジめる) オオ奄美史アマミシ和泊ワドマリマチ徳之島トクノシママチ
1875 明治メイジ ガツ 平民ヘイミンへの苗字ミョウジ使用シヨウ許可キョカ オオ奄美史アマミシ
1875 明治メイジ 10ガツ 大山オオヤマ県令ケンレイは、「商社ショウシャ以外イガイ商人ショウニントウシマミンジョウケンしてみだりに金銭キンセン使ツカうことを禁止キンシ 喜界キカイマチ
1875・76     このころ、モト鹿児島カゴシマ藩士ハンシ伊地知イジチセイ左衛門ザエモン(かつて大島オオシマ遠島エントウになっていたという)が来島ライトウし、家人ケニン解放カイホウをよびかける ダイ奄美アマミ
1876 明治メイジ ガツ ケン商社ショウシャガワタイし、島民トウミンとの契約ケイヤク改正カイセイメイじる 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1876 明治メイジ ガツ下旬ゲジュン 丸田マルタミナミサトら3ニンアカホウミズアイダリョウジツミナミ)、嘆願タンガンウエ鹿シカ ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト
1876 明治メイジ 4月1日 丸田マルタミナミサトら、鹿児島カゴシマ前之浜マエノハマ着岸チャクガン定宿ジョウヤド問屋トンヤ岡村オカムラ衛門エモンタク宿泊シュクハク 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1876 明治メイジ ガツ 丸田マルタミナミサトら、県庁ケンチョウ嘆願タンガン越訴オッソ理由リユウボウタタきにうも、嘆願書タンガンショ提出テイシュツ 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1876 明治メイジ   丸田マルタミナミサトら、帰島キトウ。ただしミナミサト騒乱ソウラン首謀者シュボウシャであることを理由リユウ拘束コウソクされる 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1876 明治メイジ   島民トウミン大島オオシマ警察署ケイサツショ包囲ホウイしてサワいだため、警察ケイサツミナミサト釈放シャクホウ 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1876 明治メイジ 4月15日 旧習キュウシュウ脱却ダッキャクし、内地ナイチ容姿ヨウシシタガうよう令達レイタツ平民ヘイミン乗馬ジョウバ散髪サンパツ制服セイフクダツカタナハカマ羽織ハオリ着用チャクヨウ女子ジョシ刺青イレズミ禁止キンシなど) 徳之島トクノシママチ
1876 明治メイジ ガツ ケン警部ケイブシバゼン次郎ジロウ巡査ジュンサ橋口ハシグチグン奄美アマミ派遣ハケン島内トウナイ巡察ジュンサツさせる(「史伝シデン丸田マルタミナミサト」はこれを10月上旬ガツジョウジュンのこととしている) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト喜界キカイマチ
1876 明治メイジ ガツ 大山オオヤマツナリョウ巡視ジュンシのためライシマ名瀬ナゼ自由ジユウ売買バイバイ民衆ミンシュウ包囲ホウイされ、イソ大島オオシマ出帆シュッパン(「名瀬市ナゼシ中巻チュウカン」は、これは岩村イワムラ県令ケンレイ来島ライトウとの混同コンドウで、史実シジツではないとしている) ダイ奄美アマミ名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1876 明治メイジ 3月13日 大島オオシマ商社ショウシャ島民トウミン代表ダイヒョウモトイシュンリョウ)とのアイダに17ジョウからなる新契約シンケイヤク締結テイケツ ニガ砂糖サトウ喜界キカイマチ
1876 明治メイジ   ケンケン大属オオゾク坂本サカモトタダシ四郎シロウケンジュウゾク迫田サコタボウ奄美アマミ派遣ハケン大山オオヤマ県令ケンレイからの勝手交易カッテコウエキ不許可フキョカ布告書フコクショカク村々ムラムラ伝達デンタツ(「名瀬市ナゼシ中巻チュウカン」「瀬戸内セトウチマチ」はこれを明治メイジ10ネンガツのこととしている) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト名瀬市ナゼシ中巻チュウカン瀬戸内セトウチマチ
