現代道徳論の冒険――永田えり子『道徳派フェミニスト宣言』をめぐって
 
 
 
 「道徳派」を名のるのは勇気のいることである。「道徳」といえば、うっとうしく、押しつけがましいものだという反応がすぐ返ってくることが予想される。そればかりではない。フェミニズムに反撥する一部の男性の間には、「フェミニズムの主張は、学校の道徳の先生のいうようなもので、いっていることは正論かもしれないが、押しつけがましく、面白くない」という発想がある。そのことを念頭におくなら、「道徳派フェミニスト」を名のることは、そのようなステレオタイプ的反応を強めるおそれがある。こうした反応がどの程度一般的かは分からないが、少なくとも私は本書の題名を新聞広告でみたとき、反射的にそのような危惧を抱いた。
 この危惧は本書の序章を読むうちに、かなりの程度解消された。本書のテーマに関し私自身が特に専門的に語る資格をもっているわけではないにもかかわらず、あえて書評を書いてみたいという誘惑を感じたのは、そこにおける道徳論に引きつけられるものを感じたからである。
 一般に、道徳や価値や規範について、独善的にもならずシニシズムにも陥らずに論じるのは非常に難しい。独善的な道徳論は掃いて捨てるほどあるが、そのようなものが人の心をとらえることができないのは自明である。では、道徳も価値も規範も、いっさい語るべきではないのだろうか。これは、通常「価値」の問題から距離をおくことに慣れている社会科学者にとってチャレンジングな問いである。
 「自由」の観念が広まっている現代にあっては、「どういう価値観をもとうと各人の自由であり、価値観について優劣をいうことはできない」という価値相対主義がわりと受けいれられやすい。もっとも、では本当にあらゆる価値が相対的なのか、ファシズムだろうが、スターリニズムだろうが、オウム真理教だろうが、すべてが等価値で、何をとっても各人の自由ということなのかと問うと、そこまで言い切る人は珍しく、やはり何らかの意味で受容可能な価値とそうでないものとの区別を考えざるを得ないというのが大方の反応だろう。しかし、では、そうした区別をどのような基準で設定することができるのか、またしても独善主義や特定文明(特に近代西欧)のエスノセントリズムの押しつけに回帰するのではないか、という疑念も打ち消しがたい。社会主義の崩壊は、社会主義という特定の理念・価値観だけの崩壊を意味したのか、それとももっと広い理想追求の試み総体に関わりがあるのか、また社会主義の否定は「市場経済・自由主義」の絶対的価値としての優越を意味しているのか――このような問題に日頃関心を寄せている者として、本書序章の問題提起は、いくつかの点で非常に示唆的なものと感じられた。
 著者が序章で提示している考えは次のようなものである。どこかに絶対的な真理や価値があるとか、それを論証できるというようなことはいえない。しかし、それでも人間は暫定的な真理を想定せずに生きていくことはできない。そして、そのような暫定的真理としての道徳観に対立があるときは、討論と説得を重ねることで「比較的正しいと思えるような社会」の構想を選択するしかない、ということである。私の言葉で勝手に言い換えさせてもらえるなら、そうした討論と説得の過程で少しでも広く理性的に合意できる間主観的な価値を求めようとする立場といえよう(1)
 こうして、序章の議論には大いに共鳴できるのだが、本論に入って、具体的な論の展開を読むうちに、多くの疑問にぶつかる。以下では、本書の問題提起への高い評価を前提しつつ、そこから先にどのような問題が残されているかについて、若干の疑問を提出してみたい。
 
 
 何よりも最大の問題は、ある種の行為が「非道徳的だ」「悪い」とみなされうる――間主観的な広い合意がある――として、そうした「悪」にどのように対処すべきかということは、別個の考察を要する問題であるのに、とにかく「悪い」ということの論証に全力を集中してしまい、ややもすれば単純な糾弾主義の印象を生じてしまうという点にある。本書の眼目が、とりあえずある種の行為が「悪い」といえることの論証にあるとするなら、それにどのように対処すべきかはその後の問題であり、本書の枠外の問題だということなのかもしれない。実際、以下で私が提起する疑問は、著者の主張と必ずしも論理的に背反するものではない。にもかかわらず、著者があれこれの行為について「悪い」ということの論証に熱中しすぎることは、一部の読者に「糾弾主義」との印象を残し、反撥を招く要因ともなりかねないように思う。それは、折角の貴重な問題提起であるだけに、著者のために残念なことである。
 「悪」と認定される行為にどのように対処すべきだと著者が考えているのかは、必ずしも体系的に提示されておらず、読みとりにくい。ただ、ある行為を社会が認めないということの表示として、一定のサンクション(文脈からして刑事罰ととれる)を科さなくてはならない、それはそうしたサンクションの効果に関わりなく、とにかく態度表示として重要なのだ、というような記述(二〇一‐二〇三ページ)をみると、どうも禁止とか罰則といった対処法に傾斜しているような観を免れない。
