日露戦争から一〇〇年
塩川伸明
本年二〇〇五年が日露戦争一〇〇周年にあたることはよく知られており、多方面からいろいろな議論が提出されている。ここでは、戦争そのものではなく、長期的な観点からみたその結果について、あまり注目されていない角度から考えてみたい。
ロシアでは日露戦争の敗北が「第一革命」(一二年後の本格的なロシア革命と対比してこのように呼ばれる)の引き金となったとはよくいわれることだが、戦争と国内改革の関連性については、もう少し広い角度から考えてみる必要があるように思われる。日露戦争よりも約半世紀前、クリミヤ戦争の敗北を喫したロシアは、その衝撃の中から、農奴解放をはじめとして「大改革」と総称される一連の改革に乗り出し、近代化への歩みを進めた。もちろん、そこには種々の矛盾がはらまれていたが、ともかくこれがロシアの歴史における重要な分岐点だったことは確かである。
日露戦争の渦中では、そもそもロシア国内ではあまり人気のない戦争だった上に、戦況が思わしくないという状況の中で、政府批判の動きが高まり、帝政政府はそれへの対応として、自由主義者をなだめるため、一九〇四年一二月の勅令で一連の改革を約束した。しかし、これは中途半端なものにとどまり、政府批判は沈静化しなかった。翌〇五年には一月の「血の日曜日」事件を皮切りに革命運動が高まり、八月の国会開設法も不十分なものとみなされ、革命運動が持続した(これはポーツマス講和条約の直前のこと)。ついに一〇月にいたって、国会開設(八月の段階では諮問機関と想定されていたが、今度は立法機関とし、選挙権も大幅に拡大)、人身の不可侵、市民的自由の保障などを約束する皇帝の詔書が発布された。これによってようやく革命運動を沈静化することができたのである。
こうした背景をもちながら、一九〇六年四月に公布された国家基本法典は、種々の限界つきながらも近代的立憲制の要素を部分的に取り込もうとしたものであり、これ以降、十数年の間、ロシアは議会政治と政党政治の経験を不十分ながら積むことになる。当時のロシアを同時代的に観察していたドイツの社会学者マックス・ウェーバーはこの基本法典体制を「外見的立憲制」と特徴づけた。「外見的」という修飾語は厳しい批判的評価を含意するが、そうした条件付きにもせよ、とにかく「立憲制」「議会制」に近い要素が取り込まれたことはロシア史において画期的な意味をもった。これは、いってみれば敗戦のたまものとみることができる。半世紀前のクリミヤ戦争に続く敗北が、国内改革の原動力となったのである。
他方、戦争に勝利した日本は、これを契機に朝鮮半島への支配を固め、帝国主義と軍国主義への歩みを進めた。明治初期の日本は自らが植民地化されるかもしれないという危機感をかかえていたが、これ以降の日本はむしろ周辺国に対して植民地化を推し進める主体になった。日本の明治憲法採択はロシアの一九〇六年基本法典に一七年先立ち、条件付きの立憲君主制化という点ではロシアを先取りしていたが、日清・日露という相次ぐ戦勝は、かえって国内改革を遅らせる効果をもったように思われる。
日露戦争から四〇年後、両国の運命は逆転した。一九四五年に敗者となった日本は、敗戦の副産物として新憲法制定をはじめとする一連の改革を経験した。新憲法および戦後改革については、種々の問題点も指摘されており、手放しでの全面評価には異論も多いが、それにしても、少なくとも戦前の体制に比べれば一歩前進を意味するという程度にまでは大方の合意があるだろう。かつてのロシアの場合と同様、敗戦が改革の契機となったのである。これとは対照的に、ロシア帝国の後継者たるソ連は今度は戦勝国となったが、そのことはソ連がスターリン独裁からの脱却を遅らせる効果をもった。実は、大戦中のソ連には「自然発生的な非スターリン化」ともいうべき動きがみられたのだが、戦勝によってスターリン大元帥の権威はいやが上にも高まり、改革の芽は摘まれてしまったのである。この国が本格的な改革の歩みに乗り出すには、更に約半世紀後のもう一つの敗戦――「冷戦」という名の戦争における敗北――を待たねばならなかった。
このように歴史を振り返ってみると、敗戦はしばしば国内改革の契機となる一方、戦勝国は傲りのゆえに改革の機会をつかみそこねやすいという連関があるように思われてならない。歴史の法則とまでいうつもりはないが、往々にしてそのようになりがちだという傾向性は指摘できるのではなかろうか。
近年、世界各国で、急激に進むグローバル化・ボーダレス化への反撥としてナショナリズムの興隆が目立つ。そこにおいては、それぞれの国が勝つか負けるか――文字通りの意味だけでなく、経済面・文化面などでの「戦争」を含めて――が問題にされ、「あいつらに負けてなるものか」という対抗感情があおられている。こうした傾向が国家間の対立激化を招き、友好や平和の障害になるのではないかという懸念もしばしば表明されるが、「そんな呑気なことを言っている場合ではない。国が負けてしまったらどうにもならないではないか」という叫び声は、かなりの浸透力をもっているようにみえる。しかし、戦争における勝利というものは国民にとっては必ずしも幸いをもたらすとは限らないということを、歴史の教訓としてかみしめてみてもよいのではなかろうか。
(『東京大学新聞』二〇〇五年一一月二九日)