1876 明治メイジ 10月10日 名瀬ナゼ龍郷タツゴウ瀬名セナ笠利カサリアカカクホウから古見コミ住用スミヨウヒガシレンカクホウてて、ケンから警察官ケイサツカン派遣ハケンされており、歎願タンガンについてわせたいので集合シュウゴウするようにとのカイブンあり 瀬戸内セトウチマチ
1877 明治メイジ10   西南セイナン戦争センソウおこる ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10   砂糖サトウ自由ジユウ売買バイバイモトめ、島民トウミン55ニンウエ鹿シカダイ1ジンは2ガツ7ニチ太平タイヘイマル名瀬ナゼミナト出発シュッパツ)(「史伝丸田南里」ではダイジン出発シュッパツを2月9日《旧暦キュウレキ明治メイジネン12ガツ25ニチ》のこととしている) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト名瀬市ナゼシ中巻チュウカン喜界キカイマチ
1877 明治メイジ10 2月8日 陳情チンジョウダンダイ1ジン41ニン鹿児島カゴシマ到着トウチャク私学シガクコウヘイ拘束コウソクされる ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 2月9日 陳情チンジョウダン一行イッコウ問屋トンヤ岡村オカムラボウアズけられ、禁足キンソクモウワタされる ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 2月15日 西郷サイゴウグン先発隊センパツタイ出陣シュツジン ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 2月16日 鹿児島カゴシマ県庁ケンチョウ陳情チンジョウダンのうち13ニン連行レンコウ谷山タニヤマ監獄カンゴク投獄トウゴクノチノコりのモノ投獄トウゴク ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 2月23日 陳情チンジョウダンダイ2ジン14ニン大有タイユウマル名瀬港ナゼミナト出発シュッパツ(「喜界キカイマチ」はこれを22ニチ旧暦キュウレキガツ10ニチ》のこととしている) ニガ砂糖サトウ喜界キカイマチ
1877 明治メイジ10 2月24日 陳情チンジョウダンダイ2ジン鹿児島カゴシマ官憲カンケン連行レンコウ投獄トウゴクされる ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 2月25日 丸田マルタミナミサト大島オオシマ警察署ケイサツショ召喚ショウカン逮捕タイホされる 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1877 明治メイジ10 3月3日 陳情チンジョウダン全員ゼンイン県庁ケンチョウ連行レンコウされ叱責シッセキされる。そのアトミズアイダリョウジツら15ニンフタタ投獄トウゴク。残りの40人には帰島を命じられた。しかし船が接収されたため再び投獄される(「喜界キカイマチ」はこれを3ガツニチのこととしている) ニガ砂糖サトウ喜界キカイマチ
1877 明治メイジ10 3月14日 官軍カングン鹿児島カゴシマ上陸ジョウリク 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1877 明治メイジ10 3月25日 陳情チンジョウダン一行イッコウ西郷サイゴウグン将校ショウコウから西郷サイゴウグンへの従軍ジュウグンモトめられる(35ニンがそれにオウじた) ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 3月28日 従軍ジュウグンオウじた35ニンを「必死ヒッシタイ」とづけ、辺見ヘンミ十郎ジュウロウ引率インソツして熊本クマモト出陣シュツジン ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 4月10日 カクホウ戸長コチョウ大島オオシマ大支庁ダイシチョウあて「勝手カッテ交易コウエキ」を許可キョカしないようにと上申ジョウシン 喜界キカイマチ瀬戸内セトウチマチ