 しかし、社会的に「悪い」と認定されていることへの対応にはいろいろな種類のものがあり、法的制裁はその一つに過ぎない。法的に制裁するのが妥当か、仮にそうだとして、どの程度の重い制裁を科すべきか、またその法をどの程度厳格に履行すべきか(「ザル法」であることを広く認められている法は、売春防止法に限らず、道路交通法をはじめとして他にも例がある)。あるいは法的制裁以外の対応がよいのか、そうだとすれば、それはどのような形をとるべきか、言論での批判か、糾弾闘争か、教育的措置か、部分的規制と棲み分けその他の方法がありうるか、等々の問題がある。実際、広く「悪」とみなされても刑事罰の対象にならない行為はいくらでもある。その中には、性差別とかかわるものもあれば、それとは無縁なものもあり、性差別的な行為だけが放置されているわけではない(相対的に性差別が放置されやすいというような傾向性はいえるかもしれないが、少なくとも論理的には別のことである)。
 あることが「悪い」ということを社会が認めたとして、それを法的に禁止すべきだということに必ずしもならないのはなぜだろうか。どのような規制も、絶対ということはありえないし、規制によって別の「悪」――国家の過剰介入、濫用、また偽善主義や脱法行為の横行など――が生じてしまうこともありうる。これらに対する万能の処方箋はなく、それぞれの具体的事情に応じたバランス感覚が重要である。著者は、ややもすれば、ある特定の方向に論理を徹底しようとするあまり、そうしたバランス感覚を失いがちであるような気がしてならない(2)
 このような私の批評に対し、著者は、「そのような考え方については、プラグマティズム、機能主義への批判として既に序章で論破してある」と答えるかもしれない。しかし、私にはそうは思えない。著者が「プラグマティズム、機能主義」として想定する議論は、「道徳をいうのは無用だ」という立場のようである。しかし、過剰取り締まりや偽善主義を恐れるのは「道徳をいう必要がない」という立場ではなく、むしろ道徳的判断の必要性を(著者とともに)認めた上で、そこから先の対応の話である。
 例えば、テレビで露骨な猥褻放送をするのは禁じられている(これも法による規制と、「自主規制」の双方がある)。だが、「俗悪番組」といわれるものの中には、禁止コードには当たらなくとも、良識ある多くの人の眉をひそめさせるものがある(それらの中に性差別の要素が含まれることもよくあるが、常にそうだとは限らず、性差別を含まなくても、俗悪で、子供の教育に悪いとか、大人でも見ていて気分が悪くなるというような例はいくらでもある)。そうした番組が「道徳的に悪」だとして、だから禁止すべきだということになるかどうかは微妙である。規制の増大は「角を矯めて牛を殺す」おそれがある。そのような番組を規制すべきでないと主張するのは、何も、そうした番組が「悪くない」、「価値として『高尚な』ものと等価だ」、「言論・表現の自由の一部として当然の権利だ」と主張することではない。「悪い」「できればなくなってほしい」と考えても、敢えて規制とか禁止とかいう措置をとるのは、より大きな危険を招くと考えるからである。
 かつてソ連では、集団的強姦や未成年者への強姦は、八年から一五年の自由剥奪(場合によっては、プラス二年から五年の流刑)あるいは死刑と規定されていたことがある。集団的強姦や未成年者への強姦が凶悪犯罪であることは論をまたない。これに重罰を科すという姿勢も、その度合を別とすれば、賛同できるものがある。しかし、ここまで重い刑を定めた法制は、どういう結果を招いたか。過度に重い刑を被告に科すことをためらう裁判官は、被害者側に落ち度がなかったかを詮索し、また、しばしば法に定められたよりも軽い刑を言い渡したのである(3)。つまり、重罪で懲らしめるはずの規定が、結果的には、むしろ被害者を苦しめるような捜査方法を促したり、法の規定をくぐって軽い刑を言い渡すような慣行を広めたのである(4)
 同じくソ連では、かつてテレビも雑誌も極度に禁欲的で、ポルノのポの字も見られなかった。「われわれは少なくとも公には『上品』であるべきではないか」(二二五ページ)という著者の観点に即していえば、まさしく「少なくとも公には『上品』」な社会だったのである。しかし、ペレストロイカ以後、いったん「自由」の観念が広まると、ポルノ野放し社会が現出した(現在は再び規制論が高まりつつあるが)。これはもちろん、(私の主観的判断として)望ましいことではない。しかし、だからソヴェト時代のような、表面的禁欲と偽善の時代に戻るべきだということになるだろうか(5)
