研究結果報告書
塩川 伸明
 
研究結果の目録(1992年6月−2004年6月)
 
【著書】
1.『ペレストロイカの終焉と社会主義の運命』(岩波ブックレット), 岩波書店1992年8月.
2.『終焉の中のソ連史』(朝日選書), 朝日新聞社, 1993年9月.
3.『社会主義とは何だったか』勁草書房, 1994年9月.
4.『ソ連とは何だったか』勁草書房, 1994年9月.
5.『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房, 1999年9月.
6.『《20世紀史》を考える』勁草書房, 2004年5月.
 
【編著】
7.『スラブの社会』(「講座スラブの世界」第4巻)弘文堂, 1994年12月(石川晃弘, 松里公孝両氏との共編).
8.『新版・ロシアを知る事典』平凡社, 2004年1月(川端香男里, 佐藤経明, 中村喜和, 和田春樹, 栖原学, 沼野充義各氏と共同監修).
 
【論文ないしそれに準ずるもの】
9.「ペレストロイカとその後――『民主化』のパラドクス」和田春樹, 小森田秋夫, 近藤邦康編『〈社会主義〉それぞれの苦悩と模索』日本評論社, 1992年9月.
10.「社会主義改革論の挫折――経済学者への問いかけ」『社会主義経済学会会報』第30号, 1992年11月. 〔その後、著書に第5章として収録〕.
11."Russia's Fourth Smuta: What Was, Is, and Will Be Russia?", in Osamu Ieda (ed.), New Order in Post-Communist Eurasia, Slavic Research Center, Hokkaido University, 1993.
12.「旧ソ連社会のとらえ方――2層認識から4層認識へ」『ソビエト研究』(白石書店)第9号, 1993年4月. 〔その後、著書に第1章として収録〕.
13.「ソ連の解体とロシアの危機」近藤邦康, 和田春樹編『ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較分析』東京大学出版会, 1993年11月.
14.「ペレストロイカの終焉とソ連の解体――歴史の必然性再考」『ロシア研究』第18号, 1994年4月.〔その後、著書に第4章として収録〕.
15.「1993年の歴史学界――回顧と展望(ヨーロッパ・現代・東欧)」『史学雑誌』第103編第5号, 1994年5月.
16.「旧ソ連における複数政党制の出発」木戸蓊, 皆川修吾編『スラブの政治』弘文堂, 1994年11月.
17.「旧ソ連の家族と社会」石川晃弘, 塩川伸明, 松里公孝編『スラブの社会』弘文堂, 1994年12月.
18.「伊東孝之氏の書評へのリプライ(回答)」『ロシア史研究』第56号, 1995年3月.
19.「『現存した社会主義』の社会科学へ向けて」『比較法学』第57号, 1995年12月.
20.Toward a Historical Analysis of the "Socialism That Really Existed," in Shugo Minagawa (editor in chief) and Osamu Ieda (editor), Socio-Economic Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World, Slavic Research Center, Hokkaido University, 1996.
21.「ペレストロイカ・東欧激動・ソ連解体」歴史学研究会編『講座世界史』第11巻(岐路に立つ現代世界), 東京大学出版会, 1996年5月.
22.「『社会主義と全体主義』再論――『〈現存した社会主義〉の政治学』へ向けての準備ノート」(討論ペーパー)北海道大学スラブ研究センター重点領域報告輯, No. 14, 1996年9月.
23.「政界再編分析の視点」『大統領選挙後のロシア政局の行方』北海道大学スラブ研究センター重点領域報告輯, No. 15, 1996年9月.
24.「ロシア・ナショナリズム――その歴史と現在」東京大学シンポジウム《ロシアはどこへ行く?》報告ペーパー,1996年9月
25.「第5章 上からの革命」「第6章 盛期スターリン時代」「補章 ソ連史におけるジェンダーと家族」田中陽兒, 倉持俊一, 和田春樹編『世界歴史大系・ロシア史』第3巻, 山川出版, 1997年4月.
26.「社会主義在世界史中的意義」(「世界史における社会主義」季衛東氏による中国語訳)香港中文大学『21世紀』1997年10月号.
27.「ソ連言語政策史の若干の問題」北海道大学スラブ研究センター重点領域報告輯, No. 42, 1997年10月.
28.「概観――ロシア政治への視点」ユーラシア研究所編『情報総覧 現代のロシア』大空社, 1998年2月.
29.「『体制転換の目的』は『西欧化』か?」『スラブ・ユーラシアの変動』(平成9年度重点領域研究公開シンポシウム報告集)北海道大学スラブ研究センター, 1998年3月.
30.「体制転換の見取り図」『ロシア・東欧学会年報』第26号(1997年版), 1998年4月.
31.「ソ連解体後のロシアとユーラシア空間」『国際問題』1998年11月号.
32.「ソ連言語政策史再考」『スラヴ研究』第46号, 1999年3月.
33.「言語と政治――ペレストロイカ期の言語法をめぐって」皆川修吾編『移行期のロシア政治』溪水社, 1999年2月.
34.「『20世紀』と社会主義」『社会科学研究』第50巻第5号, 1999年3月.
35.「帝国の民族政策の基本は同化か?」『ロシア史研究』第64号, 1999年4月.
36.「『もう一つの社会』への希求と挫折」『岩波講座・20世紀の定義』第2巻(溶けたユートピア), 2001年7月.
37.「集団的抑圧と個人」江原由美子編『フェミニズムとリベラリズム』勁草書房, 2001年10月.
38.Комментарии // Пространственные факторы в формировании партийных систем . Диалог американистов и постсоветологов. (「コメンタリー」『政党システム形成における空間的要素――アメリカ研究者とポスト・ソヴェト研究者の対話』), Slavic Research Center, Hokkaido University, February 2002.
39.「歴史的経験としてのソ連」『比較経済体制研究』第9号, 2002年5月.
40.「第10章 社会主義体制の変貌・成熟・停滞」「第11章 ペレストロイカの時代」「第12章 ロシア連邦」和田春樹編『ロシア史』山川出版, 2002年8月.
41.「3つの自由主義:市場経済(自由経済)・経済自由主義・政治的リベラリズム」『比較経済体制研究』第10号, 2003年7月.
 