1877 明治メイジ10   丸田マルタミナミサト釈放シャクホウされる 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1877 明治メイジ10 5月2日 政府軍セイフグン逮捕タイホされた大山オオヤマ県令ケンレイわってシン県令ケンレイとして岩村イワムラトオルシュン着任チャクニン ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 5月1日 ノコった20ニン代表ダイヒョウしてマキホウサダらが県庁ケンチョウ出頭シュットウ経緯ケイイショ政府軍セイフグン提出テイシュツ(「史伝シデン丸田マルタミナミサト」ではこれを3ガツ19ニチのこととしている) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト喜界キカイマチ
1877 明治メイジ10 5月17日 陳情チンジョウダン一部イチブ帰島キトウ(「史伝シデン丸田マルタミナミサト」ではこれを4ガツニチのこととしている) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト
1877 明治メイジ10   陳情チンジョウダンノコりは帰島キトウチュウ悪天候アクテンコウにより遭難ソウナン犠牲者ギセイシャ多数タスウ ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10   丸田マルタミナミサト逮捕タイホ投獄トウゴクされる。 ニガ砂糖サトウ
1877 明治メイジ10 8月15日 大島オオシマダイ支庁シチョウ支庁シチョウチョウとして柿原カキハラ義則ヨシノリ長崎ナガサキ出身シュッシン)が着任チャクニン(「大島オオシマ代官記ダイカンキ」「史伝シデン丸田マルタミナミサト」ではこれを6ガツのこととしている) ニガ砂糖サトウ史伝シデン丸田マルタミナミサト大島オオシマ代官記ダイカンキ
1877 明治メイジ10 10ガツ モトイシュンリョウほか2メイシマ役人ヤクニン免職メンショクとする 名瀬ナゼ中巻チュウカン大島オオシマ代官記ダイカンキ
1877 明治メイジ10   柿原カキハラ支庁シチョウチョウは、「ヒザ解放カイホウについての意見書イケンショ」をケン提出テイシュツ 瀬戸内セトウチマチ
1877 明治メイジ10   このころ、柿原カキハラ支庁シチョウチョウ人民ジンミンモノシマ役人ヤクニン任命ニンメイして人民ジンミンクズしをはかる 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1878 明治メイジ11   大島オオシマ大支庁ダイシチョウ大島オオシマ支庁シチョウアラタめる(大島オオシマ支庁シチョウカクシマ支庁シチョウとは同格ドウカクとなる)。 宇検ウケン部落ブラク郷土キョウド
1878 明治メイジ11 1月28日 柿原カキハラ支庁シチョウチョウ岩村イワムラ県令ケンレイタイし、商社ショウシャ廃止ハイシウカガいをたてる 喜界キカイマチ瀬戸内セトウチマチ
1878 明治メイジ11 2月7日 柿原カキハラ支庁シチョウチョウによる「ヒザ解放カイホウ意見書イケンショ」についてケンは、説諭セツユによるスベてのヒザ解放カイホウ促進ソクシンすることがダイ1会議カイギ決議ケツギされる 瀬戸内セトウチマチ
1878 明治メイジ11 2ガツ 岩村イワムラ県令ケンレイ大島オオシマ商社ショウシャ以外イガイ鹿児島カゴシマ商人ショウニンとの黒糖コクトウ売買バイバイ許可キョカ。それ以外の商人との交易は不許可 ニガ砂糖サトウ
1878 明治メイジ11 4ガツ 岩村イワムラ県令ケンレイ青龍セイリュウマルにて奄美アマミ視察シサツ民衆ミンシュウ包囲ホウイ奄美アマミ視察シサツ中止チュウシ沖縄オキナワへ) ニガ砂糖サトウ
1878 明治メイジ11 4月19日 ヒザ解放カイホウについて、カカヌシらがヨウオンリョウ支払シハラいをモトめて歎願書タンガンショ提出テイシュツ 瀬戸内セトウチマチ
1878 明治メイジ11 5月18日 岩村イワムラ県令ケンレイ来年度ライネンドからの大島オオシマ商社ショウシャ一手イッテ販売ハンバイ中止チュウシするが、大島オオシマ商社ショウシャ以外イガイ商人ショウニンフクめた約定ヤクジョウ販売ハンバイ必要ヒツヨウ決定ケッテイし、契約ケイヤク締結テイケツのための「代人ダイニン」をくこととした。(「知名町チナチョウ」には、代人ダイニンくかどうかまた官選カンセン民選ミンセンかも自由ジユウとするムネ通達ツウタツ正副セイフク戸長コチョウにあったとしている) 瀬戸内セトウチマチチョウ
