(淡青評論)『東京大学学内広報』1334号(2006.4.12)
「勝ち組」「負け組」
「勝ち組」「負け組」という言葉が広く使われるようになって久しい。はじめのうちは流行語特有の抵抗感もあったが、今ではすっかり定着してしまって、この言葉を全然使わずにいるのは難しいくらいになっている。
ところで、ある年齢以上の人たちは覚えているはずだが、この言葉はかつては全く違う意味で用いられていた。簡単に言えば、太平洋戦争終結後に在ブラジル日系人の間で、日本敗戦という事実を認める「負け組」とそれを拒否して日本が勝利したはずだと信じる「勝ち組」の争いが起きたというのが、この言葉の由来である。三省堂の『戦後史大事典』によれば、この意味での「勝ち組」「負け組」の争いは1960年代まで続いていたとのことだし、この事典は1991年初版の後、何回か版を重ねて今日に至っているから、こうした用語法が意識されていたのは、それほど遠い昔のことではない。
本来の意味からかけ離れて使われているからけしからんなどと言うつもりはない。言葉というものは常に流動し、変化していくものである。もっとも、他者とのコミュニケーションを大事にしようとするなら、いつのまにか何とはなしに用法が違ってしまうというのではなく、意味変化のプロセスについて自覚的であろうとする姿勢が必要ではないかと思うが、それはともかく、言葉の変化自体は不可避であり、それを押しとどめるべきだなどと考える必要はない。
ただ、この言葉の場合、意味の違い方が極端であり、今日の用法を聞きながら古い用法を思い出すと、どことなく皮肉な感じがして、微苦笑を誘う。わが世を謳歌しているはずの「勝ち組」が実は幻想にしがみついているだけではないかとか、「負け組」というのは苦い真実をきちんと見つめている人のことではないかなどと考えると、ものの見え方が多少違ってくるような気がする。
ところで、本学の教員および学生は、現役であれOB・OGであれ、どちらかというと「勝ち組」に属するとみなされることが多いようである。それはそれでめでたいことなのだろうし、大学も競争の波にさらされる今日、「負け組」に転落せずに「勝ち組」の座を確保するための方策を真剣に考えなくてはならないのかもしれない。しかし、世間で「勝ち組」と思われているものも、その「勝ち」が実は幻想的なものだったり、気づかれにくい「負け」の要素を潜在させたりしているということがあるのではないか――そんなことをたまには考えてみるのも、全く無意味ではないように思われる。現在進行中の大学改革が、価値観の画一化を暗黙に前提したひたすらな「勝ち組」追求になってしまわないことを祈りたい。
(付記)この小文の原稿は2005年末に書かれた。2006年になって「勝ち組」「負け組」をめぐる議論がかまびすしくなっているが、小文はそれを反映しているわけではない。
塩川伸明(大学院法学政治学研究科)