【書評】
42.アレクサンドル・ツィプコ『コミュニズムとの訣別』『エコノミスト』1994年8月2日号.
43.原暉之『インディギルカ号の悲劇』Russian Review, vol. 54, No. 3, July 1995.
44.石井規衛『文明としてのソ連』『史学雑誌』第105編第3号, 1996年3月.
45.M・ゴルバチョフ『ゴルバチョフ回想録』『へるめす』(岩波書店)1996年9月号.
46.大野健一『市場移行戦略』『へるめす』(岩波書店)1997年3月号.
47.M. Malia, The Soviet Tragedy; M・メイリヤ『ソヴィエトの悲劇』『国家学会雑誌』第110巻第11=12号, 1997年12月.
48.富田武『スターリニズムの統治構造』『スラヴ研究』第45号, 1998年3月.
49.永田えり子『道徳派フェミニスト宣言』『三田社会学』第3号, 1998年7月.
50.Terry Martin, The Affirmative Action Empire: Nations and Nationalism in the Soviet Union, 1923-1939,『ロシア史研究』第72号, 2003年5月.
 
【事典項目】
51.「CIS」「ソ連」「ソ連共産党」「ペレストロイカ」「ロシア連邦」など『世界民族問題事典』平凡社, 1995年9月,新訂増補版,2002年10月.
52.「『史的唯物論』」「ソヴェト」「ブハーリン」「ペレストロイカ」『岩波哲学・思想事典』岩波書店, 1998年3月.
53.「ロシア連邦」「5カ年計画」『CD・ROM版世界大百科事典』日立デジタル平凡社, 1998年(「ロシア連邦」についての一部改訂版, 『平凡社百科年鑑』2000年).
54.「言語政策」「在外ロシア人」「ソヴェト」「ソ連」「ペレストロイカ」「民族問題」「ロシア連邦」など『新版・ロシアを知る事典』平凡社, 2004年1月.
 
【インタヴュー】
55.「フランス革命からソ連消滅までの200年」『毎日ムック・シリーズ・20世紀の記憶, 新たな戦争, 民族浄化・宗教・電網, 1990-1999』毎日新聞社, 2001年1月.
 