1878 明治メイジ11 ガツ カキハラ支庁シチョウチョウ部下ブカ千家センケソンウエ鹿シカさせ、奄美アマミ実情ジツジョウ報告ホウコク 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1878 明治メイジ11 7月23日 人民ジンミン名瀬ナゼ大集会ダイシュウカイ開催カイサイ ニガ砂糖サトウ
1878 明治メイジ11 ガツ 柿原カキハラ支庁シチョウチョウ約定ヤクジョウ販売ハンバイ代人ダイニン官選カンセンとするムネ決定ケッテイシマニン反発ハンパツ 瀬戸内セトウチマチ
1878 明治メイジ11 ガツ 柿原カキハラ支庁シチョウナガ次長ジチョウ8トウゾク千家センケミコト解任カイニンシン支庁シチョウチョウとして2トウゾク藤井フジイタテ着任チャクニン柿原カキハラモト支庁シチョウチョウ任命ニンメイしたシマ役人ヤクニン解任カイニンし、モトイシュンリョウおよびオモエイセイ登用トウヨウする。大島オオシマ商社ショウシャ解体カイタイ。このコロ徳之島トクノシマ商社ショウシャ喜界島キカイジマショ商社ショウシャ解体カイタイされる。 ニガ砂糖サトウ名瀬ナゼ中巻チュウカン大島オオシマ代官記ダイカンキ
1878 明治メイジ11   一手イッテ売買バイバイ契約ケイヤク満期マンキ解除カイジョとなり、砂糖サトウ勝手カッテ売買バイバイとなる ダイ奄美アマミ
1878 明治メイジ11   ヤンチュ解放カイホウ運動ウンドウおこる ニガ砂糖サトウ
1878 明治メイジ11   本土ホンドから砂糖サトウショウ相次アイツ進出シンシュツ ニガ砂糖サトウ
1879 明治メイジ12 ガツ 大島オオシマ商社ショウシャ設立セツリツ上記ジョウキ大島オオシマ商社ショウシャとは別物ベツモノ大島オオシマサントウ交易コウエキ目的モクテキ資本金シホンキン万円マンエン 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン瀬戸内セトウチマチ
1879 明治メイジ12 ガツ 大島オオシマ家人ケニンカカヌシらが、家人ケニン解放カイホウトモナ養育ヨウイクリョウ支払シハラいを県令ケンレイ嘆願タンガン ダイ奄美アマミ
1879 明治メイジ12   郡制グンセイをしき、郡役所グンヤクショ名瀬ナゼホウ金久カネクムラく。支庁シチョウチョウグンチョウとする(大島オオシマ郡長グンチョウ中村ナカムラケン ニガ砂糖サトウ宇検ウケン部落ブラク郷土キョウド大島オオシマ代官記ダイカンキ
1879 明治メイジ12 ガツ 丸田マルタナン東京トウキョウ移住イジュウ重野シゲノヤス繹の紹介ショウカイ外務省ガイムショウ翻訳ホンヤクケン通訳ツウヤク嘱託ショクタクとなる 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1879 明治メイジ12 12ガツ 康泰ヤスハタシャ設立セツリツ徳之島トクノシマサントウ交易コウエキ目的モクテキ資本金シホンキンマン千円ゼンエン 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1880 明治メイジ13 ガツ 岩村イワムラ県令ケンレイ巡回ジュンカイ 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1880 明治メイジ13 2月15日 大阪オオサカ綿メントウ共進会キョウシンカイ開催カイサイされる(4ガツニチまで。内務省ナイムショウ主催シュサイ内務卿ナイムキョウ松方正義マツカタマサヨシ。