 「自由」とは必ず「濫用の自由」を含むものである。「善のみをなし、悪は行なわない自由」などは自由ではない。自由化にはどうしてもそうしたリスクがつきまとうのである。たとえ大きなリスクがあっても、ともかく自由化を選ぶしかない、そこにおいて行き過ぎが生じるとしても、それへの対処は規制への逆行ではなく、自発的経験の蓄積の中から、自ずと中庸――もちろん、「何が中庸か」を一義的に決めることはできず、多くの人の理性的討論の積み重ねの中から、徐々に間主観的に形成されるしかない――へと移行することを期待する、というのが自由化の決断だったはずである。
 
 
 著者の叙述が糾弾主義以外のものを排除しているというわけではない。例えば、十分な信頼関係があれば許される発言も、そうでない場合には許されないという指摘(九七‐九八ページの注14)をとりあげてみよう。この指摘はさりげなく述べられているだけだが、著者の議論とは異なった方向に展開することもできるように思われる。次のような状況を想定してみよう。二人の人がいて、一方の側は「自分たちの間には十分な信頼関係がある」と思ってある種の発言をしたが、他方の側は、そのような信頼関係などないと思っていたというようなケースである(ここで著者が念頭においているのは「からかい」「冗談」「親身の忠告」などだが、性的関係の働きかけについても同様のことがいえる)。この場合、もちろん、後者の側は不快な思いをしたわけで、その意味で前者の行為は不当だった、「悪い」ということができる。しかし、それは、二人の間の関係の誤認、いわば「過失」によるものであり、相手の主体性を無視したとか、見下していたということではない。付け加えるなら、こうした誤認によって相手に不快な思いをさせるということは、性別に関わりなく起こることである。確かに、これまでの社会では、女性の方が相手に気を使わざるを得ないことが多く、その分、このような誤認を犯す可能性が相対的に低いということはいえるかもしれないが、絶対にないとはいえない。またいうまでもなく同性間でも起こりうる。そして、この種の不快な行為は日常的に至るところで起きている。それは、「いいことか悪いことか」と問われれば、「悪い」ということになるが、常にすべてを糾弾すべきだとか規制すべきだということになるわけではない。一般に人間関係というものは微妙なもので、親密度についても、当事者の間で認識が異なるということはよくある。それどころか、同じ人も、時により違った感覚の間を揺れる――あるときはかなり濃厚な親密感をいだき、他のときはそれがすっかり冷めるというような――ことがある。そうした関係において誤認というのは避けられないことではないだろうか。
 この問題は、次のような問題とも結びつく。ある人が他の人に一定の損害なり迷惑なりを及ぼしたとして、その際、加害者の「罪」の重さの度合と、被害者の受けた被害の重さとは必ずしも正比例関係にあるわけではなく、むしろ大いに食い違うことがありうる。たとえば、同情すべき条件下で軽い過失を犯したことがもとで重大な事故が発生し、大惨事が起きるということもあれば、逆に、凶悪な意図をもって人を殺そうと試みたが失敗し、ほんのかすり傷を負わせるにとどまったということもありうる。私は刑法には全く不案内で、こうした問題がどのように論じられているのかに通じていないが、とにかく、被害者の側に即して「このような重さの被害を受けたのだから、それに相応する罰があってしかるべきだ」と考える場合と、加害者の側に即して「この程度の重さの罪だから、それに相応する対応が必要だ」と考える場合とではズレが起こりうる。こうしたズレにどういう風に対処すべきかの回答を出すのは容易ではない。ただ、少なくともそうしたズレを相互に認識し、双方の事情を理解することは不可欠と思われる。いま述べたのは性別に関わらない一般論だが、セクシュアル・ハラスメント(いわゆるセクハラ)事件の場合にも、こうしたズレがよく現われるように思われる。多くの女性が「どうして男たちは、この問題にこんなに鈍感なのか」と怒り、多くの男性が「そこまで糾弾するのはちょっと行き過ぎじゃないか」と感じるのは、そうしたズレに由来するのではないだろうか(6)
 著者の叙述の中に、そうした問題に触れた個所がないわけではない。「負の外部効果」「受忍限度」「社会慣習としての権利」といった問題を論じている個所(六八‐七二ページ)では、私がいま述べたことに近いことがらが論じられているようにみえる。というのも、「負の外部効果」をもたらした人は必ずしも悪意でそうしたとは限らないし、加害者の罪や被害者の損害が相対的に軽い場合には、被害者はそれを「受忍」せねばならないこともありうる、そして、そうした権利の間の衝突は「社会慣習」を通して調整されるしかない、ということになるからである。