【小文】
56.「(アンケート回答)ソ連解体とロシア史研究」『ロシア史研究』第51号, 1992年7月.
57.「ロシアの武力衝突」共同通信社より配信, 『高知新聞』1993年10月8日, 『信濃毎日新聞』1993年10月9日などに掲載.
58.「『ロシア新聞』と『独立新聞』」東京大学社会情報研究所『情報メディア研究資料センターニュース』第4号, 1993年12月.
59.「スターリンのテロルの犠牲者数について」『社会主義法のうごき』第68号, 1994年1月.
60.「ソビエト史研究会の曲がり角に当たって――個人的感想」『ソビエト史研究会会報』1994年11月号.
61.「『現存した社会主義』文化として理解も必要」『朝日新聞』1995年3月15日夕刊.
62.「論文・レポートの書き方」私家版ワープロ原稿, 1995年7月.
63.「『停滞の時代』と偏見」群像社『群』第7号, 1995年10月.
64.「文化としての『現存した社会主義』」(講演要旨)東京女子大学『史論』第49集, 1996年3月.
65.「タジキスタン内戦とロシア軍――『精神(こころ)の声』の背景」(映画『精神の声』プログラム), パンドラ社, 1996年7月.
66.「ロシア人にとっての中央アジア――『精神(こころ)の声』に寄せて」『ユリイカ』臨時増刊(総特集ソクーロフ)1996年8月.
67.「菊地昌典先生を偲んで――《歴史の主体でもあった歴史家の時代》の終わり」『敬愛大学国際研究』第2号, 1998年11月.
68.「二つのゴルバチョフ論」上・下, 『UP』1999年1,2月号.
69.「プーチン氏当選, わたしはこう見る」『北海道新聞』2000年3月28日.
70.「ロシア権力の行方」『読売新聞』上・下, 夕刊, 2000年4月3日, 4日.
71.「大会印象記」『ロシア史研究会ニューズレター』第41号,2001年2月.
72.「地域よもやま話――〈ユーラシア〉地域研究?」『日本比較政治学会ニューズレター』第12号,2004年2月.
 
【座談会】
73.「中国とロシア――その党史と政治改革の構図」(加々美光行, 緒方康氏と)『中国21』第14号(2002年10月).
 
【その他】
2001年春に個人ホームページを開設し, それ以来,その中の「研究ノート」「読書ノート」などの欄に、一連の未定稿を「電子版ディスカッション・ペーパー」として掲載した. また、いくつかの学会(国際的なものを含む)で報告者ないしコメンテーターをつとめた(詳細省略).
 