このときにスナオカワツイショウ ニガ砂糖サトウ名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1880 明治メイジ13 ガツ ショウサン会社カイシャ設立セツリツ徳之島トクノシマサントウ交易コウエキ目的モクテキ資本金シホンキン万円マンエン 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1880 明治メイジ13   丸田マルタ南里ナンリ川田カワダかまと結婚ケッコン 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1880 明治メイジ13 11ガツ トモシャ設立セツリツ大島オオシマ砂糖サトウ交易コウエキ目的モクテキ資本金シホンキン千円センエン本拠ホンキョムラ 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1880 明治メイジ13 11ガツ 南島ナントウシャ設立セツリツ沖縄オキナワ大島オオシマサントウ交易コウエキ目的モクテキ資本金シホンキン万円マンエン矢野ヤノサク兵衛ベエ中心チュウシン 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1882 明治メイジ15   砂糖サトウ減収ゲンシュウにより島民トウミン負債フサイ増加ゾウカ歳入サイニュウ半分ハンブン借金シャッキン返済ヘンサイに。利息リソク3ワリ ニガ砂糖サトウ
1882 明治メイジ15 ガツ サントウシツ向上コウジョウ目指メザし、大島郡オオシマグンの14メイ戸長コチョウ連名レンメイ改良カイリョウ組合クミアイ組織ソシキし、砂糖サトウ重量ジュウリョウ検査ケンサ実施ジッシ 徳之島トクノシママチ
1882 明治メイジ15   農商務省ノウショウムショウ増産ゾウサン指導シドウ ニガ砂糖サトウ
1882 明治メイジ15 ガツ 中村ナカムラケン垂水タルミ郡長グンチョウとして転出テンシュツ。10ガツ鳥丸トリマル一六16大島オオシマ郡長グンチョウとして就任シュウニン 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1883 明治メイジ16 ガツ 農商務省ノウショウムショウゾク宮里ミヤザトセイシズ鹿児島県カゴシマケンゾク岩山イワヤマ直昌ナオマサフル志村シムラ伊津イツ部村ブソンシロ下地シタジトウ製造セイゾウ 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1883 明治メイジ16   大島オオシマサントウ市場シジョウ価格カカク暴落ボウラク品質ヒンシツ低下テイカにより) ニガ砂糖サトウ
1884 明治メイジ17   オオくの砂糖サトウ商人ショウニン奄美アマミ進出シンシュツ 瀬戸内セトウチマチ
1884 明治メイジ17 10ガツ 郡長グンチョウ鳥丸トリマル一六16病死ビョウシ 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1885 明治メイジ18 ガツ モト農商務省ノウショウムショウゾク宮里ミヤザトセイシズ(鹿児島カゴシマ出身シュッシン)が大島オオシマグンチョウ就任シュウニン糖業トウギョウ振興シンコウ ニガ砂糖サトウ名瀬ナゼ中巻チュウカン大島オオシマ代官記ダイカンキ
1885 明治メイジ18   沖永良部オキノエラブジマ商社ショウシャ解体カイタイ 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1885 明治メイジ18 ガツ メイシャ設立セツリツ沖永良部オキノエラブジマサントウ交易コウエキ目的モクテキ資本金シホンキンマン千円センエン 名瀬市ナゼシ中巻チュウカン
1885 明治メイジ18   県令ケンレイ渡辺ワタナベ千秋チアキは、内務卿ナイムキョウ山県有朋ヤマガタアリトモにあてて奄美アマミへの「トウチョウ設置セッチ」について上申ジョウシン 瀬戸内セトウチマチ
1885 明治メイジ18 ガツ 県令ケンレイ渡辺ワタナベ千秋チアキグン役所ヤクショ廃止ハイシし、金久カネク支庁シチョウ設立セツリツ(「名瀬ナゼ中巻チュウカン」には、渡辺ワタナベ千秋チアキ来島ライトウは10ガツ18ニチ郡役所グンヤクショ廃止ハイシを19ニチのこと。支庁シチョウチョウ新納ニイロナカ3トモナってきたとしている) ニガ砂糖サトウダイ奄美アマミ名瀬ナゼ中巻チュウカン
1885 明治メイジ18   このころ砂糖サトウ価格カカク下落ゲラク砂糖サトウ取引トリヒキ会社カイシャ倒産トウサンするモノオオ 瀬戸内セトウチマチ
1885 明治メイジ18 10月19日 郡役所グンヤクショ廃止ハイシ ニガ砂糖サトウダイ奄美アマミ名瀬ナゼ中巻チュウカン大島オオシマ代官記ダイカンキ
1885 明治メイジ18 10月21日 金久支庁を開庁。新納中三が支庁長に就任(大島郡長の宮里正静は支庁長代理となる) 宇検ウケン部落ブラク郷土キョウド