 しかし、折角そうした微妙な論点に触れながら、それに続く部分では「セクハラはなぜ悪いのか」、つまり被害者側からみていかにひどいことかの論証に集中し、それが加害者側からみた議論とどのように食い違い、どのように調整されるべきかといった点にはあまり触れられていない(第四章における商品化批判も同様)。もちろん、被害者側の事情を論じることが悪いわけではない。これまで相対的弱者であり、その声があまり聞かれなかった被害者(大多数の場合、女性)の声を掘り起こすのは必要不可欠なことでさえある。この点におけるフェミニズムの功績は極めて大きなものがある。そのことを十二分に認めた上であえていうのだが、上述のズレの問題を思い起こすなら、被害者側の事情のみからする糾弾は、加害者側からの感情的反撥を招き、両者がいつまでも平行線をたどるという不毛な成り行きを克服することはできないのではなかろうか(7)。何らかの被害が「負の外部効果」としてもたらされた場合、そのような「外部効果」を引き起こした側は、もちろん一定の責任を負うものとみなされ、追及されて当然である。ただその責任追及をどのような形で行なうべきかはもっと工夫されてよいように思う。そうでないと、「フェミニストのセクハラ追及は正論かもしれないけれど、恐ろしくってかなわない」という男たちの反撥をかわすことはできないのではなかろうか(ここでも注6の但し書きをみてほしい)。
 
 
 もっと踏み込んでいうなら、そもそも人間は「悪」から無縁で生きていくことができるのかという根本問題がある。「恥ずべきこと」を全くしたことがない人というのは聖人君子でなければ、自己の「悪」を認識しない、あるいは忘れやすい人ではないだろうか。「恥ずべきこと」をかかえながら生きていくのが普通の人間というものである。そうしたことを認めない社会は、夢のような理想社会か、そうでなければ途方もない偽善社会か、どちらかではないだろうか(社会主義社会はまさしく前者をつくりあげようとして、後者を生み出したのだった)。
 セクハラとか、痴漢行為とか、買春行為とか、その他の類似行為を行なったり、あるいは自ら直接行なわないまでも、「それほど厳しく糾弾するのはかわいそうだ」と弁護する人のうちには、そうした行為を「恥ずべきことだ」と意識せず、むしろ「ごく当たり前のことだ、当然に許されることだ」と考えている人もいるらしい。あまり信じたくもない話だが、官庁や大企業の接待で「抱かせるのは当然だ」という意識が広まっているという話を聞くことがあるし、批判の強い「買春ツァー」を当然のこととして組織する観光業者もまだあるらしい。このような人たちに対しては、私も強い違和感と嫌悪感を抱くし、「それは道徳的に悪だ。恥ずべきことだ」ということを突きつけてやる必要があると思う。その限りでは、私は著者に全面的に共鳴する。
 しかし、そうではなくて、それらの行為を「恥ずべきことだ」と意識しつつ、にもかかわらず、そうした「恥ずべき」ことを――その全部ということではなく、一部について――せずにはおれない衝動や誘惑を身内に感じ、「人間とはそういうものだ」と考えている人もいるように思う(8)。こうした人たちは、「道徳的に悪であり、恥ずべきだ」ということは、いわれるまでもなく分かっているのであり、にもかかわらずそれを禁止することはできない――あるいは、少なくともそれほど厳しく糾弾すべきではない――と感じている。このような人に対して、いくら「悪だ」といっても、「それは分かっているけれど」という返事しか返ってこず、堂々巡りの水掛け論になってしまう。
 いわゆる「援助交際」(少女売春)問題に関し、河合隼雄は、理由は示せなくとも「理屈抜きに悪い」と断言しつつ、同時に、「そもそも反道徳的で危険なことをやってこそ、思春期らしいのだ」として、道徳を説いても無駄だとも書いている(9)。理由は示せなくとも「理屈抜きに悪い」というのは著者の主張と一致しているが、道徳を説いても無駄だという点には著者と異なった発想がみられる。この河合論文は主題との関係上、思春期特有のこととして論が進められているが、より広く人間は、思春期を「卒業」した後も、完全に「悪」や「恥ずべききこと」と無縁ではいられない存在だという面があるのではないだろうか。もちろん、だから何をしてもよいとか、「仕方がない」「弁護できる」というのではない(もし「弁護」という言葉を使うなら、それは無罪主張という意味での弁護ではなく、有罪を認めた上で、それに対する対応策として、ケースによっては厳罰主義以外の方法を探すこともできるのではないかという意味での「弁護」である)。悪はあくまでも悪である。にもかかわらず、悪を根絶することはできないし、そればかりか、あえて根絶しようとすることは、別の種類の悪を招くのではないか。これは解決の極めて困難なディレンマである。著者の論述には、そうしたディレンマへの目配りがやや不足しているように思われてならない。