研究結果の説明
 この12年間における私の研究は、大別すると、a歴史としてのペレストロイカ、b「現存した社会主義」の社会科学、cロシア・旧ソ連諸国の民族問題、dソ連史全般、e現代ロシア政治、fロシア・旧ソ連地域の研究全般にかかわる基盤整備、g社会科学・歴史学の原理論・方法論など、といった領域に分かれる。a・b・cの大半は個別研究であり、d・e・fの多くはより概観ないし総論的な研究、そしてgは専門の枠を超えた、やや冒険的な問題提起ということになる。
 もっとも、このような分類は後から振り返ってのものであり、研究遂行の過程に即していえば、必ずしもそれぞれの作品が明瞭にどれかに分類されるという位置づけのもとに進められたわけではない。aはもともと「現状分析」ないしその直後の反省という形で始めたものだが、対象からやや時間を隔てる中で、改めて「歴史」として位置づけ直そうとするに至ったものであり、1990年代初頭においてはeと未分離だった。また、bの問題意識はaと密接に関係して育ってきたものであり、この両者も切り離せない。cは主としてペレストロイカ期を対象として研究を進めており、その意味でaと重なるが、より広い文脈ではdやeとも重なり合っている。fは外部からの要請によって従事した面もあるが、これまでの自分自身の仕事との接続も意識しながら進めたので、他の仕事と切り離されたものではない。更にgは、それ自体としては「専門」の枠を超えたものであるとはいえ、こうした領域にまで手を伸ばさねばならないと感じるようになったのは、専門研究の過程でぶつかった多くの根本問題の再考が発端をなすという内発的連関がある。
 このように、この間の私の研究は、必ずしも明瞭に区分されないいくつかの方向に、いわば蜘蛛の巣状に手探りで広がってきたという観を呈している。このことは何よりも、研究対象の巨大な変動――「社会主義圏」として研究してきた地域が「旧社会主義諸国」ないし「体制移行諸国」となったこと――と関係している。研究対象の変動が研究者の側にはね返って来るという事情は、どの分野でも一般的によくあることだとはいえ、このように巨大かつ根本的なレヴェルでの変動はおそらく滅多にないことであり、それをどのように受けとめるかはきわめて深刻な問題だった。私の教授昇任の年は偶然ながらまさにソ連解体直後の1992年であり、「ソ連なき世界」をどのように認識し、研究者としてどのようにそれに取り組んでいくべきかをめぐる暗中模索と悪戦苦闘がこの12年間の私の基調をなしている。社会科学・歴史学の原理論・方法論などという、途方もなく大きく、「手堅い専門研究」の枠に収まりきらないテーマに身の程も弁えず手を伸ばし始めたのも、研究対象の根本的変動という現実の中では、ここまでさかのぼらなければおよそ議論を進めることができないのではないかと考えるようになったためである。これはもちろん私個人の能力の限界を遙かに超えた、あまりにも大きな課題であり、困難すぎる重荷を背負い込んでしまったことになるが、逆に、それだけにやり甲斐の大きい、チャレンジングな状況に直面していることでもあると考えて、自分を叱咤激励しながら歩んできたのがこの12年間だった。
 ともあれ、この間に公表された仕事を、先に挙げたいくつかの方向性に分類しながら簡単に解説するなら、以下の通りである。
 a歴史としてのペレストロイカ。先に記したように、私の教授昇任の年はまさにソ連解体直後の1992年だったが、その直前までゴルバチョフ政権下ソ連の政治・社会変動=ペレストロイカを「現状分析」として追っていた私は、91年8月政変から同年末のソ連解体へと至る大変動の中で、一つの時代の大きな区切りの到来を感じ、終わることによって歴史となった一時代を「歴史として」捉え直すことを自己の主要課題とすることを決意した。それははじめのうち、「つい最近まで現状分析として従事してきた作業への、直後の時点での反省」という意味をもっていた。こうした性格をもつ仕事としては、著書1,3(第3章),4(第4章=14),論文9・16・21・30,書評42・45,小文68などがある(それらのうち、暫定的とりまとめとしての位置を占めるものとして21が挙げられる)。こうした作業を続けるうちに、対象との時間的距離が次第に大きくなり、いよいよ本格的な「歴史研究」に進むことを考えるようになったが、取り組みを進めれば進めるほど、課題の大きさを痛感させられるようになった。ここ数号の「研究・教育年報」にほぼ毎回のように、「過度に野心的な課題なので、具体的な成果にはまだほど遠い」と書いてきたが、これは偽らざる実感である。これを自分の最大の研究課題とする位置づけ自体は一貫しているが、その実現のためにも、先ずいくつかの迂回路を経ねばならないのではないかと考えるようになり、当面の研究の重点はbおよびcに移るようになった。そのため、「本来の目標」への本格的な取り組みはまだ今後に残されている。
 b「現存した社会主義」の社会科学。いま述べたような事情から、1990年代半ば以降の私の仕事の中では、この領域が中心的な位置を占めるようになった。一連の準備稿として、著書1の後半部、3の大部分(1、10を含む)、著書4(第1章=12、第2、3章)、論文19・20・22・26・34があり、それらの集大成として著書5を刊行した。この著作は粗削りな大風呂敷ではあるが、この間の研究を体系的にまとめたもので、今後に向けての里程標たらしめようという野心を秘めたものである。これに引き続くものとしては、著書6(第5−9章)、論文36・39などがある。
 cロシア・旧ソ連諸国の民族問題。aがあまりにも複合的なテーマであることから、その中の焦点としてこのテーマを位置づけたが、そのことは、更に歴史的にさかのぼってパースペクティヴを構築する作業を必須のものとした。そのためもあり、この領域での研究は、この時期の研究の中でかなりの比重を占めることになった。具体的成果としては、論文11・13・24・27・32・33・35、書評50などがある。なお、この研究結果報告がカヴァーする時期の範囲をわずかにはみ出すが、2004年7月に『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』(岩波書店)が刊行されたことを付記する。
 dソ連史全般。この領域に属するものとしては、著書2(これはペレストロイカ期における歴史論争の検討を含み、その意味では、部分的にaに属する面もある)、論文15・17・18・25・40、書評43・44・47・48などがある。このうち、25および40はいずれも共同執筆の概説書のいくつかの章を担当したものだが、ソ連史の全体に一定の見通しをつける作業の一環であり、将来執筆を予定している通史の予備作業という意味もある。その他、かなり長いインタヴュー55で、大風呂敷ながらソ連史全体についての巨視的見方を打ち出すことを試みた。
 e現代ロシア政治。研究の重点を歴史に戻すことを決意したため、量的には次第に減少したが、細々と継続している。成果としては、著書4(第5、6章)、論文11・16・23・28・29・30・31・38・41、また小文として69・70がある。
 fロシア・旧ソ連地域の研究全般にかかわる基盤整備。この領域は目に見える成果の形をとったものはそれほど多くないが、それなりのエネルギーを注ぎ込んだ。特に、8に挙げた事典は、形式的には7人の共同監修ということになっているが、種々の事情から私が実質上中心的な役割を担うことになったものである。この本は元来1989年に刊行されたものの全面改訂新版だが、その間にソ連解体という大変動を挟んでいるため、どのような形で全体を再編成すべきか、かつての事項解説は今日どのように位置づけ直され、どのような補充をなすべきかなどを幅広く考える必要があった。苦労の多い仕事ではあったが、やり甲斐のある仕事でもあった。これ以外に、編著7、事典項目担当(51-54)などもこの領域に属するものといえる。
 g社会科学・歴史学の原理論・方法論など。本来の「専門」からはみ出したものであるため、これといえる「成果」は乏しいが、自分なりに努力を試みた。公刊されたものとして著書6、論文35・37・41、書評49などがあり、またホームページに載せたいくつかの「電子版ディスカッション・ペーパー」も、この領域における暗中模索の跡を示している。
 