1885 明治メイジ18   1885年度ネンド農民ノウミン負債フサイ状況ジョウキョウは、西ニシホウが1550エンヒガシホウが9153エンサネホウが2925エンレンホウが4609エン大島オオシマ全体ゼンタイとしては105860エンであった。 瀬戸内セトウチマチ
1886 明治メイジ19 ガツ 鹿児島カゴシマ商人ショウニンらは鹿児島県カゴシマケントウギョウ組合クミアイ設立セツリツ組合員クミアイイン鹿児島カゴシマ県内ケンナイ商人ショウニンのみとする) 喜界キカイマチ
1886 明治メイジ19 ガツ 内務ナイム大臣ダイジン山県有朋ヤマガタアリトモ宇検ウケン瀬戸内セトウチ視察シサツ 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1886 明治メイジ19   台風タイフウ農民ノウミン負債フサイ60万円マンエンに(このトシサントウタカは799マン6009キン ニガ砂糖サトウ大島オオシマ代官記ダイカンキ
1886 明治メイジ19 ナツ 新納シンノウ中三ナカサン大蔵卿オオクラキョウ松方マツカタ正義マサヨシ奄美アマミ糖業トウギョウ振興シンコウき、勧業カンギョウ資金シキン提供テイキョウ要請ヨウセイし、10万円マンエンけることに成功セイコウ(「瀬戸内セトウチマチ」では大臣ダイジンメイボウ大臣ダイジンとし、氏名シメイアキらかにしていない) ニガ砂糖サトウダイ奄美アマミ瀬戸内セトウチマチ
1886 明治メイジ19 ガツ 金久カネク支庁シチョウ大島オオシマシマチョウ改称カイショウし、シマく。 名瀬市ナゼシ下巻ゲカン宇検ウケン部落ブラク郷土誌キョウドシ
1886 明治メイジ19   シンノウナカは、大阪オオサカ阿部アベ商会ショウカイ(阿部アベ彦太郎ヒコタロウ)に奄美アマミへの進出シンシュツ要請ヨウセイ ニガ砂糖サトウダイ奄美アマミ
1886 明治メイジ19 4月19日 丸田マルタミナミサト東京トウキョウにて死去シキョ(35サイ 史伝シデン丸田マルタミナミサト
1886 明治メイジ19 12月21日 渡辺ワタナベ県令ケンレイ新納シンノウ支庁シチョウチョウ大阪オオサカいたまま解任カイニン後任コウニンシマツカサモリオカシン翌年ヨクネンの4ガツ着任チャクニンするまでのアイダ宮里ミヤザトセイシズ支庁シチョウチョウ代行ダイコウ)(「喜界キカイマチ」は新納ニイロ後任コウニン多賀タガ義行ヨシユキとしている)(「龍郷タツゴウマチ」は多賀タガケン書記官ショキカン実際ジッサイ赴任フニンぜず、宮里ミヤザト代行ダイコウした、としている) ニガ砂糖サトウ名瀬ナゼ中巻チュウカン喜界キカイマチ龍郷タツゴウマチ瀬戸内セトウチマチ
1887 明治メイジ20 ガツ 文部モンブ大臣ダイジン森有礼モリアリノリ奄美アマミ沖縄オキナワ視察シサツ 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1887 明治メイジ20   大阪オオサカ商人ショウニン阿部アベ彦太郎ヒコタロウ来島ライトウし、各地カクチ阿部アベグミ商店ショウテン開設カイセツ ダイ奄美アマミ
1887 明治メイジ20   前年ゼンネン台風タイフウにより、このトシ砂糖サトウは500マンキン大幅オオハバ減収ゲンシュウとなる。出来デキトウは330マン7787キン 名瀬市ナゼシ下巻ゲカン大島オオシマ代官記ダイカンキ
1887 明治メイジ20   三重ミエ県人ケンジン石井イシイ清吉セイキチ来島ライトウし、高利貸コウリカシ商人ショウニンへの反対ハンタイ運動ウンドウをよびかける ダイ奄美アマミ
1887 明治メイジ20 ガツ シマ森岡モリオカシン赴任フニン 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1887 明治メイジ20 4月10日 県令ケンレイダイ39ゴウ(「トウショウ組合クミアイ規則キソク」(「産糖取締規則」))が発令ハツレイされる(阿部アベグミ鹿児島カゴシマ商人ショウニン利益リエキ保護ホゴすることが目的モクテキ)(施行セコウは1888ネンガツニチ ニガ砂糖サトウダイ奄美史アマミシ名瀬市ナゼシ下巻ゲカン喜界キカイマチ