 「性の非公然性の原則」が今日でも生きているという主張(第四章)についても同様のことがいえる。確かに、大多数の人は、性に関するすべてをあからさまにすべきだとは考えないだろう。しかし、「隠すべきものが露わにされている」ということにスリリングな快感を感じることがあるというのもまた事実である。ここにはいわば自己矛盾した感覚がある。「隠すべきである」、しかし同時に(隠すべきだからこそ)「のぞきみたい」とか、ある特定の状況下で「さらけだしてしまいたい」とも感じるのである。こうした両面価値性は人間存在の基礎に根ざしている。著者はその一面だけを強調しており、そのことが本書をやや薄手のものにみせているのは残念なことである。従来の性道徳を解体するか、堅持あるいは微修正するかのいずれかしかないという断言(二一七‐二一八ページ)には、道徳と背徳の同時存在というアンビヴァレンスをかかえた人間性への洞察があまり感じられない。道徳を論じる人にありがちな傾向として、人間観があまりにも健康的であるために、現実離れした印象を与えてしまうのである。
 著者もある部分では、そうした両面価値感覚に気づいていないわけではない。ポルノ産業は性道徳があるからこそ産業として成り立つという指摘である(一九九、二一四ページ)。しかし、そこで著者はポルノ業者の矛盾を指摘することで自己の立論が完了するかに考えているかにみえる。むしろ、矛盾は人間性そのものに根ざしていると見るべきではないか。そうみるなら、「これは悪だ」というだけではすまず、そうした悪に惹かれるものをもっている人間という厄介な存在をどのように考えるべきかという方向に議論が広がっていくだろう。
 こうした問題は、やや飛躍して議論を拡大するなら、「個人的なものは政治的」というラディカル・フェミニズムの標語をどのように受けとめるかという問題とも関係している。この標語は抽象論としてはもちろん正しい。しかし、具体的な個々人の生活は無限に複雑な諸条件の織りなす中で選択されるものであり、そうした諸条件を捨象した単純な図式であれこれの行動を裁断するのは傲慢ではないだろうか。性に関わる感覚や行動は、まさに「個人的」であると同時に、種々の歴史的・社会的規定性を負荷されているという意味で「政治的」でもあるものの典型だが、その具体的あらわれは非常に微妙であり、歴史的・社会的・政治的条件の一般的列挙から直ちに導き出されるようなものではない。一般論として「個人的なものは政治的」というだけならともかく、あれこれの個人の具体的行動について、一々それを「政治的」なものと解釈して介入することは、むしろ無用な反撥を招いてフェミニズムの評判を落とすだけではないだろうか(10)
 
 
 「性の商品化」の問題に移る。著者はこの問題を論じるに当たって、「女性性」の市場だけを検討すると宣言し、その理由として、「かりに男性性市場が成立しているとしても、男性性と女性性とは代替関係にない」から、それを考慮する必要はないとする(一一六‐一一八ページ)。「女性性市場」と「男性性市場」に代替関係がほとんどないというのは著者のいうとおりだろう。だが、だからといって、前者の問題だけを考慮すれば「性の商品化」一般を論じたことになるとはいえない。「ミスコン(ミスコンテスト)がけしからん」という最大の理由は、「評価をする主体は専ら男性で、女性は評価される客体としての位置におかれている」という関係にあるのではないだろうか。つまり、社会全体における力関係がここにも反映して、非対称的な関係があるからこそ問題なのではないだろうか。著者自身、後ろの方では、各所で、「女性性」のみが商品とされていることを問題にしている(一五九、一六三、一六四、一九七ページなど)。「男性性」市場のことは問題でないといいつつ、実は、「男性性は商品でなく、女性性のみが商品である」という構造(11)を問題にしているのである。
 「女性性の商品化は許しがたい」という場合、そこで批判されているのは、いま述べたような非対称性なのだろうか、それとも女性性であれ男性性であれ「性の商品化」一般なのだろうか。差別反対の立場からは、論理的には、「男性性」も対等に商品化されればそれでよいという議論は成り立つ余地がある。もちろん、事実の問題としては、「男性性」市場は「女性性」市場よりもはるかに狭い範囲でしか成立していない。しかし、理論的には、両者がほぼ対等なものとして並ぶという可能性を排除することはできない。現実の戦術として、「ホスト・クラブ」「男性ストリップ」「売春夫」を増大させるというような展望はどちらかというと考えにくい(絶対に悪いというつもりもない)が、「ミスコン」に対抗して「ミスター・コンテスト」を開催するというような発想は成り立つ余地があるだろうし、より広く、女性が男性の「魅力」を値踏みするという関係――「値踏み」という行為はある種の市場関係を前提している――はいまでも増大しつつあるように思う。著者はこうした問題に部分的に触れてはいるが(一七七ページの注33など)、正面から突きつめず、商品化しているのは「女性性」だけだということを前提にして議論を続けている。だが、そのように前提化してしまうのは、それ自体、今日の非対称的状況を永遠化してしまうことにならないだろうか。