全般的回顧および今後の研究計画
 このように研究経過を振り返ると、私の研究にはいくつかの特徴があったことを改めて確認させられる。私はもともと主流の政治学(いわゆるpolitical science)を学ぶことから出発したわけではなかった上に、研究対象としてのソ連という国が特異な研究方法を要求したことから、良かれ悪しかれ「通常の政治学」とはかなり異なった独自なスタイルの研究を自己流に進めてきたが、その中で、一方ではソ連研究の「通常科学」としての確立を試み、他方では「通常科学」の底にある暗黙の前提の問い直しを不断に進めるという2正面作戦が常に私の念頭にはあった。そのこと自体は以前から一貫した姿勢だが、ソ連解体という転機は、それなりに積み重ねられつつあった「通常科学」としてのソ連研究をもう一度根本から作り直すという作業を要請した。こうして原理的レヴェルで課題が幾重にも複層化した上に、具体的な研究の諸条件も短期間に大きく変動した。現状分析と歴史研究の両立の困難性も一段と大きくなったし、ソ連解体により研究対象国が15の独立国に分化したことは、それらのすべてを視野に入れ続けることを極度に困難にした。さらに、情報量の圧倒的拡大、研究環境の急速な変化などにどのように立ち向かうかという問題にも直面し、確たる展望をつかめないままに手探りの模索を続けてきたのがこの12年だった。
 もともと平坦ではない道を歩むというのは自分自身の選択だったが、それがこれほどまでに起伏の大きいものだということは予測を超えていた。年齢とともに、生理的なものも含めた自分の限界もみえてくるようになり、文字通り「日暮れて道遠し」の感が深い。それでも、何とかそれなりの仕事を積み重ねることができてきたのは、恵まれた環境に負うところが大きい(もっとも、近年の「大学改革」の嵐の中で、大学は果たして今後とも研究の場たりうるかという深刻な疑問が浮上しつつあるが、それでも、そうした全般的状況の中でいえば相対的に恵まれた条件が本学部・研究科ではまだ何とか維持されている)。感謝の念をもちつつ、今後も、困難ながらやり甲斐の大きい開拓作業を少しずつではあれ続けていきたいと念じている。
 具体的な今後の計画としては、先ず上記cの領域で、先に刊行された『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』の続編として、『国家の構築と解体――多民族国家ソ連の興亡U』の完成に力を注ぐ。その上で、年来の最大課題であるa(仮題として『歴史としてのペレストロイカ――ソ連邦の解体』)のとりまとめにかかりたい。また、これも長年にわたって改訂を続けている講義ノートをもとにして、dの集大成たるソ連史の通史を書くことを計画している。ロシアに関わる概説的・入門的な書物の執筆も予定している。具体的な予定のあるものは以上だが、それ以外にも、種々のテーマに取り組む必要を感じ、断片的な準備を進めている。
 このように、果たすべき課題が膨大である一方、年齢とともに体力は衰える一方であり、なすべきことのうちのどれだけが現実に達成可能かと考えると、心許ない感におそわれる。それでも、できる限りのことはしておかねばならないので、一歩ずつ歩み続けていきたい。
 
 
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