1887 明治メイジ20 ガツ 鹿児島カゴシマ商人ショウニン山田ヤマダウミ3中心チュウシンとなり、南島ナントウ興産コウサン商社ショウシャ発足ホッソク(「ダイ奄美史アマミシ」「大島郡オオシマグン来歴ライレキ」はこれを明治メイジ19ネンのこととしている)(「大島オオシマ代官記ダイカンキ」はこのトシの3ガツ大島オオシマ支店シテン創立ソウリツとしている) ニガ砂糖サトウダイ奄美史アマミシ名瀬市ナゼシ下巻ゲカン喜界キカイマチ大島オオシマ代官記ダイカンキ大島郡オオシマグン来歴ライレキ
1887 明治メイジ20   内地ナイチ商人ショウニン田中タナカ圭三ケイゾウ喜界島キカイジマにおいて南島ナントウ興産コウサン商社ショウシャ負債フサイあるモノ糾合キュウゴウし、ユウ同盟ドウメイ結成ケッセイ阿部アベグミ提携テイケイし、南島ナントウ興産コウサン商社ショウシャ対立タイリツ3方法ホウホウ運動ウンドウ ダイ奄美アマミ
1887 明治メイジ20   阿部アベグミ商社ショウシャとの対立タイリツ激化ゲキカ ダイ奄美史アマミシ
1887 明治メイジ20 ナツ フモトジュンソク有史ユウシハカ県令ケンレイ39ゴウ撤廃テッパイ運動ウンドウをおこす ダイ奄美アマミ
1888 明治メイジ21 ガツ シマモリ長義ナガヨシ着任チャクニン森岡モリオカマコト群馬県グンマケン書記官ショキカンとして転任テンニン 大島オオシマ代官記ダイカンキ
1888 明治メイジ21   奄美アマミ財政ザイセイケンからハナし、独立ドクリツ経済ケイザイとする(昭和ショウワ15ネンまで) 宇検ウケン部落ブラク郷土キョウド
1888 明治メイジ21 ガツ 郡内グンナイ22かソン戸長コチョウ有志ユウシアツめ、風水害フウスイガイ対策タイサクオヨ負債フサイ消却ショウキャク方法ホウホウカンする会議カイギ開催カイサイ名瀬市ナゼシ西本願寺ニシホンガンジ説教セッキョウショ)。このトキ石井イシイ清吉セイキチ沖縄オキナワ産業サンギョウ会社カイシャ社長シャチョウ徳之島トクノシマカメ在住ザイジュウ)が出席シュッセキし、「債権サイケン債務サイム無効ムコウ」を主張シュチョウし、復興策フッコウサクとして3方法ホウホウ運動ウンドウ提案テイアン 喜界キカイマチ瀬戸内セトウチマチ
1888 明治メイジ21   フモトジュンソク県議会ケンギカイ県令ケンレイダイ39ゴウ追求ツイキュウノチ県令ケンレイダイ39ゴウ撤廃テッパイ ニガ砂糖サトウダイ奄美史アマミシ名瀬市ナゼシ下巻ゲカン
1889 明治メイジ22 ガツ 3方法ホウホウ運動ウンドウ2回目カイメ有志ユウシ総会ソウカイ名瀬ナゼ西本願寺ニシホンガンジ開催カイサイ裁判サイバン闘争トウソウについてめた。また新納ニイロゼンシマ運動ウンドウのリーダーとしてマネくことを決定ケッテイ新納ニイロはこのトシの12ガツ鹿児島市カゴシマシ窮死キュウシ 瀬戸内セトウチマチ
1890 明治メイジ23 6月25日 喜界キカイジマ田中タナカ圭三ケイゾウ警察ケイサツ留置リュウチしたことにタンハッし、農民ノウミン警察ケイサツ派出ハシュツジョ襲撃シュウゲキ喜界島キカイジマ凶徒キョウトアツムシュウ事件ジケン)(この事件ジケンノチ長崎ナガサキ控訴コウソ裁判所サイバンショにおいて無罪ムザイとなる) ニガ砂糖サトウダイ奄美史アマミシ喜界キカイマチオケ
1890 明治メイジ23 9月29日 南島ナントウ興産コウサン商社ショウシャとの裁判サイバン大審院ダイシンインシマミンガワ欠席ケッセキのまま敗訴ハイソ 瀬戸内セトウチマチ
1891 明治メイジ24   阿部組アベグミ閉鎖ヘイサ ニガ砂糖サトウ
1893 明治メイジ26 ハル 南島ナントウ興産コウサン商社ショウシャ実質ジッシツ整理セイリ ニガ砂糖サトウ
参考サンコウ文献ブンケン
原井ハライ一郎イチロウチョニガ砂糖サトウ」(高城タカギ書房ショボウカン 2005ネン
ノボショユメチョダイ奄美アマミ」(ハラ書房ショボウカン 1975ネン
・「名瀬ナゼジョウナカカン
喜界キカイマチ編纂ヘンサン委員会イインカイヘン喜界キカイマチ」(喜界キカイマチ発行ハッコウ 2000ネン
・「宇検ウケン部落ブラク郷土キョウド
・「瀬戸内セトウチマチ 歴史レキシヘン」 (瀬戸内セトウチマチ発行ハッコウ 2007ネン
和泊ワドマリマチ編集ヘンシュウ委員会イインカイヘン和泊ワドマリマチ」(和泊ワドマリマチ 1985ネン
・「大島郡オオシマグン来歴ライレキ」「大島オオシマ惨状サンジョウ実記ジッキ」(「奄美アマミ郷土キョウド研究会ケンキュウカイホウダイ11ゴウ所収ショシュウ