 更に、より広く市場の限界性について考えてみたい。著者は、「市場はたしかに便利なものであり、人々の自由と利益を両立させる巧みな制度である」「市場にはそれ自体たいへんによい性質がある」と書き(一九、一〇三ページ)、市場の全面否定論をとるわけではないことを明言している。それをうけて、「女性性市場は、市場としてうまく機能していない」(一〇五ページ)という文章を読むと、市場一般はよいが女性性市場が特殊に問題だという主張であるかにとれる。しかし、他方では、「市場は、現実には、最適化するとは限らない」(一六八ページ)という個所もあり、これは市場一般に関わるようにもとれる。つまり、市場そのものについて、その限界を指摘し、市場否定論ではないまでも市場万能主義批判という立場に立つのか、それとも市場一般はさておき女性性市場のみを問題にするのかという区別があまりはっきりしていないのである。
 おそらく、市場が「巧みな制度である」と同時に「うまく機能しない」こともあるというのは、女性性市場に限ったことではないだろう。「市場の失敗」がいわれて久しい今日、市場がすべてを解決するわけでなく、各種の矛盾をはらむことは自明である。だが、だから市場をなくすべきだということになるのかどうかが問われなくてはならない(先にも触れたが、旧ソ連では、法的には徹底した「性の商品化」の排除・禁止がなされていた)。性の商品化に限らず、およそ、自然(土地・資源・環境)の商品化、人間(労働力)の商品化、貨幣(資本)の商品化には、必ず限界があり、矛盾がある。その限りでは、マルクスやポラニーの指摘は、社会主義崩壊後の今日なお正しいものをもっている。だが、問題は、それでも市場をなくすわけにはいかないという点にあるのではなかろうか。
 カミュはかつて「重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」と書いた(12)。社会主義とは市場の全般化という病を根絶しようとして、かえって病人そのものを殺してしまうような実験だったとするなら、われわれは、商品化という病を抱えつつ、「病みつつ生きる」すべを探さなくてはならないのではなかろうか。このことは、性の商品化についても同様に当てはまるように思う。
 実をいうと、この点に関する著者の考えは微妙に揺れているようにみえる。次のような一連の文章は、性市場の全否定ではないととることもできるからである。例えば、「女性性市場は規制される他はない」という表現がある(一六八ページ)。「規制」という語は「根絶」「禁止」とは異なり、むしろその存在を前提した上での方向づけのようにとることができる。テレビ番組の有料化を提唱し、「お色気」が不快な人は受信料を返還してもらえばよいとしている(九九‐一〇〇ページ)のは、そうした番組を好む人だけが有料で見られるという、商品化の特定の形態の提唱であるようにとれる。また、「〔性教育のためにポルノを〕親が買って、子どもに教材として見せればよい」(二〇九ページ)という個所もあり、これからみると、親が子どもの性教育のために買うという目的であれば、そうした「商品」の存在を認めているかのようである。「メンバー制のクラブのようなもの」という表現もあり(二二九ページの注15)、これは規制された商品化のようにもとれる(著者はこれを市場でないと考えているようだが、メンバー制クラブというのも市場の一種ではないだろうか)。いわゆるミスコンについても、ミスコン一般が悪いという趣旨の主張と並んで、公共団体によるミスコンは行なってはならないという主張もあり(一二六ページ(13)、これは民間団体によるミスコンなら許容されるという風にもとれる。これらの個所は、瀬地山角の説く「よりよい性の商品化」論を想起させる(14)。もっとも、瀬地山の表現はやや性急で、反論を招きやすい。「よりよい性の商品化などあるものか」という反撥が当然予想される(15)。だが、商品化が様々な「悪」(差別、また性商品販売者の権利無視など)を伴うことを承知の上で、しかもそれを根絶しようとすべきでないとしたら、商品化に伴う「悪」を少しでも小さくする方向での現実的対処(規制)――「よりよい商品化」というよりも、むしろ「よりひどくない商品化」――を考えるというのが一つの態度としてありうる。もし著者のいう「規制」がそうしたことを意味しているとするならば、実は瀬地山説と隔たるところはそれほどないのかもしれない。
 だが、これらの個所はいずれもさりげない傍論として書かれており、著者自身の強い主張としては押し出されていない。前面に出ているのは、「ポルノ市場を解禁しなければならない、ということはない」(一九ページ)、「性の商品化は非とされるしかない」(二一八ページ)といったような、性の商品化の全否定にとれる議論である。また、「性の商品化は女性差別である」(一八〇ページ)という文章もあるが、これは飛躍した議論のように思われてならない。差別的な商品化が非常に多いのは事実だが、差別的でない商品化――あるいは差別性の相対的に低い商品化――を想定することは不可能ではないし、そのような方向性を探求することも不可能ではないはずである。最近では、女性自身によるセルフ・ヌードなどが新しい性感覚の女性の側からの主張として提示されている。性描写やその商品化を一般的に「差別である」と断言するなら、そのような方向の模索も閉ざされてしまうし、排除・禁止の論理しか出てこない。
 あるいはまた、商品化は必然的に公然性を求めるので棲み分けは不可能だという記述もある(一三九、二〇〇、二一九ページ)。しかし、これは性急な議論である。確かに、大規模生産・大規模流通を前提すれば、広い範囲の派手な宣伝が必然となるかもしれない。だが、小規模生産・小規模流通であれば、あまり目立たない、秘やかで、かつドギツクない宣伝だけでも営業として成り立ちうる(「メンバー制クラブ」も、その一種として考えられる)。もちろん、そのような秘やかな宣伝でさえも、それを見たくない人の眼に入ってしまう可能性を完全に排除することはできない。しかし、それは、いくら分煙を徹底しても、喫煙者がいる限り、その煙が喫煙コーナーの外に微かに流れ出して嫌煙者に届く可能性を完全には排除できないのと同様である。著者のように棲み分けを否定しきってしまうなら、商品化を少しでも否定的要素の小さい方向に誘導していくということは問題にもならず、ひたすら禁止するしかないということになりそうである。本当にそれが著者の意図なのだろうか。
 
 
 最後に、全体の論旨とはややそれるが、論の進め方という点で、「挙証責任」ということについて考えてみたい。本書では、各所で「挙証責任」という言葉が用いられている。文字通りにこの言葉が使われない場合にも、類似の発想がしばしばみられる(つまり、自説を積極的に論証する代わりに、対立する別の説を挙げて、「この考えは論証されているとはいえない」とする論法である)。著者に限らず、「挙証責任」という言葉は、最近、あちこちでかなり頻繁に使われているような気がする。それはどうしてだろうか。
 一般に何ごとかを「立証する」のは非常に難しいことであり、その責任を課された側は論争において不利な立場におかれる。もし「立証」ということを厳格に解するなら、大半の事柄は一〇〇%厳密に立証することなど不可能であり、結局、「挙証責任」を負わされた側が常に負けるということになる。そのため、「挙証責任がどちらにあるか」を前面に出した論争は、相手方に挙証責任があるといった途端に自分の側の勝利となり、それ以上の努力は必要なくなってしまう。こうして、種々の論争において、「挙証責任はどちらにあるか」がしばしば問題となり、みな、「自分たちの側に課されるのは不当だ。相手方にこそ課されるべきだ」と主張するのである。
 こうした議論の仕方は、その場を有利に乗り切るという損得計算からいえば有効な論法だということは確かであり、論争のテクニックとしては理解できる。しかし、これは議論の仕方として安易な方法であり、何ごとかを深く理解しようとする態度ではないように思われてならない。確かに一〇〇%の立証はありえないだろうが、それにしても、少しでも説得力の高い、相対的に優れた議論を提出するべく努めるという営為こそが、われわれの認識を豊かにしていくのではないか。このように考えるなら、法廷闘争とか喧嘩ではなく、理性的な討論を進めようというのであれば、挙証責任を自らに引き受ける態度の方が望ましいのではないだろうか。これはもちろん著者だけへの注文ではなく、自戒を含めた一般論としていっているのであるが。
 
 
 注文ばかり、それも「無い物ねだり」的につける書評になってしまったかもしれない。しかし、そうした注文を出したくなったのも、本書が知的刺激に満ちているからである。冒頭にも述べたが、道徳や価値について独善主義とシニシズムの両極を避けながら論じるのは実に困難な作業である。本書はその課題に挑戦し、各所で刺激的な問題提起を行なっている。この小論はそうしたスリリングな問題提起に私なりに応答してみようとしたささやかな試みである。
 
 
(1)これは、井上達夫『共生の作法』創文社(一九八六年)と共通する発想のように思える。著者はリベラリズムにかなりあからさまな反感を示しているが、リベラリズムからもこうした発想(価値相対主義批判)が出てきうるということを見落としている。
(2)例えば、規制に曖昧性が伴うのは不可避であり、曖昧さがあるからといって規制をしてならないことにはならないという指摘がある(二〇四ページ)。これは、それ自体としては確かに正当だが、曖昧さの度合という問題を無視している。曖昧さを完全に排除することはもちろん不可能だが、あまりにも曖昧性が大きいなら、ある行為を「悪」と認定しつつもあえて制裁しないという態度決定もありうる(これは当該問題が性差別に関わるか否かを問わない)。
(3)Peter H. Juviler, "Women and Sex in Soviet Law," in Dorothy Atkinson, Alexander Dallin, and Gail Warshofsky Lapidus (eds.), Women in Russia, Stanford University Press, 1977, pp. 245-249.
(4)このような態度がとられたのは重罪規定のせいではなく、そもそも社会に女性差別的発想があったからそれが反映したのではないかという反論もありうる。しかし、法曹界への女性進出度(ちなみに、上掲のJuviler論文で紹介されている、被害者側の落ち度を調べよという主張は女性の法学者によって唱えられた意見である)や、夫婦間での強姦罪も認定されていた事実などを念頭におくなら、少なくとも日本よりは差別観が低かったことは確かである。とするなら、本文で示した傾向の少なくとも一部は、過度の重罪規定の副産物とみることができよう。
(5)旧ソ連におけるジェンダーの問題については、不十分ながら、さしあたり、塩川「旧ソ連の家族と社会」石川晃弘、塩川伸明、松里公孝編『スラブの社会』弘文堂(一九九四年)、「ソ連史におけるジェンダーと家族」田中陽兒、倉持俊一、和田春樹編『世界歴史大系・ロシア史』第三巻、山川出版(一九九七年)参照。
(6)念のため付け加えるが、ここで私はセクハラ事件――あるいはその他の性差別的な事件――のすべてにおいて、加害者の罪が比較的軽いなどということをいおうとしているのではない。明確な差別意識、女性蔑視の感覚によってなされるセクハラその他の行為というものは大いにありうる。そうしたものが許し難い行為であり、糾弾に値するという点では、私は著者と意見を同じくする。ここでは、その点は当然のこととして前提した上で、それ以外の、より微妙なケースもあり得るということを問題にしているのである。
(7)「被害者に加害者側の事情まで理解するよう求めるのは酷ではないか。むしろ加害者こそ、被害者がいかにひどい目にあったかを理解すべきではないか」という反論がありうる。これはそれ自体としては完全に正当な主張である。しかし、被害者本人はともあれ、被害者の周辺にいて被害者を代弁する立場にある人は――彼らが被害者に同情するのは当然としても――もし加害者に対して公正な責任追及をしようとするのであるなら、加害者側の事情に関する冷静で理性的な理解もまたもつよう心がけるべきではないだろうか。
(8)ここで「人間とは」という表現をとることに対し、「それは男だけのことではないか。おまえは男のことを念頭におきながら、それを人間一般として語っているのではないか」という反論がありうる(この個所に限らず、この後段のいくつかの文章についても同様)。第一に、ここで直接問題になっているのは「不健全な」性的欲望(相手の意思を無視した一方的欲求)だとはいえ、「悪」「恥ずべきこと」はもっと広く、それ以外の要素も含みうる。そして、そのように広く考えた場合に、女性がそうした傾向と無縁だと断言することはできないように思う。第二に、「不健全な」性的欲望についていえば、相対的に男の方が惹かれることが多く、女性は少ないというような差がいえるのかもしれないが、これについては当面判断を留保しておきたい。
(9)河合隼雄「『援助交際』というムーブメント」『世界』一九九七年三月号、一四二、一四八ページ。
(10)吉澤夏子『女であることの希望』勁草書房(一九九七年)の議論は、私の場合と立論の仕方が異なるが、「個人的なものは政治的」という標語を性急かつ無限定的に適用しようとする傾向に批判的という点で共通する。また、異なる論点をとりあげたものだが、共通する問題に触れたものとして、塩川「ソ連言語政策史の若干の問題」北海道大学スラブ研究センター・重点領域研究報告輯、No.42(一九九七年)の付論(特に七〇ページ)参照。萌芽的な問題提起は、塩川『社会主義とは何だったか』勁草書房(一九九四年)一七〇‐一七一ページ。
(11)ついでながら、ホモセクシャルの男性を対象として、男が男に性を商品として売るという市場は――あまりよく知らないので、憶測に過ぎないが――かなりの範囲で存在しているようである。またポルノ映画などには男性俳優も登場している。性を買うのは大多数が男だという関係はなかなか揺らぎそうにないが、売る側は女性だけとは限らず、男もかなりの程度売っているのではなかろうか。
(12)A・カミュ『シーシュポスの神話』新潮文庫、一九六九年、五八ページ。
(13)この個所には注がついていて、「少なくとも国立大学、公立大学はミスコンを行ってはならない」とある(一七一ページの注12)。だが、「大学がミスコンを行なっている」などということがあるのだろうか。ミスコンを行なっているのは、あれこれの学生団体であって、大学当局はただそれに介入しないという態度をとっているだけではないだろうか。「それも容認の一種であり、実質上、正当と認めていることだ」と反論されるかもしれない。しかし、大学当局が学生団体の企画に一々善し悪しの判断をしていたら、学生の自治はどうなるのか。もちろん、極度に明白かつ切迫した危険なり犯罪性なりがある場合には介入して、中止させねばならないこともあるだろうが、そうした介入は最小限とすべきではないだろうか。私は、もし個人として、学生からミスコン企画の相談を受けたら、「そんなことはやらない方がよい」と答えるだろうが、大学の学生委員として学生代表と正式に協議する場にもし出たなら、「個々の企画の内容について良いとか悪いとかはいわない」という態度をとるだろう。
(14)瀬地山角「よりよい性の商品化へ向けて」江原由美子編『フェミニズムの主張』勁草書房、一九九二年。
(15)例えば、江原由美子編『性の商品化』勁草書房(一九九五年)所収の一連の論文参照。
 
*永田えり子『道徳派フェミニスト宣言』勁草書房、一九九七年
 
(『三田社会学』第三号、一九九八年。但し、枚数制限のために大幅に短縮した個所を当時の原稿に基づき復元した)
 
 
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